五章
木曜。学校に行くと和彦はたくさんの同級生に囲まれた。
その中心にいるのは枡形劉生だが、それ以外にも普段大して話もしないやつらまで取り囲んで。
「んだよ朝から」
鬱陶しくも思ったが、囲むやつらはそれどころではないらしい。殺気だった様子を見せながらも劉生が代表して彼らの知りたいことを聞いてきた。
「かず、お前火曜の放課後、高橋さんの高級車に乗るところを見たってやつがいて……」
不安そうに問いかけるその一言でおおよそ察しはついた。となるとあまり親しくもないのに敵意の眼差しを向ける烏合の衆たちはさしずめスピカのファンクラブ的な集まりか。
「その事実を確認しようとしたらお前昨日は休むし」
「それは、悪かったが、昨日休んだこととスピカは関係ない」
だが、その発言そのものが失言だった。一気に取り囲む男たちから反感を買う。
「休んだこととは関係ないって事はやっぱり火曜日は」「おい、なに高嶺の花を下の名前で呼び捨てしてるんだよ」「誰の許可を得て親しくなってんだよ」
マスコミの記者会見のように次々に言葉というか罵声が投げかけられるがいちいち相手にしていられない。
その中でも唯一拾えたのは和彦の一番近くにいた劉生の言葉。
「あの日はストーカーだけして解散したんじゃなかったのかよ……」
劉生からしてみればとんでもない話だったのだろう。自分も興味を持っていた女だったのに、別れた後に一人で家に行くなんて。
「あの後に色々あったんだ」そう言いかけて和彦はとどまった。そんな言い方をしたら後ろのやつらにはさらに誤解を生ませてしまう。下手したら殺されるかもしれないし、巷で噂のいじめに発展するかもしれない。そんな面倒くさい事はまっぴらごめんだ。
何一つ悪い事なんてしてないのに、スキャンダルを起こした芸能人のように囲み尋問を受ける和彦。だがそんな和彦を救ったのは想像もしていなかった人物だった。
「ん~別に隠すようなことじゃないし、言ってもいいんじゃない?」
教室の外から響く女神の声に囲んでいた男たちの視線が一気に集中する。あるものは「姫だ」と叫び、またある者は「女帝だ」と。他にも「女神」や「悪女」と。せっかく同じ人間を崇め奉るファンのみんななら呼び方くらい統一すればいいのに。
「確かに火曜日の夜にかず君を家に連れて行ったよ~。ねぇ~あの時は楽しかったね~」
目元にしわを寄せ微笑むスピカに周りの男たちは悩殺されていた。が、一番のダメージは和彦だ。和彦だってそんな愛嬌に耐性があるわけじゃない。ストレートに自分めがけて飛んで来たら心臓が負荷に耐えられるわけなかろう。
だが、スピカは和彦の心中など知る由もなく、堂々と他クラスの中まで入り込んできて耳打ちレベルで告げる。
「ねぇ~今日もうちに来てほしいんだけどぉ、いい?」と。
だが、どれだけ言い寄られようと今日はすでに心に決めた先客がいた。
「悪いが昨日休んだこともあって、赤星さんに一昨日の報告が出来ていないんだ」
天音もこのクラスにいる中、この言葉を男たちに聞かれては事態がさらにややこしくなる。そう思った和彦はそっとスピカにだけ聞こえるように話した。が、それでも悪手だったらしい。
「ふ~ん。それを堂々と私に言っちゃうんだ。まぁそういうのがかず君らしいっていうなら仕方ないけど~」
「それ以上にお前は何の用だ? 俺がスピカの家に行ったところで出来る事なんて何もないだろ」
だが、スピカは小動物が水を払うように小さくブルブルっと顔を振り、またも耳元でささやいた。
「確かにかず君絵には詳しくないかもしれないけど、星なら詳しいよね。描くうえで写真じゃどうしても分からないことがあって相談に乗ってほしいなって」
なるほど。そういう事か。確かにあの写真だけでははっきりわかり切らないこともあるか。
「分かった。じゃあ明日でいいか?」
「ん~まぁ仕方ないしそれでいいや。じゃあ明日ね」
そう告げるとスピカは胸元付近で軽く手を左右に振り教室から姿を消していった。その後目の前にいた男たちに事情を説明するのは一苦労だったが、それはまた別の話。
それでも一日中彼らから質問攻めされるとは思ってもみなかったが。
「和君も大変ね。あんなにモテモテだなんて」
「男にモテてもちっとも嬉しくないんだけどな」
放課後、美術室へ向かおうとしていた和彦だが、何食わぬ顔で沙織は行動を共にしていた。
そんな沙織に聞きたいことは二つある。一つは「さっき助けてくれてもよかったんじゃないか?」という事。和彦がずっと男たちに囲まれているのを沙織はただ席に着きながら面白そうに眺めていた。
「そりゃ私が出て行ったら混乱がさらに大きくなるでしょ。何人の女を侍らせてるんだって。私なりの配慮よ」
「普通に幼馴染なんだからなんとだって説明つくだろ」
だが、どこぞの少女漫画に影響されたのか「またまた~幼馴染だって絶対に恋に発展しないとは限らないんだから」と。
まぁそれでもこっちの問題はたいして聞きたかったことでもないからいい。本当に聞きたいことはもう一つの方だ。
「なんで昨日オーシャン・ランドに来なかったんだ? 沙織が来なかったせいで大変な目にあったんだぞ」
嫌味っぽく、でも冗談めかしく言ったつもりだったが返ってくる沙織の言葉は想像以上に重かった。
「それは本当にゴメン。話はシルから聞いてる。なんかどうしても学校をさぼる決心が出来なくて」
「だったら中途半端な事せずに最初からいかないって言ってくれればよかったのに」
「うん。ごめん」
正直調子が狂う。沙織がここまで真面目にこの問題で謝ってくるとは。もっと冗談めかしく「シルとデート出来たんだから良かったじゃん。楽しかった?」くらいの勢いでくるものだと思っていたから。
まぁ和彦から話しかけない限りその話題を持ち出そうともしなかった沙織の様子を見て、しっかりと察するべきだったのかもしれないが。
「じゃあ、私は帰るね」
階段前。ここから上に上れば美術室。下に下りれば昇降口という分かれ目。当たり前のように沙織は和彦と一緒に上へ行くものだと思っていたが、手を振りながら下へ降りていこうとする。
「お前、今日は一緒に来ないのか?」
「うん。ちょっと用事があって」
まぁ用事があるなら仕方ないけど。
「でも、自転車だってまだないんだろ?」
「ないけどこの時間なら歩いて帰っても問題ないでしょ」
頑張って笑顔を見せているようだったが、その笑顔はどうにも違和感があり偽物感がぬぐいきれない。何か無理をしながら笑っているようなそんな重たい表情。
昨日詩瑠とデートをしたことで沙織に何か変化があったとは思えないが、それでも階段を下りていこうとする沙織はどこか和彦の知らない沙織のようだった。
そんな違和感だけを残され和彦は一人になった。
「まぁいいや。今日はもともと赤星さんに会う予定だったし」
本当は楽しみなはずなのに、それでも心から喜んで美術室に向かえなかったのは一体なぜなのだろう。
美術室前は相変わらず静かだ。
中に誰もいないのではないだろうかと思ってしまうほど話声の一つも聞こえてこない。
「でも、電気はついてる」
だから、天音がいることは間違いないのだろう。
和彦は天音の邪魔にならないようそっとドアを開いた。
一瞬は「あれ、本当に誰もいない?」と疑ってしまうほど中も静かだったが、カーテンは風になびいている。冷房が効いている駆動音もしっかりと響いていた。
そんな大きな部屋の隅っこ。イーゼルを立て、机に和彦自身の描かれたノートを置きながら黙々と筆を走らせる女の子がいた。
「声すらかけにくい」
和彦の立っている位置からではキャンバスの正面が見えず、どのくらい絵が完成しているかすら分からない。
それでも絵を無理やり見るために、必死になって首やつま先を伸ばしていると、天音はペンを置き「何してるの?」と和彦に気が付いた。
とっさに振り向かれたものだから和彦も繕うのに苦労する。
「いや、絵がどのくらい出来たかなって思って……」
そう問われて天音は自分のキャンバスに目を落とした。しばらくはまるで固まったように視線も口も動かさずやっと動いたかと思えば「全然」と一言。
和彦も覗き込むようにしてキャンバスを見たが、確かに完成には程遠い状態だった。
「ま、まぁまだ描きこみを始めてから二日目だし……」
フォローこそしてみたが、それが天音にちっとも響いていないのは和彦にもよくわかった。
だからと言って和彦に何かできるわけでもない。絵のアドバイスはもちろんの事、自分がこういう人間なんだよと伝える事をしたところで何の役にも立たないだろう。
さっき沙織と別れた後に自販機で買った缶コーヒーを差し出すくらいしか和彦に出来ることは無かった。
「あとは切り札であるスピカの絵をいつ見せるかだが、この空気では……」
和彦はキャンバスの裏面しか見えない位置にある椅子に一人座り込み、黙々とタイミングを見計らっていた。
天音の集中を遮りたくはない。天音はいい子だから多分どのタイミングで声を掛けても怒らないだろうけど、絶対に集中期とそうじゃない散漫期があるはずだ。農業でも勉強でもそうなのだからより神経を使う芸術にも当てはめることは出来るはず。
だが、その時期を和彦が見破る事は出来なかった。
ずっと筆を握りしめながらキャンバスとノート相手ににらめっこしている天音には隙が無い。
教室は広くて開放的なはずなのに、どこか張りつめたような空気で満ち溢れていて。コンサート会場のように一切の音を立てることすら許されないようだった。物凄く肩身が苦しい。
よく、こんな環境で絵を描けるなと感心してしまうほどに。
一流のアーティストというのは凄い。これだけプレッシャーのかかる場所でも自分のパフォーマンスを完璧にこなすことが出来るのだから。
これだけ天音が頑張っているのを知っていると、どんな形でもいいから報われてほしいと自然に願ってしまう。
時刻は午後六時。部活動終了時刻だ。和彦がこの部屋に来ておよそ二時間。交わした会話は本当に最初の一言・二言だけだった。
天音は描いている絵を片付けながら申し訳なさそうに「ゴメンね。何のおもてなしも出来なくて」と。別に天音が悪いわけじゃない。真剣にやっているのはよく伝わるし、展覧会も頑張ってほしい。和彦は気持ちをそのまま天音に告げた。
「あと、その展覧会の参考になるかどうかは分からないんだけど、高橋さんの描いている絵を写真で撮らせてもらって」
今日一日で学んだ「スピカの事を他人の前で気安く呼ばないように」という教訓も生かしながら天音に自分のスマホの画面を見せる。
「わざわざこんなものまで撮ってきてくれたの?」
天音は驚いたように和彦の方へ振り向いたが、和彦にとってもこの写真がゲットできたのはただのラッキーでしかない。
天音のためにやろうとしたことだが、感謝や感激をされるほどの事でもない。
「彗星か……」
天音は和彦の携帯画面を見ながら呟く。
「人物画と風景画だったらどっちが有利とかあるの?」
素人的疑問で話を繋ぐためでもあったが和彦は天音に質問してみる。
「別にどっちが有利でどっちが不利みたいなものは無いと思うよ。結局どっちが得意かって話だけだし。人物画を描いたから落とされる、風景画を描いたから賞がもらえるみたいな事は無いと思う」
「まぁそうだよね」
聞いておきながら当たり前のことだなと反省してしまった。二人はそれからも一緒に歩いて昇降口の方へと進んでいったが、あの会話を最後に交わす言葉は無かった。「どこまで作品進んだ?」とか「展覧会勝てそう?」みたいに思い浮かんでは憚られる言葉ばかり考えているうちに昇降口にまでついてしまった。
「ゴメンね今日も夜遅くまで付き合ってもらっちゃって」
「いや、全然。力になれる事があったら何でも協力するから言ってね」
天音は「うん」と軽くうなずき、手を振ってくれる。昇降口を出た後、和彦は駐輪所へと向かうため、歩いて駅を目指す天音とは昇降口を出てすぐのところでお別れだ。
翌日放課後はスピカに連れられてあの大豪邸にいた。
また例のごとく盛大な歓迎を受け、歩くだけでも緊張してしまう廊下を歩き、荘厳な扉で閉ざされたアトリエに足を踏み入れる。
二回目ではあったが一向に慣れる気配はなかった。
だが、扉が開いたところでハッとする。
今日はスピカが描いている絵にカバーがかけられておらず描きかけの絵が入り口の段階から見えた。
「結構完成に近いんだね」
和彦は率直な感想を述べた。昨日天音の絵を見たからかもしれないが、明らかに進捗のペースはスピカの方が早い。
すでに二つ目の彗星も完成形といえるくらい完成されており、彗星特有でありながら写真でははっきりしていなかった淡い光さえ完璧に再現されている。
まだ背景の部分は弱く、迫力そのものには欠けるところがあったが、それでも主人公である彗星の際立ち方は目を張るものがあった。
「ん~で、どうするの? 今日も写真撮ってく?」
スピカは情報を流されることに何の抵抗もなく、それがむしろ自信の表れのようにも感じられたが、和彦はその権利を放棄した。
昨日の天音の様子ではこの写真を見せる行為自体がダメージになるだろう。意識している相手が着々と進んでいるという事実はプレッシャーになりかねない。
「で、スピカ? お前星の事が聞きたいって言ってたよな?」
「あ、それ覚えていてくれたんだ」
当たり前の事なのにスピカは目をキラキラ輝かせながら言う。
「覚えてなかったら俺は何しにここに来たんだよ」
「それでもちゃんと話を覚えていてくれたってだけで嬉しいんだから」
スピカは絵を描くために置かれているのであろう椅子に座り、モデルにしている写真と鉛筆を手に取って、鉛筆の後ろ側を指示棒代わりにしながら写真の右上部分を示した。
「ん~と、ここの星座の部分なんだけどね。写真じゃちょっとぼやけちゃっててどういう星の構図っていうの? 位置取りになっているかが分からなくて」
スピカの言う通り、写真のピントは綺麗すぎるほど彗星にあっていて、背景となっている星座がぼやけていた。
「それを説明することはたぶんできるけど、絵としてはぼかす方が正解なんじゃないか?」
よく知らないけど絵と写真は表裏一体ともいえるらしい。写真がなかった時代に写真の役割を果たしていたのが絵なのだから、写真を絵に落とし込むのも特に大きな変更をかけるよりもそのままの方がいいのではないか。
「絵の知識は無いって言っておきながらかず君察しがいいね~。確かに写真をそのままトレースして、後ろはぼかした方が主人公である彗星が映えるからその方がいいかもしれない」
その意見に、和彦の「なら」とスピカの「でも」が重なる。
勝ったのはスピカの方だ。
「でも、背景の星を適当な白でぼやかすとどうしても何か牛乳みたいなのをこぼしたみたいになっちゃって。かといって何も描かないのは味気ないし」
ごそごそと下を探りながら話すスピカだったが、お目当てのものを見つけたようでそれをつかみ、和彦の前に示した。
出てきたのは二つの絵だ。どちらも今目の前にあるイーゼル上の絵に似ているがどこか違う。
「ん~とね。一個は伝統的なやり方で歯ブラシを使った方。もう一個は何も描かなかった方。流石に牛乳こぼしたみたいになっちゃったやつは破り捨てたからあっちのゴミ箱にあるけど」
とスピカは遠くのゴミ箱を指しながら笑う。
「じゃあ、すでにこの絵が四枚目って事か?」
この短期間で一体どれだけ描くのかと思ったがスピカは「うんん」と首を振り「八枚目だよ」と驚愕の事実を述べる。
よくよく聞けば和彦が先日初めて見たのも一枚目というわけでは無かったらしいがそれでも八枚も描くなんて驚きしかなかった。
「細かい事にこだわったらこうなっちゃうんだよね~」なんてスピカは何でもないような顔をしているが。
「で、今度は試しにしっかり星座を映してみようというわけ。協力してくれる?」
協力することは何の問題もなかったが。「それでボツになったら今イーゼルにあるのだってダメになるんだろ」
「別にそうなったら仕方ないよ~。スピカが目指すのは最優秀賞だからね。変な妥協して失敗するとかありえないから。やるなら徹底的にでしょ?」
かわいい顔して肝の据わった凄い奴だと和彦は改めて思った。
「分かった。じゃあ写真見せて」
「うん」
自然な流れで和彦もスピカの隣に座る。ベンチほど長いものではないが一人掛けのひじ置きが付いたやつじゃなくてよかった。
ふたご座流星群はその名の通りふたご座のカストル辺りが中心となって放射線状に放たれる星団の事だ。
その流星群を映すこの写真の中ではっきりと星座として認識できるのはオリオン座。さらにオリオン座と一緒に冬の大三角形をなすシリウスが属するおおいぬ座、プロキオンが属するこいぬ座。その三つは、はっきりと分かった。
後はぼやけていて写真でははっきりしないが、この画角で入る星座と言ったら、ふたご座の右斜め上に位置する馭者座だろう。ふたご座の左側で少し光っているのはかに座だろうか。かに座がキレイに見えるのは春だから何とも言い難いが、ふたご座の隣にあって光っている星ならカニがひっくり返ったような形のかに座が写り込むことはあってもおかしくない。
これだけ星に対して饒舌に話すのは六年ぶりだ。あの時は沙織と一緒に夏の星座を見ながら「あれがアルタイル、そっちがデネブで……」と紹介していたが今回は冬の星座。昔覚えた知識だけど写真を見ていると蓄積していた知識が湯水のように湧き上がってくる。
一瞬我に返り「スピカの事を突き放しては無いだろうか?」とも気になったが、スピカはスピカなりに「へぇ~」「えぇそうなの?」「かに座ってふたご座の隣にいるんだ」と相槌を打ちながら聞いてくれていた。
それにとどまらず「じゃあおとめ座はどこにあるの? スピカの星座なんだけど」と感心さえもって話を聞いてくれるから、話している和彦からしても気持ちがよかった。
残念ながらおとめ座は春から夏にかけて綺麗に見える星座だからこの写真から見ることはできないのだが。
そんな風に星の話をしながらスピカがキャンバス上に星の構図を描くという時間はあっという間に過ぎていった。
「ん~もう時間か。ね、続きをまた話に来てくれたりしない?」
スピカは別れ際にそう声をかけてくれた。もちろん嫌ではない。ずっと毛嫌いしていた星座だったが、やっぱり星は面白い。ずっと沙織の消失を星に結び付けて憎んだりしていたが、そんなことをしていた時間がもったいなかった。
沙織はちゃんと帰ってきてくれたのだから星には何の罪もない。
「うん。スピカさえよければまた話に来るよ」
「じゃあ楽しみに待ってるね」
スピカとは屋敷で別れ、お付きの運転手さんが例のごとく家の近くまで送迎してくれた。
それからしばらくは美術室とスピカの家を交互に訪れる日々が続く。
美術室に行ったときは、淡々とキャンバスとにらめっこをしながら必死に絵を描く天音を見て、次第に増えていくボツ作品たちに何が悪いのだろうと一人考える。
対してスピカの家に行ったときは星の話をしながら楽しい雰囲気のままに絵に着手していく。絵に対する技術は一切なかったからどちらにもアドバイスすることはできなかったが、スピカの絵に関しては先生になったような感じで「この星はもう少し右のほうがいいかな」とか「もっときれいな星だから白を足していいと思う」みたいなアドバイスをしながら二人で作り上げている感じがあった。
そんな風にして二人の絵の完成を見守っていたある日。スピカの提案でついに高橋家の食事を頂くことになった。「コンクールも近づいてきて、佳境に入って来たから、出来ればご飯も食べていって夜、時間が許す限り面倒を見てほしい。何なら寝るところも用意するから」とスピカに懇願され、その運びに。
流石に一晩泊まるというのはいくら絵の手伝いとはいえ憚られ、なら夜の十二時くらいまで、いつも通り送ってくれるという約束で和彦の両親にも話をし、了承してもらった。
両親もまさか高級邸宅にいるとは思いもしないだろうが。
食事の時間以外は二人でずっとアトリエにこもり、「あぁでもない」「こうでもない」「ココはもっと色付けた方がいいかも」と言い合いながら絵の完成に向けて懸命に筆を進めていた。
少しずつではあったものの、スピカの絵は確実に進んでいて、写真をトレースしたようにキャンバスには宙の星と彗星が彩られていく。
いや、トレースどころではない。現実味は少し落ちているかもしれないが、色鮮やかな輝き、和彦も知らなかった美術的テクニックによって生み出されたかすれ具合に、小さな星々まで繊細に。
そんな背景に負けないほどしっかりと主張をしている二対の彗星は本当に交わるべくして交わっているのではないかと錯覚させられるほど絵の主役になり切っていた。
「ん~これで完成かな~」
スピカは伸びをしながら鼻に通るような気持ちいい声を出す。
この部屋に時計は置かれておらず正確な時間は分からなかったがすでに夜月が神秘的な光でこの部屋を包んでいた。おおよそ十時半から十一時くらいだろう。そう予想したのちに和彦はズボンのポケットから自分のスマートフォンを取り出し確認。十時四十八分。
「おめでとうスピカ」
「いや~本当にありがとうね。かず君のおかげで無事に完成させることが出来ました」
スピカは「にっ」という笑顔を浮かべ満足そうにピースサイン。腰を軽くひねりくびれが露わになったその立ち仕草には、あどけなさと艶めかしさどちらも兼ね備えた美しさが存分にちりばめられていた。
「俺が協力できるのもここまでだな。今日まで俺も結構楽しかったよ」
スピカが絵のセットを片付けるのと同じように和彦も自分の帰り支度を進めようとしたが、その腕、というか服袖をスッとスピカはつまみ、まるで妙案を思いついた子供のように「ねぇまだもう少しだけ時間あるでしょ?」と。
腰をかがめ、あえて上目遣いをするような位置取りに動いた彼女の悪戯っぽい笑みは高嶺の花とか関係なく世の男子すべてを落とすことが出来る魅惑の行為。
和彦とて一切の興味を示さず平静でいるなんて出来るわけがなかった。
それでも頑張って繕って「うん。まぁ」という曖昧な相槌を返す。これ以上言葉をしゃべれば必要以上に緊張しているのがバレて「キモ」と罵声を浴びせながら嘲笑の的にされそうだったから。
そこから何を言い出すのか高鳴り続ける鼓動を懸命に隠し、次の言葉を待っていたが、その言葉は意外にも和彦にとっても嬉しい誘いだった。
「じゃあさ、ちょっとだけスピカと星見ない?」
星。絵のために少しだけ知識を教えてあげたりもしたが、まさかここまで興味を持ってくれているとは思わなかった。
「でも、星を見るって言ったってこの場所からじゃ明るすぎて……」
「ん~多分何とかなると思うよ。ここ田舎だし、周りはスピカの家以外ほとんど何もないから」
スピカは握っていた袖からさらに「くいっ」と奥へ手を伸ばし和彦の手をつかんだ。暖かくて優しい肌触り。何だかんだでこうやってしっかりと手を握られるのは幼いころの沙織以来だ。
流石に抑えようと懸命に努力していた胸の鼓動が早くなる。
「ヤバいこの胸の音聞こえてないだろうか?」「手から汗出てないだろうか?」
男子だってそれくらいの事は気にする。ただ手を握られただけで緊張しているなんて悟られたら、汗まみれの汚い手を握らせてしまっていると考えたら、それらもまた「キモ」と一蹴されて死地へと追いやられるのだから。
でも、それ以上に和彦の心は幸福感で満ちていた。まるで未知の遭遇を果たしたように心は躍動し、これからどうなるのだろうというスリリングを体験する。
スピカは和彦の手を握ったまま走り出し、そのままアトリエの扉を開いた。廊下へ続く荘厳な扉ではない。外に続く南側の扉だ。
「スピカ? どこに?」
「星を見るんだから外に出るのは当たり前でしょ」
和彦はただ引っ張られるがままに足を進め、庭の芝生に足を延ばす。
スピカの手放した扉はひとりでに閉まり、アトリエと二人の立つ庭を完全に遮断して。
「お願い」
スピカのその一言が一体誰に届いたのか。その瞬間和彦の背後から光が消えた。
高橋家の電気が停電したかのようにすべて消え去ったのだ。
「嘘……」
映画のような演出に和彦も驚いたが、それ以上のサプライズは宙に。
「ね、何とかなったでしょ?」
そこには高梨山の頂上で見たのと同じ、満点の輝きを放つ星々があった。
和彦はスピカに手を引かれ庭に置かれているこじゃれた西洋のベンチに腰を掛け、マジックのように現れた星を見上げる。
「前にかず君おとめ座は春から夏にかけて見えるって言ってたよね」
スピカから質問してきたことはいえ、その事実をちゃんと覚えていたことに和彦は驚くが。
「だったら今なら見えるかな?」
それ以上に今なら自分の星座が見えるかもと期待して星のもとにまで連れ出すスピカの積極性の方がもっと驚いた。
「うん。見えると思うよ」
そこまでの興味をしめされたら和彦としてもスピカの思いに答えないわけにはいかない。
星座は星座早見盤で探すのが一番手っ取り早いが絵のアドバイスだけに来た和彦は持ち合わせていない。
となれば宙に浮かぶ星たちを見て、光の強さ、周りの星々の関係から探していかなければならない。
方角がはっきりと分かっているのはラッキーだった。おとめ座は春から夏にかけての星座だから七月上旬だと南西の方にいるはずだと目星をつけられるから。
それでも春の星座を夏に見つけるのは少し難しい所がある。
春に見るなら北斗七星から牛飼い座のアークトゥルスをたどっていけば見つけることが出来るのだが、夏の状態だと北斗七星の位置取りが変わってしまう。
「となると……光ってるアークトゥルスを見つけてからスピカを見つけるしか……」
独り言のつもりで呟いた和彦だったが、隣に座っていたスピカは必要以上の反応を見せていた。
その反応を見て和彦も気付く。
今探しているおとめ座を見つける指標となる一等星。それが今真横に座る彼女と同じ名前をしているのだ。
「へ~なんか素敵だね」
「確かに、今まで星の名前と人の名前を一致させて考える事は無かったけど、なんかそういうのってロマンチックでいいかもな」
スピカも嬉しそうに「にへへ~」とほほ笑んでくれた。本当の事を言ってしまえば隣の彼女を置きざりにして一等星を探すことに必死になりすぎていた。
でも、そんな些細な出来事が思い出させてくれる。そうじゃない。今は自慢をする時間じゃなくてもっとスピカに星を好きになってもらうための時間なのだと。
「ん~、もしかしてスピカってあれ~」
スピカの指さす方角には確かに青く光る大きな星があった。その周りの星は流石にかすんだり輝きが小さかったりして分かりにくいが、斜め左上にも輝く一等星――アークトゥルスがある事も考えればあれがスピカであり、あの周りにおとめ座があるのだろう。
「あれがスピカか~」
うっとりした表情でスピカも星を見上げていた。
「本当にキレイだよな。ああやってキラキラに輝いているところはスピカにそっくりかも」
もし隣で座る女の子「スピカ」があの宙に浮かぶスピカのようにキラキラと輝き続けられる子でありますようになんて願いを込められて生まれてきたのならその願いは見事に叶えられている。
「ね~かず君。今の口説いているつもり?」
だが、そんな感嘆の声が、スピカには「憧れ」ではなく「告白」として伝わってしまったようで。咄嗟に「いや、そういうわけじゃ……」と否定してしまった。ただそれはそれでスピカの輝きそのものを否定してしまったようになり、頭の中の整理が追い付かなくなる。
「月がキレイですね」というだけで告白している事になってしまうこのご時世は言葉の使い方が本当に難しい。
「ん~違うのか~。でもかず君に口説かれるなら悪い気持ちもしないんだけどな~」
だが、スピカの何気ない一言はさらに和彦を混乱の窮地へと追い込んでいく。
「スピカ……それって?」
「ううん。何でもない」
ただ、それ以上はスピカも付け込ませず、ここ数分の会話すべてをなかったかのように彼女は軽く首を振って、また星を見上げた。
そんなスピカの態度一つで和彦も全てをリセットして楽しく星を観察する、なんて器用な事は出来ない。
相手は学校で噂になるほどの高嶺の花だ。多くの男子がスピカの事をいつくしみ、崇め、羨望の眼差しで見つめる。
そんなスピカが今、隣にいる。それもただいるだけじゃない。星を眺めながらも奥ゆかしく頬を少しだけ紅潮させ、ただ置かれていた和彦の手に重ねるようにしてスピカの手が置かれている。
『かず君に口説かれるなら悪い気持ちもしないんだけどな~』と意味深な言葉を残して。
和彦にとっては経験したことがないほど懸命に思考回路を働かせて状況を整理。何度も何度も脳には「その結論に間違いは無いか」と問いかけ確認する。でも、どれだけ試しても出てくる答えは同じだった。
「スピカが俺に対して好意を示してくれている」
今までは「多分あいつ俺の事好きだわ」なんて妄言を漏らす男子を「バカだ」と心の中で愚弄していた。
そんな気持ち二人称視点に立つ人間から理解できるわけがないと思っていたからだ。そういう勘違い男たちを見ながら和彦は「どんなに女に飢えてもあぁはなりたくない」と思っていた。
それは思春期に入り赤星天音という好きな人が出来てからもそう。天音の一挙手一投足から和彦を好いていると感じられる部分は無かったし、そういう合図のようなものを三次元の女がするわけないと思っていたから何とも思ってはいなかった。
だからこそ一年近く会話がなくても好きでいられたのかもしれない。
でも、今は明らかに状況が違う。
スピカは三次元の女でありながらここまで積極的に言葉を並べてくれる。これだけ分かりやすく表情や仕草に出してくれる。
それでも最初は疑った。いや、ただ手を置いているだけだ。ちょっと夏の暑さで顔が赤くなっているだけだ。
もしかしたらそうなのかもしれない。ここまでならいくらでも理由付けをして、「本当は俺の事なんてなんとも思ってない。馬鹿な妄想をしてるんじゃない」と自分を戒めることが出来た。
でもあの言葉。『かず君に口説かれるなら悪い気持ちもしないんだけどな~』これだけはどうしても否定のしようがない。最悪の手段を使うなら「聞き間違い」で流せるが、それは無理があるし考えたくもなかった。
だが、これで前提条件「三次元の女は男に分かりやすい露骨なアピールなどしない」がひっくり返る。その結果追随して大きな問題が発生する。
「赤星さんは俺の事なんとも思ってないって事か?」
これまで一年近く会話がない。やっと話しかけてきたと思ったら絵のモデルの依頼。そのモデルに選ばれた理由も体型や身長的に丁度良かったから。絵を描いている間も、スピカはたくさん話しかけてくれたのに対して、天音は無言。まるで和彦がその場にいてもいなくてもいいくらいの扱い。
それを統合的に判断すれば天音が和彦の事をどう思っているのかはおおよそ察しがつく。
それでもあまり信じたくはなかった。天音にも、もしかしたらの可能性を掛けたかった。
このロマンチックな状況。星を二人で眺め、近い距離にいる。
夜ももう遅い。ここで攻めれば上手い事スピカと結ばれるのかもしれない。
「でも、最後にやっぱりちゃんと天音に確かめたい」
和彦はそれ以上スピカに言葉を投げかけなかった。
翌日。スピカの絵が完成したからというのもあるが、交互に美術室とスピカの家を訪れていたのだから今日は美術室に行く日だ。
相変わらず天音は黙々と作業を続けていて、音の一つを立てるのさえ申し訳ない。
だけど、今日は和彦も一種の覚悟を持って来た。
「赤星さんの本心を確かめる」
今日決着をつけなければスピカとの諸々も全て無くなってしまうだろうから。
ここで天音も和彦に対して好意を抱いていると分かればそのまま付き合えばいいし、そうでなければスピカの方に行けばいい。
沙織の事もあるが、帰ってきてからの様子を見ても、突っかかってくるは、お出かけはドタキャンされるわ、ここ最近は本当に隣の席で見かける程度。ドタキャン事件以降一度は問いかけたものの、まともに話した覚えすらない。
「あいつは何があっても俺の事なんて興味ないだろうしな」
天音以上の片思いに未練を残している場合ではない。
「ねぇ赤星さん」
会話のきっかけを作るため、和彦は天音の筆使いを見ながらタイミングを見計らって声をかける。
つなげる言葉は出来るだけ自然な感じで。露骨に「赤星さんは俺の事好き?」なんてこちらから告白しているみたいで聞けるわけないし、そもそもそんなナルシスト絶滅危惧種レベルだ。
その話のつなぎに選んだのは美術室の床に捨てられた自分を模した絵。その日の作業が終われば整理されてしまう失敗作だが、今日だけでもすでに二枚落ちていた。
スピカがボツにした絵は七枚か八枚かそのくらいだったが、天音のボツにした絵はその比ではない。だが、やはり素人目ではどれも同じように見えてどこが間違ったのか分からなかった。
変な線を描いてしまったとか、色の配合を間違ったとかそのような初歩的な理由でボツになった絵は一枚もない。
「なんでここに落ちている絵たちはボツなんだ」
和彦はその二枚の絵を見比べながら天音に問いかけた。
「ゴメン。その理由は私にも分からない」
だが、想像していたより斜めはるか上を行く回答に和彦の方が困惑を強いられる。
「あ、いやいや。適当に捨てているわけじゃないんだけどね。でも、どうしても思ったような絵が描けないっていうか。頭では『こう!』っていうのがあるはずなんだけど、それがキレイに出てこなくて」
天音は天を仰ぎながらも控えめな声に乗せ言葉を続ける。
「ゴメンね。鷲崎君をモデルにしてるのに、ちっとも完成しなくて」
「いや、別に責めてるわけじゃなかったんだけど……」
でも、それ以上和彦に何かを言う事など出来ない。天音がどんな絵を理想としているのかも分からないし、この絵のどこが上手くいっていないかすら分からないほど和彦からしてみれば同じ絵たちなのだから。
けれど、「あぁそっか」とここで会話をやめてしまったら本当に天音に問いかけたいことも聞けずまた会話が終わってしまう。
その焦りは十分にあった。ここ数日は本当に一言・二言しかしゃべらずに解散するなんてことも普通にあったから。
「でも、このまま完成させないのもヤバいんじゃないか? 展覧会まであと三日だし」
「うん……」
自信なさげに首を動かし肯定はするものの天音からの次の言葉が遠い。
「赤星さんがこだわりもってやってるのは凄くいい事だと思うけど……その、なんていうか。一つ完成品を作るのも大事なんじゃないかなって。このままじゃ最優秀賞とか高橋さんとかそういう問題じゃなくなってきちゃう気がするけど」
和彦も話を続けようと必死で、たどたどしくなりながらもなんとか意見をぶつけていく。それでも返ってくる言葉は「うん」とか「そうだよね」とか魂の抜けたような相槌ばかり。
これほど天音と会話をしていてやりにくい事は無かった。言葉を交わした総数も少ないが、バトンパスの練習をしていた頃は、変な下心もなく会話していた頃はもっと楽しく話をすることが出来ていたはずなのに。
「ゴメン。私から協力をお願いしておいて何だけど、鷲崎君帰っていいよ。これ以上迷惑はかけられないし……」
天音も伏し目がちに言う。喋りすぎて気分を害させてしまったか。少なくとも天音の方も今こうして会話をしていて楽しいと感じているとは思えない。
どうにも二人の歯車はかみ合ってない。
だが、和彦はそれが答えだと思った。
最悪の手段として「赤星さんって好きな人とかいるの?」という探りの常套句を使うつもりでもあったが、そのレベルですらない。
会話が上手く回らない。話していても楽しそうではない。あまつさえ和彦の事をこの美術室から追い出そうとしている。
仮にも天音が和彦の事を好いていると仮定してこれらの行動が現れるだろうか。恋とは一緒に居てドキドキするまるでジェットコースターのような興奮を感じられる刺激物のはずだ。
好きな人にはそっと傍に、ずっと傍に、もっと傍に、いてほしいものではないのか。
それでも天音は和彦の事を追い出す発言を、傍から遠ざける発言をした。
それはもう、好きでも何でもない。本当に協力者として、絵の参考として呼んだだけで、それ以上の期待は何もしていなかったという事では無いのだろうか。
「ってかそう考えたら俺めっちゃ邪魔じゃん」
天音は初日に和彦の姿をかたどった下絵を完成させている。それを見ながら絵を進めればいいのだからここ隔日、和彦が美術室に来る意味は何一つなかった。天音は性格がいいから「邪魔」とは一度も言わなかったけど、きっと邪魔だったのだろう。
本当は一人で集中して描きたかったのに、片思いのバカが傍に居たいという穢れた欲望を満たすためだけに邪魔をした。
「ゴメン赤星さん。俺帰るわ。あと、多分もうここには来ないと思う。迷惑かけてゴメン」
「え? 迷惑――――」
そこで和彦は美術室の扉を閉めた。天音はきっと「迷惑なんてとんでもない」とかいうだろうと思っていたから。あの子は死んでも「迷惑だ! 邪魔なんだよ! 出ていけ」なんて汚い言葉を口にしない。心優しくて、穢れの無い素敵な女の子。本心で思っていても和彦には一切言ってこない。そんな優しさに甘えすぎていた。
天音が何も言ってこないからそばにいることを許されていると思っていたけど、そうじゃない。
「バカじゃん」
天音は心の中で厄介者扱いしていたのかもしれない。キモイとか思いながらも笑顔で対応してくれていたのかもしれない。
「本当にゴメン赤星さん」
和彦は廊下に吐き捨て、そのまま走って校舎を出た。
ただ、これで決意は固まった。これ以上天音に迷惑をかけないためにも、スピカにちゃんと告白をする。
そう決めてスピカの家に向かうべく自転車を押しながら校門を出たところ、待ち構えるようにして一人の女が立っていた。
「沙織……」
仁王立ちしながら待ち構えるその姿は魔王城へと向かう勇者を止めるボスのよう。
「そんなに急いでどこに? 今日は天音ちゃんと美術室にいる日なんじゃないの?」
会ってはいなくてもしっかり情報を持っていたとは。
「もう終わった」
「こんなに早く?」
「あぁ」
こんなところで足止めをされている場合でもないのに。だからと言って察しの良い沙織を無理に振り切ればよからぬことが起きそうで怖かった。
告白をしに行くなら不安要素は全て取り払っておきたい。
「で? どこに行こうとしてるの? 自転車や体の向き的に家に帰ろうとはしてないよね?」
沙織は指をさし指摘する。本当に察しがよくて怖い。
「ちょっと用事があって……」
「用事ね~。最近は大好きだった農場も二日に一回程度しか見に行かず、今日も早く終わったのに野菜たちの心配はせずどこかへ。どうしたの和君、最近ちょっと変じゃない?」
「野菜は毎朝沙織の知らないところで見てるっての。場合によってはちゃんと収穫だってしてる。別になんも変わらねぇよ」
だが、そんな言葉では沙織を振り切る事は出来ない。
何とか言い逃れをしようと頑張ってはいたものの、鋭い針のような指摘に和彦の化けの皮は一枚ずつはがされていく。
これ以上嘘で塗り固めようものならボロすら出かねない。
流石に無理だと観念した。
だからと言って和彦も悪い事をしようとしているわけでは無い。幼馴染相手に、いや、初恋の相手だからこそ言いにくいだけで別に無理やり隠すようなことでも……。
「……今からスピカに告白しに行こうと思ってる。だからそこをどいてくれ」
さっきまで自分が優位に立っていると考えていたのだろう。立場をひっくり返されて沙織は唖然とした表情しか浮かべることができず言葉も失い棒立ち状態に。
そんな沙織の脇を通り抜けようと自転車を再び押し始めたところで魂が沙織に帰って来たのか「待って」と。
その声の勢いは強く、周りに人がいないかと和彦が確認してしまうほど。
「なんだよ。急いでるのくらい分かるだろ」
「なんで……なんで――――なのよ……」
今まで和彦に向けていた威勢の良い声は一転し、下を向きながら呟くようにして言葉を飛ばす沙織。その声は独り言のようではっきりすべてが聞こえてこない。
ただ、答えを出さず「は?」とあいまいな返事をする和彦を見て、沙織も言葉が届いていないと感じてくれたのだろう。今度は顔を上げ、しっかりと目を合わせながら叫んだ。
「なんでスピカなのよ!」と。
「何でも何もないだろ。俺が選んだからだ」
「俺が選んだって、和君天音ちゃんの事が本気で好きだって言ってたじゃん! だから私は……」
「でも、赤星さんが俺の事に興味なければ意味ないだろ。ずっと悲しい片思いしていられるほど俺も暇じゃないんだよ」
その言葉がどうして沙織に刺さったのかは知らないが、一気に距離を詰めてきて勢いよく和彦の胸ぐらをつかんでくる。
その勢いに和彦も持っていた自転車のハンドルを手放してしまった。
自転車が激しい音を立てながらアスファルトに倒れ込み、周りの視線が一気に集まったのを感じたが、それでも沙織は一切ブレーキを掛けない。
「何が悲しい片思いよ! それでも思い続けてアタックし続けるのが本当の好き、本気の恋なんじゃないの!?」
「じゃあそれをいつまでし続けろってんだよ! 俺だっていつまでも暇していられるほど悠長な生活はしてないんだよ! 高二にもなって彼女の一人もいないとかダサすぎるんだよ……」
「何よそれ。じゃあそんな変なプライドのために高橋さんの方に逃げるんだ」
「変なプライドって何だよ」
「変なプライドでしょうが。高二にもなって彼女いないのが恥ずかしいとか、そんな事言ってるのが変なプライドだって言ってんのよ! 彼女作るのがそんなに大事? 自分の気持ちに嘘をついてまで、本当に好きな人がいるのにその人を放置してまで『彼女持ち』って肩書が欲しい? それ持ってたら何なの? 多少ちやほやされるとか、大学行って恥ずかしくないとかその程度でしょ。むしろ『好きな子を捨てて好意を示してくれる子に妥協した』っていうほうが酷いレッテルよ!!」
顔を間近に近づけ、説教をするように激しく言葉を並べる沙織。でも、ただの幼馴染にそこまで言われる筋合いはない。
スピカだって話は合うし、一緒に居たら楽しい。星にも興味を示してくれて、きっと趣味も合う。
スピカが好意を示してくれているというのもあるが、それだけがスピカを選んだ理由じゃない。和彦もスピカに対して好意を抱いているから告白しに行くのだ。
だが、さっきまで説教をしているのかという勢いで話していた沙織は、今度は襟元を強く握り「なんでスピカなのよ」と泣きつく。
どうして和彦の幼馴染はこんなにも情緒不安定なのか。
「私ね天音ちゃんってすごくいい子だなって思ったんだよ。あ~こんな子だから和君好きになったんだなって。六年会えなくて唯一の心残りだったのが和君だったから。和君私がいなくなって傷ついてないかなとか、しっかり生きてるかなとか」
襟を強く握り嗚咽さえ漏らしながら訴えかける沙織。
「でも、天音ちゃんになら任せられるって思った。天音ちゃんなら和君の事幸せにしてくれるって。ほら、私はお母さんともあんな感じだから、またいついなくなるか分からないし……」
「お前また家出するのかよ」
「多分する。私は和君の前からまた消える。でも、だからこそ安心して消えたい。それなのにスピカなんてよく知りもしない女を選ぶなんて……」
確かに沙織とスピカはほとんど接点がなかったが、それだけのことでちゃんと話せばスピカの良さだって分かるはずだ。
というか何より、なぜ沙織の安心のために天音を選ばなければならない。
「沙織がまた家出することと俺が誰を彼女に選ぶかは関係ない。お前が安心するために彼女を作るわけでもないんだし」
「そう……だけどそうじゃないの。それだと私が――」
「とにかく、そんないつ消えるかも分からないような奴の言葉にいちいち踊らされてる余裕はねぇんだよ! 沙織も消えるならとっとと消えろよ。俺の邪魔をするな。お前が赤星さんの事を良いって思うのは勝手だけど誰を選ぶかは俺の自由だ。告白しても可能性がゼロに等しい赤星さんじゃなくて、より可能性のあるスピカを選んだ。それだけの話なんだよ」
これ以上夜遅くなるわけにはいかないという焦りもあった。和彦は襟をつかむ沙織の手を強く引きはがし振り払って、強く自転車を前に押す。
沙織にこれ以上耳を貸せば長くなるのは分かっていたから、心で耳栓をかけ、何を言おうと振り返らない覚悟で自転車にまたがり全速力で漕ぎ出した。
気持ちの整理は自転車をこいでいるうちについた。沙織に対するイライラよりもスピカに対して告白するドキドキの方が強くなっていく。
スピカの家に着いたのは六時前だったがスピカは普段夕食を七時頃に食べると言っていたから大丈夫だろう。
和彦はちんけな自転車で大豪邸へと入り込んでいった。
「あら、鷲崎様。本日はどのようなご用件で?」
入り口前に配置されたメイドさんが立ちふさがるようにして問いかける。
「ちょっとスピカ――いや、ここのお嬢様に用事が」
「スピカお嬢様もそのことを了承して?」
和彦は「いや」と軽く首を振りながら答えた。その反応を見とどけたのちにメイドさんも「確認してまいります」と部屋の中へ消えていく。
流石にここまで来ると胸の鼓動が何もせずとも感じられる。
人生で初めての告白だ。第三者から見れば出来レースのような告白であっても、当事者からすれば一世一代の大勝負。出来ればこんなプレッシャーからは解放されて今すぐ逃げ出したい。
「でも、逃げればあの時と変わらない……」
また、沙織の時のように何日も、何年だって後悔することになるだろう。
「収まれ。収まってくれ」
和彦はただ念じながらスピカが下りてくるのを待った。
それから一体どれだけの時間が経ったのだろうか。いや、きっと数分も経っていないのかもしれないがそれでも和彦には永遠のように感じられた。
お笑いの舞台や、スポーツの大会何でもそうだが、本番でプレーをしているときよりも、本番前で待っている時間の方が緊張する。
ただ、スピカが現れるまでに本当の永遠なんて存在するわけがなく、扉はひとりでに開かれる。
そこに立っていたのはスピカただ一人。護衛もメイドも執事も、誰一人侍らせることなく。
「ん~かず君どうしたの~。こんな遅くに」
スピカの方は相変わらずの平常運転だが、和彦はそうでは無い。
何とか言葉を絞り出し、「スピカに伝えたいことがある」と。
告白なんて何が正解なのか和彦は知らない。全く告白の空気を見せずにいきなりやって驚かせるほうがよかっただろうか?
「そっか。その話ここでもいいの?」
「いや、出来ればここじゃない場所の方が……」
本当なら早く言う事言ってしまいたい気持ちもあったが流石に玄関先でいきなり告白というのも憚られる。
というよりもスピカの方から場所を変えるかどうか話を振っているのだからきっと察しはついているはず。
こうなってくるとやっぱり昨日やって来た絶好のタイミングで告白してしまうべきだった。
「ん~じゃあついてきて」
スピカは和彦の手を引き、そのまま庭の方へとかけていく。アトリエの位置から考えても昨日星を見た場所とは別の場所へと連れ出しているようで。
やって来たのは左右を花で彩られた綺麗な道。きっと庭絵師さんとかがキレイに整えたのだろう。趣味で作るレベルではなかった。
咲いている花はよく知らない。黄色に白にオレンジにグラデーションのように変わっていくその道はただただすごく綺麗だった。
そんな道の先。登山の休憩スペースのような屋根付きの座れる場所がぽつんと存在している。
そこに座って辺りを見渡せば一面の花々。きっとこんなに緊張していなければもっと楽しく見て回れたはずなのに。
言うならここしかない。心なしかスピカも歩くスピードを落としているように見えるし、これ以上進んでもまた花道に戻っていくだけだ。
「スピカ!」
和彦の声でスピカも足を止め、振り返る。
「何?」となんでもない顔で振り返るスピカを見るとより一層鼓動が早くなるのを感じた。これ以上スピカと見つめ合っているとそのまま胸から爆発して死んでしまいそうだ。
本当はなんて言おうとしているのか知っているくせにという思いと、素でどうしてここまで連れてこられたのか理解していないのでは無いかという疑念が頭の中でぐるぐるする。それでもここまで来て思いを伝えないわけにはいかない。
「俺とスピカってちゃんと出会って話すようになったの、すごく最近じゃん」
和彦の一人語りにもスピカは愛想良く相槌を打ってくれる。
「最初の頃なんて豪邸見せられて自分となんて格差がありすぎるって思って。いや、そもそもスピカは学校のみんなから好かれるような高嶺の花だから俺なんかがこんなに仲良くすることそのものが間違いなんだけど……」
言葉選びにいちいち焦る和彦。こんな事になるならちゃんとセリフ考えて練習してくればよかったと思う。
「でも、ここ数日絵の事でスピカと一緒に居る時間も長くなって、一緒に何か一つのものを創り上げたり、一緒に星を見たりしているうちに……」
でも、そんなドキドキもラストスパート。あと一言。あと一言でおしまいだ。それを言いきれば和彦の役目は終わり。あとはスピカがどう答えてくれるかだけ。
「俺、スピカの事が好きになっちゃってさ。よかったら俺と付き合って下さい」
あまりの緊張感にヘッドバンギングかって自分ながらに突っ込みたくなるほど思いっきり頭を下げて手を指し伸ばした。
その瞬間に一瞬の空白が訪れる。「驚いている?」そう感じるような間。ただ頭下げて手を伸ばしている以上今更スピカの表情を確かめるなんてダサい事は出来ない。
しばしの時を経て言葉が戻る。音が戻る。世界が戻る。
しかもその戻し方はスピカによるあり得ないくらいの大笑い。
そればっかりはダサいとかダサくないとか関係なく手を下げ、頭をあげ、目線はスピカの方へ。声だけじゃない、体全身でスピカは笑っていた。
「ねぇその告白どこで見て来たのよ。テレビ? マンガ? 今時ってかいつでも一般人の一般的な告白でそんな仰々しく頭下げて手を差し伸べるなんてありえない。あれは手を握ってもらった高揚感に転がっても、振られて置いて行かれる孤独感に転がっても演出として成功するからそういう『作品』でやるものなのに」
スピカは笑いがこらえきれず涙まで流しては右手で払う。
和彦からしてみれば物凄い緊張感で告白したのに、ここまで笑われたらおしまいだ。
雰囲気とかそんなのも全部ぶち壊し。もう振られたかもしれない。そこまで覚悟していたが。
「ゴメンゴメン。ちょっと笑いすぎだよね」
ちっとも謝る気はなさそうに笑いながら。
「でも、いいよ。付き合っても」
笑いながら言うものだから一瞬で言葉を理解しきる事は出来なかった。それでも「いいの?」と確認すればスピカは「そう言ってる」と。
結果だけを見れば物凄く和やかな空気で告白は終了した。それ以降もしばらくスピカの笑いが止まる事はなかったけれど、「オッケー」の返事をもらえたことでようやく和彦の肩の荷も下り、スピカと一緒に笑うことが出来るようになった。
その後お互いがある程度落ち着くまで、四阿と呼ばれるらしい休憩所に二人で腰を下ろし、月を眺めていた。が、落ち着いたころにスピカの方から「今日泊まっていく?」なんて言ってくるものだから、焦りながら和彦は誘いを断った。流石に告白が成功したその夜から泊まりというのはハードルが高すぎる。今日一日は告白だけで精一杯だ。
和彦は逃げるようにして自転車にまたがり、一目散で家まで戻っていった。