七章
和彦が家に着いた時、すでに辺りは真っ暗だった。家の周辺まで来ればそれぞれの家から漏れ出る光のおかげで道路も照らされていたが、市街地から集落に入るまでの畑道は街灯一つなく、照らすのは自転車のライトだけ。
それでも和彦に怖いという感情は無かった。いつも通り。十六年も生きていれば嫌でも馴れる。
開閉式の郵便受けを確認して、それから家に入る。そこまでが習慣。朝刊はお母さんが、夕刊はタイミングよく農場から返ってくる和彦が取る。
が、流石に今日は遅くなりすぎたか夕刊はポストの中に残っていなかった。代わりに申し訳なさそうに小さな白い紙が日の目を浴びる前の新芽みたく遠慮がちに待っている。
「何だこれ?」
基本的に新聞と年賀状くらいしか入らない郵便受けだからこのような白い紙は珍しい。
訝し気に思いながらも和彦は手を伸ばした。
手で触れてみたことで一つ分かったことがある。ただの白い紙ではなく立体的になっている事。
「手紙?」
目で確認していないから確実な事は分からなかったが手触りの触感がそう告げていた。
「でも、誰が、何で?」
和彦はその手紙の端を握り郵便受けから引き抜く。
ラブレターとも違うような感じで封の上部に『和君へ』と。
和彦は両親にその手紙の存在をバレないように誤魔化しながら、自室まで持ち込んだ。
自分の机に腰掛け、一呼吸おいてから手紙の封を切る。
なんの可愛げもない白い封筒からなんの可愛げもない白い紙が出てくる。
「マトリョーシカかよ」
そんな質素な手紙の文が凝っているわけもなく、これまた一行で言いたい事すべてが綴られていた。
『明日の夜、六年前に七夕の星空を見た場所に来てほしい。 沙織』
本当にそれだけ。
手紙というよりも果たし状の方が近いのではないだろうか。
「明日か……」
何より和彦はこの手紙の文面に対してあまり乗り気にはなれなかった。理由は二つある。一つは、今の和彦と沙織の関係性だ。
スピカに告白すると決めた日、和彦と沙織は喧嘩別れになるような形で離れ離れになった。
今冷静な状態で振り返れば、沙織に対して酷いことも言ったし、何よりスピカに寄り付いていった和彦自身が間違いだった。
だからと言って割り切ってお礼と謝罪なんて出来るわけがない。顔だって合わせたくない。気まずいに決まっているから。
理由の二つ目は日付だ。明日に、二人で七夕を見た場所、つまり高梨山で会うという事。
奇しくも明日もまた七月七日。七夕なのだ。六年前いきなり沙織を失った場所で会うというのはどうしてもデジャヴに思えて仕方がない。
日付、場所、状況。すべてがキレイにかみ合わさっていて和彦には嫌な予感しかしなかった。
明日は日曜日。流石に今日一日で和彦の精神もボロボロになっていたこともあって厄介事は考えないようにし、眠りにつくことを決めた。
正直、今さらに厄介事を考えようとしても頭は回らない。
だが、眠ったからといって事が解決するわけでもない。
翌朝。日曜日の朝日を浴びながら、和彦は想像していたよりも清々しい朝を迎えた。
スピカに振られ、散々たる罵声を浴びせられながらも、精神的ダメージは想像していたほどでもない。おそらく天音にあの場でフォローしてもらえたのが大きいのだと思う。
朝に日差しを浴びながら今日も見事なまでに透き通る晴れを前にして、心のどこかで「死ななくてよかった」と思えた。
だが、生きるという事は厄介なことを抱え続けるという事。昨晩無理やり失念した沙織の手紙は依然として机の上にある。
リミットは夜。おそらく星が出るまでに答えを出さなければならない。
懸命になって和彦は布団の中で考えた。今日一日どのように行動するのが正しいのかを。高梨山に登って沙織に会うのが正しいのか。会ったところで一体何の話をする? どうやって前の喧嘩を詫びる? そもそもあれは喧嘩と呼べるのだろうか。
現実というのはあまりにも非情なもので、悩んでいるうちに昼が過ぎ、夕方が過ぎていく。
和彦もいたたまれなくなって農場にやって来たものの、結局することは何も変わらなかった。
野菜を見てもどれが収穫時なのかなどの判断は一切できず、まるで画家がスケッチ前に野菜を眺めるように、ただ茫然と自分の育ててきた子供たちを眺めていた。
「このまま時が過ぎるのを待とうか?」
辺りが暗くなりはじめ、夕方から夜に変わった頃、和彦の頭の中はこのまま農場にいることを選ぼうとしていた。
明日は月曜日だ。嫌でも沙織とは顔を合わせることになる。隣に座っているのだから、話さないことはここ最近何度もあったが、目くらいは合う。目が合わずとも視界には入る。
もし、沙織が何か言いたいことを抱えていて呼び出しているのなら明日でもいいだろう。明日強制的に会うのだからわざわざ六年前二人が離れ離れになるきっかけとなったスポットに行く必要なんてない。
「あんた、そんなとこにおったんか」
こんな夜中に誰かが和彦の農場めがけて歩いてくる。いや、この土地では場違いな関西弁を使っている以上向かってきているのは一人しかいないが。
「詩瑠。お前まだこんなちんけな田舎にいたんだな」
「まぁな。サオの事が心配やし」
詩瑠は「そんなうちの身の上話よりあんたの事や」と話を無理やりにでも捻じ曲げる。世間話など一切する気は無いのだろう。おそらく詩瑠は沙織が送った手紙の事を知っている。「あんたいつまでここにいるつもりなん? もう夜ゆうてもえぇ時間やと思うけど」
「ずっと……」
茄子の花を眺めながら言った。
茄子の花はいい。トマトやキュウリのように弾けた黄色い花ではなく、落ち着いた紫の花を咲かせる。プチアジサイのようだ。
心を落ち着けてくれるし、明るく輝いているだけが正解じゃないと教えてくれているようで。
「じゃあ、あんたはサオの事を無視するってわけやな」
詩瑠のはっきりした物言いに和彦の心も一瞬で穏やかではなくなった。
「別に無視するわけじゃない。明日になればどうせ学校で会える。わざわざ山登って会う必要ないだろ」
「でも、サオはもう山の上にいると思うで?」
「そんなのは知らん。俺にだって行動の自由くらいある」
頑なに主張を変えない和彦を見てか詩瑠もどこかやりにくそうに表情を歪めながら言葉を続ける。
「せやったら明日サオに会えへんとしたらどないするん? ほら、あの時と一緒や。六年前。当たり前にやって来ると思ってた日常が消えるみたいに」
デリカシーもなく人のトラウマにも近い話を平然とした声音で持ち出す詩瑠。そんな詩瑠に対して柄にもなく「お前」と殴りかかる勢いで和彦は飛びかかった。けれど詩瑠は一切動じない。拳が詩瑠の頬にぶつかる直前まで逃げも隠れも、動揺すらせず詩瑠は堂々と立ち続けていた。その真っ直ぐな瞳が和彦の理性にストップをかける。
「なんで……お前がそれを知ってるんだよ」
詩瑠は沙織が東京に家出してから出会った友達のはずだ。確かに沙織が己の経緯を話していたのなら知っているかもしれないが、それでも赤の他人。それ以上に『日常が消える』などという沙織ではなく和彦の心中を察した言葉に殴る寸前ながらおかしさを覚えた。
「ホンマに殴られるかと思ったけど最後の最後で察しのえぇ所を見せたな」
詩瑠からしてみれば拳が眼前まで迫っているのに依然としてピクリとも動かない。それ以上に笑みさえこぼす女に一種の脅威のようなものを覚えた。
「お前、何者だよ……」
人の心を読み、恐怖という感情を持たない。ふらふらと歩いているのかと思えば東京にも帰らずここ数日この田舎で日々を過ごしている。とても普通の女子高生とは思えなかった。
だが、詩瑠の回答は和彦の想像していた遥か上を行く。
「ウチは冥界の使者。あんたらにとっては死神とでも名乗っといた方が通りがえぇか? 別にゴッツ物騒なもんとはちゃうんやけど」
流石に和彦も言葉にならなかった。関西弁で「ウチは死神です」と。一種の漫才かとも思ってしまうが、詩瑠の目は至って真剣。
「あと、詩瑠ってのもあんたに変な勘繰り入れられへんための偽名な。ウチの本名はシルヴィアや」
いよいよ意味が分からなかった。だが、それでも一つだけ、目の前に死神がいて、それが沙織と仲良くしているという事は。
「じゃあ沙織は……」
「あぁ。死者な。もうこの世界にはおらん人間」
詩瑠――――いや、シルヴィアはためらうこともなく答えた。
「ホンマやったらウチがこうやって干渉するんもあんま良くないんやけどな。これ以上放って置いたらサオの方が不憫やわ」
シルヴィアは説教をするように殴りかかろうとしていた和彦の腕をつかみ、グイっと顔を近づけてくる。
相手が可愛げのある女子ならそれだけでもドキドキしそうな状況。だが、和彦の頭の中は大混乱な上、そもそもここ数日で色々ありすぎて心が平常では無い事と相手がもはや可愛げもない死神だという事が掛け合わさって、冷静な感覚などどこかに消えてしまったらしい。
「ったく、あんたほんまに話にならんわ。こうなったら無理やりでもえぇから大事なもん思い出させてやる」
そこまで啖呵を切ったのちにシルヴィアは少し距離を取り、相変わらずの真剣なまなざしで、必要事項だと確認を取る。
「あんた、六年前高梨山で何があったんか覚えてないって言っとったな? でも、まさか、ほんまにあんたが疲れ切ってて気が付いた時には家で寝てたなんてあほくさい話やとは思っとらんやろ」
問われたところで、和彦の認識が変わるわけでは無い。それでも話をスムーズに進めるため何も言わず頷いた。
冥界の使者が言うのだからやっぱあの時何かがあったのだ。もっと言えばその何かのせいで沙織は消えた。いや、シルヴィアの言葉を借りるなら死んだ。
「端的に言ってしまえばあんたの症状は解離性健忘って症状や。過度のストレスや恐怖の映像に対して心と体を守るために脳がその映像を記憶せずに忘れてしまうもん」
シルヴィアによればこの症状が起こるのは女性の方が多いらしいが、精神を守るためには至って普通の働きらしい。
「レイプされていた時の事をしっかり覚えとらんとか、虐待されてたけど詳細は忘れている。もっと短期的に言えば家が燃えたけどその前後を覚えとらんとか――大事な人の死を目の前で目撃した、とかな」
シルヴィアは勝手に成長具合が頃合いのキュウリを切り取り、それを食しながら話を続ける。
「じゃあ、俺にその時の記憶がないのも、目の前で沙織が死んだから……? 俺は沙織が死んだことを知っていたのか?」
シルヴィアはキュウリを頬張りながら「せや」と。
「あの日、二人は星を眺めてた。あんたが誘ったからな。サオも二人だけでお出かけやってその日をずっと楽しみにしとったんや。せやけど何やあの期待の裏切り方は? あんたずっと星ばっかり見て、サオの事なんかちっとも気にかけとらんかったやろ」
「いや、そんな事は……」
「あった。あんたは星ばっか見上げとって、あの日ほとんどサオと目すら合わせとらん。サオは内心ずっとあんたと二人のこの時間、星ばっかや無くて自分の事も見てほしいって思っとったのに。夜なのにちょっと化粧して、お気に入りの服着て、色々準備してったんやから」
確かに和彦もその日の沙織の見た目や服装を褒めた覚えはない。記憶障害とは別にその日、沙織が何の服を着てたかすら覚えていないのだから。
「で、ほんまに星の話以外何も話はせずあんたの持ってたタイマーが鳴る。リミットの十一時や。普通女子からしてみれば天体観測デートはおしゃべりがメインなんやで。綺麗な星の下。好きな男子と他愛もない話で盛り上がって、二人でくだらないことに笑ってそんな時間が楽しいんや。よっぽどのリケジョでもない限り、星なんかどうでもええ」
「そんな事!」
「ないって言いたいんか? あんたついこの間身をもって体験したんとちゃうん? 高橋スピカ。あの子二人で星を見たことに対して楽しかったって言っとったか? 確かに彼女の目的が赤星天音を潰すための計画だったとしても振るときにその話を持ち出してくるとか根に持ってたんとちゃうん?」
つい昨日の出来事に心の傷を二重に抉られているようで和彦も閉口してしまう。だが、確かにスピカはあれを楽しいとは思ってなかったとはっきり言ってきた。
「サオも同じやった。それでも楽しそうに語るあんたの顔を見て心のどこかに折り合いをつけようと頑張っていたんや。でも気持ちは抑えきれんかった」
シルヴィアは「んで、こっからがあんたの知らん話や」と念を押したところで話を続ける。
「その抑えられん『和君に振り向いて、私の事も見てほしい』という気持ちを悶々と抱えながら下山しているときサオはあるものを見っけた」
一輪の花。それは白い、線香花火のような弾ける綺麗な花だったとシルヴィアは言う。
「確か名前はダイモンジソウやったかな。その花を見てサオはひらめいた。『この花を渡せば和君も少しは私の事を見てくれるのではないだろうか』と。サオは一目散にその花めがけて走り出した。あんたも『沙織、どこに行くの? 危ないよ』と止めてはいたけどそれで止まるような女でない事くらいは分かるやろ」
「だが、その花の前までたどり着いた時、問題が起きた。遠くからでは地形がよう分からんかったんやけど、近づいてみたらその花、崖から地面と平行な向きで生えとったんや。せやからサオがその花の根っこを掴もう思ったら、身を乗り出して手を伸ばさなあかんかった」
「普通ならそこで諦めるやろ。でも、サオはそうせんかった。『あんな綺麗な花をあげたら和君も喜ぶはず』って必死になって取ろうとしたんや。それはもう健気やったで。お気に入りの服を土で汚しながらも、必死に小さい手を伸ばして。そんなサオの願いが神様に届いたんか、しっかりと根っこをつかむことに成功した。せやけど、頑張りすぎて体を前に出しすぎてたんや。崖が崩れ花もろともサオは宙に投げ出された。ほんま一瞬の出来事。あれをあんたに救えって言うんは酷なくらいどうしようもなかった」
そこから沙織はビルの四階分くらいの高さを真っ逆さまに落ちたらしい。
「あんたも初めは戸惑ってたんやけど、数秒して何が起きたか理解したんやろうな。必死に『沙織! 沙織』と叫んどったわ。あんたら二人を心配してあんたの両親とサオの母親が探しに来るまでずっとな」
それで和彦の方は両親に保護され家まで帰った。その記憶が抜けていたから和彦の感覚としてはいきなり家で寝ていたという奇妙な状態が生まれたらしい。
「サオの方もちょっとは頑張ったんやけど救急車も田舎の山やったからすぐに到着出来へんくて助からんかった」
それが真実だという。でも、それならなぜ今になって沙織は帰って来たのか? 和彦としては『死んだ』という認識をしていなかったから素直に沙織の帰りを受け入れたが死んでいたならなぜ今になって姿を現したのか。
「そんくらい察してやれや。あんたのためなんやで。それがサオの唯一あった心残りやったから」
『和君は無事だろうか? 私が急にいなくなっても平気だろうか。普通の生活をちゃんと送れているだろうか』と。
「まぁあんたの場合記憶ごと全部消してのうのうと生きとったんやけど」
「でも、そんなあんたを見てサオもちょっと安心しとったんやで。自分のせいでふさぎ込んでる方がサオにとっては辛かったから。それを解消してあげるためにあの子はウチに掛け合って、現世に戻るために必要な手続きや試練を六年かけて全部やり切った。それでようやっと会いに来とるんや。本来やったら今日の七夕一日だけのはずやったんやけど、サオの頑張りも鑑みて冥王が二週間も猶予をくれたんや」
だけど目的そのものは出会ってほんの二日程度で達成されてしまったらしい。一日目に元気に動いている姿を見て、二日目には和彦に好きな人がいることを知った。
「それであの子は『もういいや。私を冥界に返していいよ』ってウチに連絡してきた。その声は凄く暗くて『どないしたんや?』って聞き返しても『和君元気だった』としか返ってけえへんし。それでウチが直々に様子を見に来た。ウチとしてはサオの心も知っとったから本当は二人をくっつけてやりたかったんやけど余計なお世話やったな」
シルヴィアはやや笑いながら言っていたがとても笑えるような話ではない。
「でも、結局何だかんだ言っても最終的な結論は俺が沙織を殺したって事なんだろ」
「は?」とシルヴィアの笑いも一瞬で吹き飛ぶ。
「俺があの日山に誘ってなかったら。もっと沙織の事をちゃんと見ていたら。自分の心に鍵を掛けず素直な気持ちを沙織に伝えられていれば沙織は死ぬことなかったんだよな……」
シルヴィアも困惑こそしていたものの「まぁせやね」と肯定する。
「ならやっぱ俺は沙織にとって許される存在じゃない」
シルヴィアは「何言ってんだこいつ」という顔で見ていたが、だってそうだろ?
和彦は山で沙織を殺したも同然の行いをした。それでも和彦の事を心配していた沙織とは対照的にその事件の事すら忘れて普通に暮らしていた。もっと言ってしまえば天音という好きな人すら見つけて新しい道を歩もうとしていた。沙織との思い出を新しい記憶で塗り替えようとしていた。
しかも、沙織が心配して戻ってきてくれたというのに、俺は厄介者扱いして何度も俺のそばから引き剥がそうとした。結局学校案内の一つだってしてない。最終的には沙織に対して『沙織も消えるならとっとと消えろよ』という暴言。
その一言がどれだけ沙織に深い傷を負わせたのかも知らず和彦だけ天音に救済されていた。
「やっぱ六年前のあの時、俺なんかじゃなくて沙織が生きてればよかったんだ。俺が生きている価値なんて――」
その瞬間ものすごい勢いで何かが飛んできて視界がぐらりと歪んだ。一瞬何が起きたのかすら分からなかったが、遅れてやって来るようにじわじわと痛み始める左頬。加えて「ふざけんな!」というシルヴィアの怒号。
「あんた命嘗めんのもえぇ加減にしぃや。何が自分は死んだほうがえぇや。あんた一人勝手に死ぬだけでどれだけ世界が損害を受けるか分かっとらんやろ!」
だが申し訳なさから出た言葉に対する説教なんて受け止められるわけがない。そんな寛大な心を今の和彦は持っていない。
「俺が死んだって世界に損害なんてない! 誰も俺の事なんて知らないし、誰も悲しんだりしない。それよりも明るくて元気で人気もある沙織が生きていた方が何億倍もましだった!」
思いっきり想いを告げて再びシルヴィアから張り手をもらう。
「あんたな冥界の人間から言わせてもらうとな、残念な真実かもしれんけど、生まれた時にこいつはいつ死ぬってのが全部決まっとるんや。せやからサオが十一の時に死ぬんも決まってた。でも、唯一例外的にまだその時が来てないのに死ぬやつがいる。それが自殺や。事故や病とは関係なしに、命捨てる奴がいるとこっちもパニックやねん。あんたはこれから多くの人間と出会う予定や。その中で、誰かの心に響く何かを残すこともある。あんま詳しいことは言わんけど、もしかしたらあんたと将来結婚する運命の人がいる。その人との間に出来る子がいる。あんたに教えられて育つ会社の後輩がいる。ニートやからそんなことない? アホ抜かせ。ニートだって一人じゃ生きていけんのや。オンラインで出会ったやつがそのまま奥さんになるかもしれへん。コンビニで出会った人やカウンセリングしてくれた先生が運命の人って事もある。全部全部決まってるんや。生きてるからには一人一人に何かしらの役割がある。それは今実感できんとも絶対や。それをあんたの自殺一つで歯車は大きく変わってまうねん。あんた一人が死んだら最低でも千人の人生を狂わせたと思っとき。そんだけの命背負ってまだ死ぬとかほざくんか? 自分が未成年やから責任ないとは言わせへんで。生きているだけで責任はあるんや。地球にやって害悪をなしてる。それでも生きる価値があるから人類は存続してるんや。それでも生きる価値がなくなった時? 安心せい。神は全部見てるからちゃんと後始末してくれるわ。それを一度あんたらは『氷河期』という歴史で学んどるやろ。せやから環境問題が何だかんだ。俺が生きていると何だかんだ言ってるかもしれんけど、あんたが生きてるって事はそこに何かしらの価値があるんや。その命簡単に捨てたりするんじゃねぇ!」
唖然。それしか言いようがなかった。シルヴィアがいかに本気で今の言葉を語っているのか、誰に言われなくても分かる。
誰もいない農場に。凛凛たる声で彼女の思いは響き渡り共鳴していた。
何との共鳴か? 和彦には分からなかったが宇宙の意思そのものだろう。野菜や風、二人を見守る月と星。その全てに共鳴して和彦に語り掛けていた。
シルヴィアは一息つき、なおも落ち着いた声に戻して続ける。
「サオが死んだんはあんたのせいや無い。確かにあんたがもっと素直なら世界は変わっていたはずや。でも、ほんまにあんたが悪いなら普通はわざわざ帰ってきて世界の歯車の形を変えるようなことサオはせぇへんやろ」
大きく息を吸いシルヴィアは和彦に向け人差し指を突きつけて高らかに告げる。
「今回、存在しなかったサオが無理やりこの世界の和彦以外の人間に干渉したことで歯車が少し狂った。鈍感なあんたは気付かんかったらしいがな。その落とし前すら取れんようじゃサオが悲しむってもんや。これ以上好きな人間、大切な人間悲しませたらウチはあんたの事許さんからな」
シルヴィアはそっと付け加えるようにして「まさか手紙を使えばターゲット以外の生きている人間にも言葉を伝えられるってのは想定外やったわ」とつぶやいた。存外想定外でもないらしくむしろ和彦に何か伝えるために吐露した言葉。
いくら察しの悪い人間でも流石に気づけよという明らかな目配せ。
「手紙……」
昨日の出来事だ。天音は本当なら和彦を救う気などなかったという。だが、その気持ちを一枚の差出人不明な手紙が変えた。
もし、あの時天音が来てくれなくて慰めてくれなければ和彦は間違いなく、往来を走る車に突っ込んで自殺を図っていた。
「まさか……狂った歯車って……」
「それでもお礼を言わんのはほんまもんのクズやで。命日までもう時間もないこと心に留めときな」
和彦はすぐにでも地面を蹴りだし、高梨山にめがけて全力で走り始めた。
携帯で時間を確かめれば表示されるのは十一時三十七分。ここから高梨山の頂上までかかる時間は走っておそらく三十分くらい。
「ギリギリかよ」
結局和彦の人生、後悔してばかりだ。手紙の指示通り最初から向かっていればこうはならなかった。変なプライドと気まずさなんて捨てて最初から謝ろうとさえしていれば。
「でも、そんな事を悔いても後の祭りってまたシルヴィアに怒られるか」
とにかく和彦は全力で坂を駆け上り、山の入り口に入っていく。
そこから先は一切舗装のされていない山道。切通しのように人が歩くためであろう開かれた部分はあるものの、木の幹や枝葉が足元と視界を遮り、行く手を阻む。
「間に合え! 絶対にもう一度沙織に会うんだ」
携帯は走り始めた時に見た限りでそれ以上は見なかった。取り出して時間を確かめるだけでもロスになるから。
半袖に七分丈のズボンで山登りをしているせいで、皮膚が露出している部分から痛みを感じる。多分擦り切れている。でもそんな痛みごときで止まることは出来ない。
和彦は知っていたから。ここで沙織に何も言えなければもう、生きてはいけない。絶対に深い後悔にかられるという事を。
シルヴィアは言った。『この世界に来るためには手続きをして試練を乗り越えなければならない』と。沙織は試練と手続きに六年を要した。この機会を逃せばもう二度と会えない。
そんな深い心の傷に比べたら腕や足の傷なんてダメージですらない。
時には木の幹に足を引っかけ顔面から倒れたりもした。夜という事もあり、視界が悪くて、木の幹に思いっきりぶつかったりもした。
でも、ようやく見えた。
「あの光の所が確か頂上」
木々に囲まれた部分を抜け、草原がキレイに円を描くようにして生える天体観測にはベストなスポットにたどり着く。生えている木の雰囲気や、草花の生い茂り具合が少し違っていたが、間違いなくここが六年前沙織と一緒に天体観測をした場所だ。
今までは木々に覆われていて、いや、それ以上に走るのに必死で見えていなかった星と月は、相変わらず綺麗に輝いていた。
日曜日で快晴。七夕の時期は梅雨時期と当たることも多いが、今年は見事なまでにきれいな天の川が肉眼でも観測できた。でも――――。
「沙織……」
――――そこに人はいなかった。
ただむなしく風が吹き抜け、木々が揺れるのみ。本来なら気にも止まらない葉っぱの身震いがあり得ないほど鮮明に聞こえてきた。
和彦は携帯を取り出し時間を確かめる。
「零時八分」
無残な真実を何一つ悪びれる様子無く携帯の画面は映し出していた。
目の前が真っ暗になる。
すべての努力も。すべての感謝も。すべての謝罪も。すべての想いも。和彦は何一つ沙織に伝えることが出来なかった。
「お前嘘だろ……。本当に消えるならなんか言ってから消えろよ! ってか本当に勝手に消えるなよ! まだ学校案内だってしてないだろ! 俺、少しは詩瑠に鍛えてもらってデートも出来るようになったんだ。お前と本当はデートしたかった。そりゃ赤星さんの事も好きだよ。好きだけど、一番が誰かなんて言わなくたって分かるだろ! 分かれよ!! お前何年俺と一緒の時間を過ごしてきてるんだよ。お前のいなかった六年間がどれだけ辛かったと思ってんだよ」
まるで狼男にでもなったように膝から崩れ落ちつつも悲嘆の声を叫びあげる。
「俺、お前が何でもないようにして帰ってきたあの日、無茶苦茶嬉しかったんだ。ずっと遠くに行ったとだけ聞かされて、どうしているのかも分からなかったから。何が天音ちゃんはいい子だから任せられるだよ。ふざけんなよ! そんな言葉だけ残して消えるんじゃねぇよ! 出て来いよ」
でも、山の頂上からではそんな言葉誰の耳にも届かずただむなしく風が過ぎていく。
「ふざけんなよ……」
次第に気力も抜け、うなだれる様にして頭を垂れる。
両手を地面につき四つん這いの状態になって、それでも支えきれずさらに崩れ落ちていこうとする。
「やっと終わった? そんな次から次に言いたいこと言われたら出ようにも出れないじゃない」
だが、その崩れ落ちる体にそっと誰かが手を指し伸ばしてくれた。
暖かくて、柔らかくて、大好きなその感覚。
「沙織……」
はじめは幻影か幻覚の類かと思った。いや、シルヴィアの話ではシルヴィアと沙織は一般人には見えていないらしいから幻覚の類で間違いないのだが、それでも沙織のターゲットである和彦にはしっかりと実態のある大好きな幼馴染だった。
「私の命日シルから聞いてないの? 落ちてすぐ死んだわけじゃないからもう少しだけ余裕あるんだけど」
そんなに息を切らしてバカじゃないのとでも言いたげに沙織は和彦の体を起こした。
「ゴメン沙織。俺お前に会ったら――――」
間に合ったこと、もう一度沙織の顔を見ることが出来たこと、沙織の声を聴くことが出来たこと、沙織の匂いを感じることが出来たこと、沙織のぬくもりを肌で感じられたことに安堵していた。その効果によって体は落ち着きを取り戻し、言いたかったことが堰を切ったように溢れ出す。
だが、沙織はたった一言で和彦の言葉のすべてをとめてしまった。
「ねぇ和君、せっかく七夕なんだし星を見ようよ」
沙織は和彦の言葉などに聞き耳を立てるような事はせず、「あれがアルタイル、それがデネブ、であっちがベガ……だよね」とウインクをしながら星を指さす。
何一つ間違ってはいなかった。夏の大三角形は見つけやすいと言われているがそれでも無知で分かるほど簡単なものでもない。周りにも輝く星はたくさんあるし、アルタイル、デネブ、ベガの名前だけ知っていて位置関係をちゃんと理解していないという人もたくさんいるのに。
「ふふ。和君が六年前必死に教えてくれたから覚えちゃった」
何でもないような笑顔で言うが、そう簡単なものではない。
でも、沙織は和彦に謝罪など一切言わせる気がないらしく「ねぇもっと色々な星教えてよ。あっちの世界でも意外と星の話をしたら盛り上がれる人がいるんだよ」と終始にこやかで楽しそう。
これは和彦にとって理想的なデートだった。
「でも、無理に合わせてるだけじゃないのか? 無理しなくても……」
「ねぇ、シルから色々説明されて来たんじゃないの? それともまさかただの遅刻? あ~でも和君の事だから昼寝してたらすっぽかしたとか有りそうだもんね」
「違う。シルヴィアから全部聞いた……」
「じゃあ知ってるでしょ? なんで私にとって最後の数分間。この場所に呼び出したのか」
「なぜかって?」と沙織は最高に彼女らしい満点の破顔ではっきり述べる。
「私の大好きな人が大好きなものを見て楽しそうに語っている姿が一番大好きだから」
それ以上の言葉はいらなかった。それこそ和彦が女の子から一番欲しかった言葉だったのかもしれない。
それからの数分間は和彦にとって、今まで感じたこともないくらい気持ちいい最高の時間だった。
もう、これ以上の幸福は一生やって来ないのではないだろうかと錯覚してしまうほど。それほど永遠に続いてほしいと思える時間だった。
それでもリミットは来る。刻一刻と沙織が亡くなった時間は近づいていた。
「なぁ沙織……」
星から視線を沙織に落とし、沙織もまた和彦の目を見つめる。丸くて大きくて、可愛らしい目だ。今まで沙織の目なんて意識して見たことなかったけど透き通った宝石のようにきれいではないか。
「俺、沙織の知っている通りダメダメな人間なんだよ。何やってもダメで。上手くいかなくて、逃げてばっかで、勇気出すのが怖くて」
ほどほどに事が進んでくれればそれでいい。人並みの生活が出来ればそれでいい。普通である事が一番いい。
そんな平和志向だった。それがダメなわけでは無いだろう。望んでそれを得ている人もいるしそれを否定したいわけでもない。
でも、和彦の平和はつかみ取った平和ではない。逃げて逃げて逃げ続けた結果の副産物。
魂のこもった平和ではなく妥協によって得た安寧なのだ。
「それは今も昔も変わらない。そりゃ無理だよ。ちょっとやそっとの事で根幹ごとひっくり返すのはキツイわ」
でも、それでも少しずつなら変えていけるはずだ。
「もっと、早くそのことに気づけていれば良かったのにな。沙織にそのサポートをしてほしかった。いや、沙織にしか出来ないって言った方が正しいや。俺の良い所も悪い所も沙織は全部知ってるんだから」
「沙織に俺が変わっていけるかどうかを見届けてほしかった。一番近くで」
今まで伝えられなかったこと、それを勢いと覚悟に乗せて、すべて打ち明ける。この言葉がどう響くか分からない。
ただ、沙織は一歩、二歩と前に歩みを進め忍びが近寄るように一瞬で距離を詰めてきた。
「和君回りくどい。そういうキャラじゃないでしょ?」
何でもお見通しの幼馴染に「そうだね」とほほ笑みながら返した。
「いつからかは知らない。でも、気が付いた時には沙織の事が好きだった。沙織からしてみればどうしようもない男かもしれないけど、それでも好きだから。抑えきれないから」
『俺と付き合ってくれないか?』
軽く頭だけ下げる。手は付けなかった。
もうこれ以上言うことは無い。言い切った和彦はその頑張りを褒められるかのように優しいぬくもりに包まれた。
「もぉ遅すぎだよ……。でも、嬉しい」
傍によりつく大好きな沙織を和彦も引き寄せるようにして強く握りしめる。
それでも和彦に実感はなかった。
顔をしっかりあげて確かめる。瞳に涙を集めながらも無理やりほほ笑む沙織は確かに目の前にいる。でも、星に吸い上げられるように沙織は神秘的な輝きを放ちながら少しずつ薄れかかっていた。
まるで沙織の周りを蛍が飛んでいるかのように黄色い光が彼女を包んでいく。
「和君。大好き」
満面の笑みで沙織は最後にそう告げた。
七月上旬にしては肌寒い風が吹き抜ける。神秘の光はまるで一瞬の祭りのように壮大な輝きを見せたかと思えば、儚げに消えていく。
木も草も何もかも変わらない。ただ、一つ。和彦の目には変わって見えるものがあった。
「星はやっぱ今日が一番きれいだ」