三章
翌日。和彦には気になる事、というか確かめたいことがあった。
「高橋スピカって知ってるか?」
和彦の中では頼れる友人であり、何より情報通な枡形劉生。見た目は普通の男子高校生なのだが、必要以上にゴシップや色恋沙汰の噂、学校のトレンドなどにご執心な男。
だからもしかしたら高橋スピカの事も知っているかと思って聞いてみたところ、驚いたような表情で「え、何それ? かずは逆に知らないの? ってかそれ一回説明しなかったっけ?」と。
確かに説明してもらったことはあったが、あの時はどちらかといえば劉生からの押し付けみたいな感じだったし、興味がなかった分和彦にとっては何一つ情報として残っていなかった。
だが、心優しい劉生は和彦に対して「やっと興味を持ってくれたか。少しは男子高校生らしくなってきたな」と肩を叩きながら、高橋スピカについて説明してくれた。
お調子者ではあるけれど、こういう根っこが優しい所と、劉生といれば否が応でも情報を得ることが出来るのがこいつのいい所だ。
「高橋スピカはこの学校の女子人気ナンバーワンだ。海外――――確かフランスからの帰国子女で、日本語だけじゃなくて英語・フランス語辺りはペラペラ。学力、芸術共に優れたお嬢様」
それにとどまらず見た目の美貌もすさまじく、付き合う対象というよりも高嶺の花として目の保養程度にしておく方がいいだとか。
『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花』を体現したような女。それが高橋スピカらしい。
「一部では彼女に対して「最低悪女」「信じられない」と嫉妬から悪態をつくものがチラホラいるらしいが、性格の明るさ、誰とでも分け隔てなく接する人の好さ、もはや隠し切れないほど溢れている優しさオーラを考えたら僻みを言うような奴らの方が悪だと一目瞭然。ありもしない噂を流されて高橋さん本人の方が迷惑しているはずなのに、それに対しても何一つ文句を言わない姿はまさに女神だ」と、劉生は熱く語ってくれた。
「ありがとう劉生。なんとなくは分かったけど、もうちょっと具体的な情報とかあったりしないか? その……もっと深い性格とか弱点とか」
天音が全力で倒したいと燃えているのが伝わっていたからこそ、どうにかして力になってあげたかった。弱点を聞いてそれを攻撃しようとかそういうのはあくまで最後の手段でしかないつもりだが。
「おいおい、昨日赤星さんとラブラブした後に今度は高嶺の花に行くとか、かず急に積極的になりすぎだろ。プロテインでも飲んで自分の体に自信がついたとか? あ、でもよくない商売は気を付けた方がいいぞ。『これを飲むだけでモテモテになるサプリ』とか。ああいうの大概嘘だから」
やらねぇよそんなの。
「まぁいいや。確かに俺の中でも他の女の子に比べて高橋スピカの情報は不足気味だからな。ある意味不可侵領域だと思っていたけど、かずがその気なら尾行でもなんでも協力してやるよ」
「ありがとう」
情報通な劉生が仲間でいてくれたことに関しては凄く幸運だった。勝負ごとにおいて敵を知る事は有効手段だからこそ、高橋スピカについては詳しく知りたかった。
それが天音の助けになると信じて。
「じゃあ放課後だな。クラスは確かCだからHRが終わった瞬間に教室駆け出すぞ。いいな」
「了解」
こうして和彦と劉生の極秘ミッションは始まったのだった。
放課後は期せずしてすぐにやって来る。
「ねぇ! 今日こそ学校案内してくれるんだよね」
と、飛びついてくる沙織に、「そういやまだやってねぇ」と思いつつも「用事が……」とはぐらかしを試みたが、結局置いていく事は出来なかった。
どうしても振り払えないものは振り払えない。
「じゃあその用事が終わるまでついていくから。その後で今日こそ学校案内してもらうからね」
劉生も女の子が一人増えるくらい、何も言わず黙認してくれるだろう。そう信じて仕方なく沙織もこの尾行作戦に参加させた。
実際に劉生が何一つ沙織に対しての言葉を述べず受け入れたのはビックリしたが。
「んじゃよく見張っておけよ」
C組の教室後方のドアから高橋スピカを確認する。日本の学校には珍しすぎる白銀の髪をした少女だ。教室の中では異様な浮き立ちを見せていた。
「確かに見かけたことくらいはあるわ、あいつ」
「だろ」
やっている事はストーカーか追っかけのファンレベルだが、気にしない。天音のためだ。
「ほら、動くぞ」
雑談をしているうちに高橋スピカの帰宅準備も整ったのか、笑顔で友達に手を振りながら、教室を出て行った。
その足で彼女が向かったのはテニスコート。
「高橋ってテニス部なのか?」
「いや、確かどこの部にも所属してなかったはずだ。だけど自分の教養を高めるためとかで勝手にいろんな部活に顔を出すとか」
「なんじゃそりゃ」
そんな自由人の行いに対して女子テニス部の対応も寛容だった。
高橋スピカをまるで部員のように違和感なく受け入れ、共に部活動をする。
準備運動もそこそこに、コートに入ってラリーなのか試合形式なのかボールを打つ高橋スピカ。だが、一生懸命に部活を頑張っているというよりも優雅に楽しんでいるといった感じで鋭い球が飛びあうわけでもない。観客としてみるにはあまりにもつまらないラリーだ。
「まぁいいとこのお嬢さんだからね。あんまり汗かくようなタイプでもなさそうだし」
劉生の言う通り、運動着に身を包んでいるとはいえ、きれいにセッティングされた透き通るほど繊細な髪に、贅沢なものをたくさん食べて育ったのであろう豊満な胸。
顔色や足に見える肌つや。どこをとっても高橋スピカは一流だった。
汗をかき泥まみれになりながらも戦う泥臭い戦士よりもそれをかごの中やお城の中から指揮するお嬢様の方がやっぱり似合っている。
「ったく鬱陶しいけどね色々」
高橋スピカに見とれてもはや忘れかかっていた沙織が自分の体と見比べながら悪態をついていた。
だからといって高橋に女王様的な孤高さも感じられない。適度に休憩を取りながら、笑顔を浮かべてテニス部員の人たちと話を。ここが女子テニス部という事もあり、神聖な天使たちの会話をのぞき見しているような罪悪感さえ和彦は覚え始めていた。
高い教養に誰にでも平等に接する姿。劉生のもっていた噂に間違いはない。
ただ、今日一日は残念なことにテニス部の練習を終えるだけで下校時刻を迎えてしまった。これじゃ高橋スピカを見ていたというよりも女子テニス部を見ていたみたいだが。
「ま、明日になれば違う部を見るかもしれないし、それでなくても俺の情報が正しかったって証明できたから収穫だ。かずはどうするんだ。明日もストーカーするのか?」
「ストーカーって言うな。必要な情報収集だ。まぁ明日もこの感じだと得られるものも少なそうだし、やんないかもな」
敵を知るならもっと奥深くを知らなければならない。とはいえ、天音に話しかける事さえ緊張してしまう和彦には相当高レベルミッションだ。そんなことをするくらいなら普通に天音の手伝いをしている方が幸せで価値のある時間の使い方なのではとさえ思えてくる。
「んじゃ、俺は帰るわ」
「おう、わざわざ付き合ってくれてありがとうな」
「いいって事よ」
と、軽い笑顔を浮かべ、劉生はバッグを抱えたまま走り去っていった。
そんな劉生を見届けたのちに視線を沙織の方へと移す。
「沙織どうするか? 最終下校時刻三十分前だけど、学校案内これからするか?」
「いいわよもう。今から見たって大して見る事出来ないでしょ。ちょっとトイレ行ってくるからお詫びとして今日も自転車で乗せて帰りなさいよ」
「お前、また歩きで来たのかよ」
「仕方ないでしょ。昨日も言ったけどそう簡単に自転車なんて買えるものじゃないんだから」
「ちゃんと待っててよね」と言いながら沙織も校舎の方へと消えていってしまった。
明日はちゃんと学校案内してあげよう。
走り去っていく沙織を見ながら和彦はそう胸に決めた。
和彦もカバンを汚れなさそうな地面に置き、腰を下ろす。
流石にトイレとはいえ、重たい鞄を持ちながら何分も棒立ちで待てるほど和彦も体力がある方ではない。
だが、腰を掛けた和彦に影が覆いかぶさるようにして太陽の光を遮断された。
その明暗の変化に和彦も首をあげる。
「早かったなさお――――」
だが、そこで立っていたのは沙織ではない。
「え……」
清楚な立ち姿に、気品あふれるオーラを放ち、右手で見せびらかすように髪をなびかせる。
「高橋……さん?」
そこにいたのは間違いなく高橋スピカ本人だった。
「ん~別に同じ学校の同級生だし気軽に下の名前で『スピカ』って呼んでくれていいかな」
初めて聞くスピカの声は想像していたよりも柔らかく、聞いていて心地の良い感じだった。もっととげとげしいものかと想像していた分反動が大きい。
「君は確か~B組の鷲崎和彦君だったよね」
さらに驚いたのはスピカが自分の事を知っていたという事実だ。何でもないように言い当ててきた分和彦の心臓は跳ね上がる。
「俺の事知ってるんだ……」
流石に驚きを隠すことは出来なかっただろう。声だけでも動揺している事が分かるのに表情は一体どうなっている事やら。
「まぁね。で、スピカに何か用事でもあった? ずっと付けてきて、ジロジロ見てたよね」
表情一つ変えることなく言葉を続けるスピカだったが和彦の方は背筋が凍る。スピカの発言はストーカーがバレていたという摘発以外の何物でもないのだから。
「ゴメン。気分悪くしたなら本当に悪かった」
うだうだと言い訳をすることも一瞬考えたが、これだけ察しのいい相手だと、誤魔化せば誤魔化すほど分が悪くなるだろう。
実際すぐに謝ったのは好手だったようでスピカの方も「素直なんだね」と。
「別にストーカーする分には全然かまわないよ。よくされるからある程度馴れてるし」
「よくされるってそれ、色々大丈夫か?」
「ふふ。自分もストーカーしておいて、そんな心配するんだ。かず君おもしろ~い」
スピカは目を細め、笑っているようだったが、和彦からしてみれば危険すぎる綱渡り。とても心から笑えるような状況ではなく、愛想笑いが精いっぱいだった。
そもそも沙織以外で「かず君」なんて呼ぶ人が久しぶりすぎて、そんな些細な事でもドキドキする。
興奮の意味のドキドキと警察に突き出されるかもという恐怖のドキドキが共鳴して和彦の心拍数は物凄い勢いで上昇していた。
脈打つ音が聞こえるとはこういう事を言うのだろう。
だが、これはピンチであるもののチャンスでもある。ストーカーをしていただけでは分からなかったスピカの内面を知るまたとないチャンス。
逃げ出すだけなら簡単な事だが、ここでスピカ本人の情報や、シェルアート展覧会に関する情報が得られれば儲けものだ。
そういう意図があったとスピカが理解すれば警察に通報される可能性も低くなるはず。
「高橋さんって――――」
「スピカね」
「――――スピカって今度のシェルアート展覧会に出るんだろ。どんな絵を描くのかな~とか気になって」
一瞬だけ間があったものの、スピカは吹き出すように上品に笑い出し。
「それストレートに聞くんだ。もう少し上手い事やるかとか思ってたのに」
だが、まるで絵の事を知りたくてストーカーしていたことを全部分かっていたような口ぶりのスピカに和彦の方が動揺を隠しきれなかった。
「あれでしょ、赤星さんに頼まれたかなんかしたんでしょ? 昨日二人で美術室にいるの見ちゃって」
昨日の事を知っていたのか。
「でもあれだよね。赤星さんもひどいよね~。自分で直接確かめればいいのに、こんな風に人を使って」
多分スピカの中では悪気があって言った言葉じゃなかったのだろう。顎に手を当てながら小首傾げて言っているあたり、そのままの思いを表した言葉だという感じは伝わってきた。
でも天音を悪く言うのは少し違う気がする。
「赤星さんは関係ない。これは俺がしたくてしたことだから……」
少し想いが強くなりすぎたか、想像以上に声が大きくなり、一瞬スピカの方も驚いていたが。
「そっか。それはゴメンね~。じゃあかず君は指示されていたわけでもなく赤星さんのためにスピカをストーカーして情報を得ようとしていたと」
それには頷くことしか出来ない。それが真実であり何一つ間違いないのだから。
「で、それがスピカにバレて全部正直にしゃべっちゃう。完全にスパイとしては失格だね」
スピカは依然として笑っていたが、和彦からしたら依然笑えない。つくづく屑だと実感させられるばかり。
スピカは「そんなところが可愛いかも」なんて言ってくれたが一体どこが可愛いのかすら分からない。
「でも、それだけ潔いスパイさんのために、スピカもちょっとだけサービスしてあげよっかな」
斜め向こうの空を見ながら呟くスピカ。
いや、待って待って。まだそういうの免疫がないから、いきなりはちょっと。それに事実上今日互いを認識したばかりなのにいきなりそういう行為をするのはなんていうか。
「顔真っ赤にして何想像しちゃってんの? もういちいち可愛いんだから」
スピカは座っている和彦に対して手を差し出す。
「そういうサービスでもいいけど、別に望んでないんでしょ? ついてきて。まだ描きかけだけど展覧会に出展する用の絵を見せてあげる。写真を撮って赤星さんに見せるのもありってことで」
スピカは表情一つ変えないまま信じられないような取引を持ち出してきた。いや、一方的な情報公開だから取引にすらなってない。
「なんでいきなりそんな提案……」
「ん~。さっきも言ったけどかず君の勇気に敬意を表してとか?」
「条件とかは? そんなの何もなしで見て、写真までオッケーなんて言ったら高――スピカの方が不利になるだけじゃ」
そこまで問いかけると、逆にスピカの方がじれったげな表情を見せ、早く差し出した手を握って立ち上がれよと言いたげにしながらも笑顔を崩さず続ける。
「じゃあ条件はスピカと連絡先を交換するってことで。絵を見せてあげるのも優しくするのも単純にかず君という人間に興味を持ったからだって思って」
スピカなりのとどめの言葉だったか、ウインクを交えながら悩殺にかかっていた。
というか悩殺と分かっていながら破格の条件に沙織の事すら失念して手を握ってしまうあたり自分もなかなかひどいものだが。
「んじゃこっち来て。かず君の自転車はちゃんと家に届くように手配してあげるから」
校門まで連れ出されたところ。そこには見たこともないような車体の長い真っ黒なリムジン車が停車している。田舎の風景には一切合っていない破滅的オブジェクト。
それにも関わらずスピカは平然とその車へ向かっていくし、手を引かれる和彦も驚きながらも足は相変わらずのペースでその車へと向かっていた。
スピカがそのリムジン車に近づいたタイミングで見計らったように運転手なのか執事なのか、初老も超えてもなお元気そうなおじいさんが後部座席のドアを開く。
「いや、待て、これに乗るの?」
「当たり前でしょ。スピカの家もここからちょっと遠いから」
和彦はそんな想像も絶する高級車に何の抵抗も許されず吸い込まれるようにして乗せられるのだった。
車窓から景色が流れていく。家のソファーとは比べ物にならないほどフカフカな真っ黒いシートに座り、隣には高嶺の花。
至れり尽くせりなこの状況は明日にでも死ぬのではないだろうかと錯覚させるほど幸福だった。
「ん~大丈夫? さっきから焦点定まらないような感じだけど」
そんな環境にぶち込まれると突然話しかけられるだけでも緊張する。というかスピカに声かけられてから緊張しっぱなしだ。
「大丈夫……」
結局和彦の口からはロボットが故障でもしたのではと疑ってしまいそうな、たどたどしい声しか出なかった。それが精いっぱい。
運転手さんがいるとはいえ、事実上高嶺の花と、いや、女子と二人きりで密室。
さらには慣れそうにもない高級感あふれる車内。これで緊張するなというほうが無理ゲーだ。
「ねぇ? かず君って好きな事とかってあるの?」
そんな和彦の気持ちなど一切知らないからか、スピカは何一つためらうことなく自然と会話を振ってくる。「せっかく車で二人きりなのに景色ばっかり見ててもつまらないでしょ~」と。
十分楽しいよ……。家と学校で往復する道以外ほとんど通らないし、こんな高級車から外の景色を見る事なんてほとんどないから。
だからと言ってスピカの話を無視するわけにはいかないが。
「農作業とか……かな? 家がそういう家だから」
だが、あろうことかスピカは「のう作業?」と疑問形で。あまつさえその後に「あ~のう作業ね~」「え、じゃあかず君って日本の伝統芸能の家生まれだったの」と。
果たして農業は日本の伝統芸能の一つなのだろうかと困惑していたところスピカは戸惑いながら「確か猿楽? あれ、田楽だっけ? ほら、そういうの」と。
そこで、スピカが何を言っているのかようやく理解できた。彼女の理解した「のう」は「農業」じゃなくて「能」の事だという事に。
「いやいや、全然違うから。農作業っていうのは農家で野菜とか果物とか作るやつ」
「じゃあステージや舞台に立ったりは?」
「しないしない。農業でステージ立つって地方アイドルでもそんな事しないだろ」
「そっか~」となぜかスピカは肩を落としていたが、そんな期待を寄せていたのか? こちとら一般市民もいい所だというのに。すべてスピカ基準で話が進められると規模が大きすぎて仕方ない。
「で、その、のう作業? って何するの? 野菜とか作るって事はうちの調理師さんみたいな感じ?」
「いや、俺がやっているのはその調理師さんたちが使っている野菜の原型を作るっていうか……なんていうか」
これほどまでに農業が伝わらないフランスの帰国子女に農業の説明をすることが難しいとは思わなかった。だが、このつたない説明でもスピカには理解してもらえたようで。
「って事はスピカの屋敷で出てくる料理のもとがかず君の家で作ったものなのね?」
キラキラと輝かせるスピカのあどけない瞳を見て、とても「多分違う」とは言えなかった。
何も言わず頷くことしか出来ず、運転手さんも我関せずと何も訂正してくれない。
ただ、和彦は心の中で「この話、絶対スピカの両親にしないでほしいな」と切に願っていた。
「逆にスピカは、その……なんか好きなものとか、好きな事とかないのか? 噂だと多彩な趣味を持ってるって聞いたけど……」
「ん~何だろうね。別にスピカのやってることってママがやれって言ってることをやってるだけだからな~。その中で別段好きな事って言われても」
「じゃあ、絵も……か?」
和彦の質問にスピカはためらいもなく「うん」と首を縦に振る。
「絵もママが描けるようになった方がいいからって」
それのどこが悪いと体全身で言っているくらい無垢な言葉だったが、天音があれだけ全力でやっているというのに相手は親に言われるからやっているというのか。
「でも、かず君もさっきの話的にはスピカと一緒なんじゃないの? 家がそういう家だから農業? をやってるんでしょ。スピカも一緒だよ。家がそういう家だから絵も描くし、茶道もするし、テニスみたいなスポーツもする」
そんな無意識のカウンターブローはあり得ないくらい自分の胸を一瞬にして切り裂いていった。
確かにスピカの言う通りだ。最初は自分の意志でもなくやらされている事で、真剣にやっている人を潰すなんてと思ったが、和彦の農業に対する思いも似たようなものだ。
今でこそ愛着は湧いているが、農業を始めたきっかけはほかでもなく現実逃避に近い。特にやりたい事も無く、ただ無為に過ごすのもあれだからと、親がやっているからとりあえずやろうと。そんな生半可な気持ちだった。特に生まれながらに「農業がしたい」って子でもなかったし、どちらかといえば沙織を失うまでは農業なんてかけらも興味がなかった。
「じゃあスピカもやっているうちに絵が好きになって展覧会で優勝を目指すようになったって事か?」
それで綺麗に話が終わると思っていた。だが、スピカという人間は一筋縄ではいかない。
「別に今もそんな深い思い入れは無いよ」
「だったら!」人の車の中なのに激しい声が出る。だけど、そこでハッとして流石に次に言おうとした「生半可な気持ちで天音の邪魔はしないでよ」とは言い出さなかった。自制心が効いてよかった。その言葉は幼いころから野菜に魅せられてずっと農業について調べてきた人が思う和彦への想いと同じだ。天候不良や住んでいる地域差だけを理由にうちの野菜に負ける人たちに対する侮辱以外の何物でもないのだ。自分だけ正義ぶってぶつけられる言葉ではない。
「も~そんな大きい声出さないで。確かにスピカも絵にはそこまでの思い入れは無いけど、展覧会に出す以上生半可な気持ちでやってるわけじゃないって。失敗は万死に値する。だからスピカはいかなる勝負においても負けるわけにはいかないの。あとで絵を見ればわかると思うけど、スピカもちゃんと本気だからさ」
そんなところでタイミングよくというべきか車が屋敷についた。
もはや家というよりも宮殿とか王宮といった方が正しいくらい豪勢な邸宅。
家の庭まで田舎という広大な土地を活かした壮大さが広がる。噴水が立ち、公園のように彩り豊かな花が植えられ、まるで映画の世界にでも舞い込んだかのよう。
車が停車した場所から一歩踏み出せば白い大理石なのか何なのか、ヒールで歩けば「カツン」と音のしそうなタイルが散りばめられている。
そんな床に足を下ろすこともおこがましい気がしたが、車から降りなければ何も始まらない。
そもそも大理石なんて高級邸宅のリビングなどに敷かれているという認識しかなかったのに、入り口の床にまで敷くとなると一体いくらの値段がするのか。
そう考えると今歩いているこのタイルは大理石ではなく白いタイルというだけなのかもしれないが。とにかく庶民の和彦にその判別は出来なかった。
「ん~なんでそんなゆっくり歩いているのよ。かず君行くよ~」
元気な姉の後ろを行く人見知りの弟のようにキョロキョロと辺りを見渡し、肩身狭く、腰を丸めながら入り口の方へと進んでいく。
スピカが門の前に立つより早く、門の前で待機していたメイドさんが自動ドアを演出するように扉を開いた。
おかしい。何もかもがおかしくて和彦の常識など一切通用しない。が、驚きはこれでは終わらない。
スピカが家の中に一歩踏み入れれば「おかえりなさいませお嬢様」と数名でお出迎え。
あまりの異世界に和彦は言葉も出なかった。
「お嬢様、そちらの方は」
執事であろう人がいつもとは違う人間を連れてきたことに疑問を呈したところで「友達よ」と一言で済んでしまうあたり、スピカはまごう事なきお嬢様だった。
「今日の夕食ってまだ作って無かったよね?」
「はい、いつも通り出来立てを提供できるようしておりますから」
その確認をしたところでスピカは振り返り「どうするかず君? 食べてく?」と。
ご飯を食べていくかどうかの選択肢に迫られた家はこれが二軒目だ。だが、一軒目に当たる沙織の家とは気安さが比較にならない。
お隣さんで幼馴染の気が知れた相手から誘われた「ご飯食べていく?」には喜んで「うん」と言っていたが流石にこの家でそれは出来ない。
出来立てを作るために時間調整をしているあたり、間違いなくコース料理レベルの品物が運ばれてくるのだろう。
それを今日知り合ったも同然の相手に振る舞うとか、頭のねじが一本どころではなく外れているとしか思えない。
「さすがにそこまでお世話にはなれないよ」
和彦は両手を振りながら全力でお断りさせていただいた。間違ってもコース料理の請求書が届こうものなら和彦の家の家計は破産しかねない。
少なくとも自家製野菜ともやし生活を強いられることだろう。いくら収穫時期に入ったとはいえ、様々な環境に影響される農家は一切収入が安定しないのだから。
「ん~そっか~。それは残念。またの機会に是非食べていってね。せっかくかず君の家で作った野菜を使ってるんだから」
その嘘も出来るだけ早いうちに撤回しておいた方がよさそうだ。他の人たちに聞こえなかったかと背筋に汗が流れる。
「じゃあまぁ、あんまり遅くなってもあれだから早速アトリエ行こうか」
「アトリエ……」と聞きなれない言葉を頭の中で何度か再生し、「ここは全て次元が違うんだ。異世界転生したとでも思え」と何とか言い聞かせた。一時間しない場所に異世界が広がっているとか田舎にもロマンってあるんだな。
部屋と部屋を繋ぐ廊下も外にあったものとは少し雰囲気の異なるタイルが張り巡らされていて、その真ん中には蛇の目模様というのか独特な文様が描かれた赤いじゅうたん。その上を土足で歩く事自体間違いな気がして端のカーペットがない部分を歩こうとしたが、それはスピカに笑われた。
そもそも土足で家の中にいるというだけでも気持ち悪いのに。
両面の壁に飾られた絵画に見守られながら歩くこと数十秒。いや、下手したら一分は過ぎたかもしれない。
他の部屋への入り口とは異なる二枚扉で仕切られた大きめな部屋の前でスピカは足を止めた。
「まさかここが」
それ以上は聞かずとも。スピカは扉右側に取り付けられた電子ロックに何かしらの番号を打ち込み部屋の錠を解除する。
「なんでそんな厳重に?」
「ん~中に高級なものがあるってのもあるけど、それ以上に絵を描いているときに邪魔されたくないからかな。中は防音にしてもらってるから集中して何かをするにはもってこいの場所だよ」
何でもないようにスピカは言うがその時点で美術部とは天地の差がある。
昨日一日美術部の部室というか美術室にいただけでも校庭の運動部、校内にいる吹奏楽部、家に帰らずだらだら話している生徒など、多数の声で満ちていたのに。いくら部員が美術室を明け渡して集中できる環境を作ってあげていると言ってもこれだけ管理された部屋を前にしたら、アリが人間に立ち向かおうとするくらい無力だ。
豪勢な二枚扉をスピカが開き、徹底管理されたアトリエがついに姿を現す。
一瞬で目に入るのは夕暮れの綺麗な夕日。日が伸びつつある今だからこそ、この時間でも夕日が差し込むらしい。その光は和彦たちから向かって右側の窓から入り込んでいる。
ただ、この部屋の凄い所はそれだけじゃない。左側(東側)と正面(南側)も光を取り込めるタイプの窓になっていて、一日中日の光に恵まれる構造になっていた。朝日も夕日も描き放題だ。
「クーラーも完備されているから、ここで暮らそうと思ったら暮らせちゃうんだよね」
スピカは笑いながら言っているが笑い事ではない。そんな素晴らしい部屋をもはや一室ではなくアトリエ部屋として使えるとかどれだけ豪勢な使い方か。
と、まぁ部屋の構造もそうだが問題なのは正面で多大なる存在感を示している布に覆われたイーゼルだ。間違いなくあれがシェルアート展覧会に出展する絵のはず。
「ん~もうせっかちなんだから。もうちょっとこの部屋の感想くれたっていいのに」
「絵に関してはどっちみち素人だから道具を見たりしても価値が分からん。赤星さんでも連れてくればもっと感動してもらえるんじゃないか?」
「まぁだろうね。ここにあるほとんどがフランスから取り寄せてるものだし。もしかしたら一周回って「なんでこんな訳の分からないやつ使ってるの」とか言ってくるかもね」
「赤星さんはそういうこと言うタイプじゃないから」
「ふ~ん。かず君随分赤星さんの事買ってるんだね」
「そういうわけじゃない。スピカが赤星さんの事を知らないだけ」
特に怒って言ったつもりはなかったがスピカもそれ以上は言い返さず、そのまま正面のイーゼルにかかった布に手をかけた。
「じゃあまだ途中だけどスピカの描いた絵にご登場いただきましょう」
盛大な前振りと共に現れた絵。
「星……か」
そこに描かれていたのはどういう因果か、和彦の心を刺激する絵だった。
しかもただの星じゃない。
「流星群。まだ絵がはっきりしてないから何座のかまでは分からないけど」
つい、昔覚えた知識が蘇るように頭の中を流れていき言葉になる。
「へ~かず君星について詳しいんだ」
多分これだけスラスラ抵抗なく星の話が出来るのも沙織が帰ってきてくれたおかげだろう。
「じゃあ、もとにしているこの写真からだったら分かる?」
スピカは棚から一枚の写真を取り出し和彦の前に差し出した。
放射線状に飛ぶ流星群の中でも珍しく二つの流星群がぶつかるように落ちている写真。おそらく遠近の関係でそう見えるだけであってぶつかるわけでは無いが、流星群を見ていてもこれだけきれいに錯覚させられる写真は無い。
この写真をフォトグランプリにでも出せばそれだけで優勝できそうだ。
「多分他の星座配置から見てふたご座流星群なんじゃない? この写真冬に撮ったりしなかった? それも去年のニュースになるほど綺麗に降ったふたご座流星群。あ、でも日本じゃなかったら――」
スピカにフランスの繋がりがある事を思い出して、国外で撮ったことも考慮し再演算しようとしたところでスピカの方が「正解。凄いね~」と答え合わせを。
「本当にかず君の言う通り。これは去年の冬に日本で撮ったやつ。こんな風にキレイに見えるっていうのを伝えるためにも絵にしようかなって。タイトルは『恋する彗星』かな」
スピカの描いている絵は確かにまだ写真とは程遠いものの、描かれている部分の彗星の綺麗さ、繊細さは本物だ。
「っていうか下絵とか鉛筆書きとかは?」
昨日の天音を見ていたこともあり、多少絵に関しても知ったからこそ気になった。下絵ならすべて書かれているはずだから。
ただ、スピカが「それだよ」と指さしたのは「写真」。さっきスピカが持ってきてくれた彗星の写真だ。
「それが下絵。それを見ながら今キャンバスに描いてるって感じ」
「写真とその絵だと比率とか違うのに合わせないのか?」
「そこはなんとなくでしょ」
多分この話を天音に聞かせれば「嘗めないでよ」って言うのだろう。心優しい天音だが絵に対しては真摯だからこそ容易に想像が出来た。
ストーカーではないが一年近く見続けていれば接点がなくとも意外と表面上の素性は知れるものだ。
ただ、下絵なしでここまで書かれたとなればそれはもう圧巻。写真と見比べても真ん中に映る一本の彗星の大きさはしっかりと拡大されていた。
素人だからこそ和彦に断定的な事は言えないが、それでも綺麗に収まるのだろうと直感的に信じることが出来た。
「約束だから写真も撮らせてもらうぞ。もちろんSNSとかにはアップしないから」
「どうぞ」
許可をもらって写真を撮る。
「そういえばこんな風に写真を撮っておいてなんだけど、写真を撮ることで絵に悪影響とかしないのか?」
美術館などではよく「写真撮影はお断りです」みたいな場面がある事を思い出し、聞いてみた。
「ん~あんまり詳しくは知らないけど多分大丈夫だと思うよ。海外の美術館だったら普通に写真を撮っていい所もたくさんあるし、中にはフラッシュすらオッケーな所もあるくらいだからね」
じゃあなんで日本はそんなに厳重なのかとも思えてくるが。
「日本でも大塚国際美術館とか金沢二十一世紀博物館とかは写真オッケーになってたはずだよ」
そのどちらの美術館も一部撮影禁止ゾーンはあったから、もしかしたら著作権的な問題で広められるのが嫌な美術品が写真NGにしているのでは? というのがスピカの推測だった。
という事で、ある程度携帯にスピカが描いている写真を収めさせてもらい、その代わりに連絡先を交換して(高嶺の花との連絡先交換がこちらの差し出す条件という時点でやっぱり利益という考えの取引は成り立っていない気がするが)盛大な見送りをされながら家の近くまで送ってもらった。
流石に家の前までリムジンで行かれると、小さなあの集落では天変地異が起きたと数か月、いや、下手すると数年レベルで噂になりそうだから、ある程度手前で下ろしてもらって。
家に着くころにはスピカの方からメッセージで「無事着いた? 今日は何だかんだ楽しかったな~ありがとうね」と届いているものだから、繊細でマメなんだなと和彦の中で少しだけスピカという女に対する評価が変わった。
そんなスピカとの一件もさることながら、和彦にはもう一つしなければならない事がある。何が何でも今日中にしないと大変なことになってしまいそうな事だ。
天音に写真を送る事? 今日の宿題? いやいや、そんな生易しいものではない。
沙織だ。
結局今日も沙織を置きざりにして学校案内はやらないわ、自転車に乗せてすらやらないわ、待っててと言われたのに勝手にどっか行くわ。
「流石に怒ってるんだろうな」
今日中に謝らなければどうなるかすら分からない。
確かに沙織は心優しく、笑顔の可愛い女の子だ。少なくとも和彦の知っている小五までの沙織は、人生を全力で楽しんでいるような子だった。当時はそんな風にいつでも話しかけてくる沙織がウザかったりもしたが、それでもかけがえのない日常をくれていた大切な人。
と、ここまでなら慈愛の女神とも言えよう心温まるエピソードだろう。だが、小五まで共に過ごした幼馴染なら裏の顔の一つや二つも知れるという物だ。
まぁ裏の顔というと少し語弊があるが。
あの日の記憶は和彦の脳裏に焼き付いて消えない。
夏の夕暮れ。和彦は沙織の家に遊びに行っていた。事件が起きたのはその時だ。何が起きたって別に大したことではない。ただ、沙織の部屋に出たのだ。人類の敵、ゴキブリが。
きっとゴキブリも悪意はなかったのだろう。たまたま沙織の部屋に迷い込んでしまった。唯一そのゴキブリが犯した失態は家具の隙間や暗がりを縫うようにして走っていたガサゴソという音が少し大きすぎたこと。
その音こそがゴキブリにとっての致命傷だった。
沙織は絶叫をあげ、書き表してはならないほどの暴言の嵐。人間に対して同じ言葉を向けようものなら、相当なメンタルの持ち主でない限り失神してしまうほどの悪口。
隣で聞いているだけで、自分に言われているわけじゃないと理解していても和彦は倒れてしまいそうなほど気分が下がった。
だが、沙織の攻撃はそれで終わらない。
和彦に「このクソ〇〇〇が逃げないように絶対に見張っててよ! もし逃がしたりでもしたら和君まで〇〇〇〇だからね」
和彦は恐怖に震えながらも無理やり首を縦に動かした。
絶対見失わない。出来ればその場から動かないでくれ。そんな願いが通じたのか、これから処刑される予定のゴキブリは同じような場所をクルクル回るのみで逃げも隠れもしなかった。
そんなゴキブリに対して和彦の持った感想は「勇敢だな~」でも「気の毒に」でもない。
「よくぞ俺を守り犠牲になってくれた」だ。
じきに沙織が戻ってくる。手には分厚くグルグル巻きにしてバッドのようになった新聞紙。
「〇〇〇〇はどこに行った?」
和彦は何も告げずただ指をさし、後ずさるようにその場を離れる。
「和君、よく見失わなかったわ。お手柄よ」
鬼気迫る表情のままに新聞紙を振りかぶる沙織は恐ろしく、絶対に一生忘れないと感じさせられた。
ゴキブリは何の抵抗もなく一瞬で天国へ。ゴキブリに覇気が伝わっているのか、普通なら逃げまくってなかなか仕留められないゴキブリが一発でノックアウトに。沙織の新聞紙は百発百中なのだ。
それでも「汚い、汚らわしい」と死体を殴り続ける。それが止むのは和彦が「それ以上叩いたら汁が部屋にしみこむよ」と忠告した時だ。ハッと我に返り、沙織の腕が止まったのちに厳重な掃除がされて事が終わる。
つまり何が言いたいかといえば、沙織は『自分の疎ましいものに対しては容赦ない』という事。
もし、和彦が疎ましい認定されゴキブリと同等の存在と捉えられれば血も涙もない拷問にかけられ、命は無いだろう。
考えただけでも体の震えが止まらない。あの眼差しを、あの暴言をすべて自分に向けられると想像するだけで気が狂いそうだ。
和彦にとってそれだけは何としてでも避けなければならない。となれば今日中に謝らない以外の選択肢はない。
沙織が帰ってきてから、そのつもりはなかったが思い返せば無下にしてきたことも多々。もとはといえば沙織がいきなり自分と同じ学校に通い始めるのが悪いのだが、そういう理屈っぽい道理で納得してくれるような女でもない。
和彦は一目散に走りだす。例の裏道を使って直接沙織の部屋へ。以前みた沙織のお母さんの様子だと、呼び鈴鳴らして「沙織」という名前を出すだけで、沙織にたどり着くことなく殺されそうな気がするから。
少し狭い茂みを超え、大房家の庭を通り、たどり着くことが出来る沙織の部屋。カーテンは閉じられていて、外から中の様子は見えない。という事は沙織も和彦がやって来たという事は分かっていないのだろう。だから幼いころはいつも使っていた合図を使用。障子を三三七拍子のリズムで叩く。力を入れすぎてはダメだ。以前に障子を破って怒られた経験のある和彦は慎重になりながらそっと三三七拍子のリズムを刻んだ。
寸分の間が生まれる。夜風が吹き抜け、虫の音かフクロウの声か「フーフー」という田舎の夜特有の音が響く。
心臓が爆発しそうだった。このまま出て来てくれなかったらどうしよう。明日学校で公開処刑されたら。考えればきりのない不安が和彦の心の中で渦巻く。
が、そんな和彦にも救いの手は差し伸べられた。
「何?」
張りつめたような空気に鋭い言葉。一言で分かる。沙織は怒っていると。そう、和彦はまだ何一つ助かってはいないという事実が。
和彦は沙織と目を合わせることなく縁側に膝をつき、額までつけ、最大限の謝罪を入れ込んだ。
「ホントゴメン。今日のはマジでゴメン。待ってるつもりだったんだけど色々あって」
「ほな、その色々をまず説明してもらわなな」
「あぁもち――――」
「もちろん」と言いかけて言葉に詰まった。え? なぜに関西弁? と。いや、それ以上に関西弁で話す声自体沙織のものではない。
そっと土下座の状態から額をあげ、部屋を見渡してみるとそこには下種を見るような目で見下す沙織と、よく分からない、身長が小さな藤色の髪をした女がいた。
「え? 誰?」
その困惑した一言に沙織もようやく事態を理解したのか、己で作り上げていた張りつめた空気を一瞬でぶち壊して「これは……その、違うくて」とてんやわんやになり始める。
そんな中でただ一人冷静だったのが、その見たこともない少女だけだった。
「ウチは天野詩瑠。もともとは大阪出身やったけど、訳あって一人で上京。サオと出会ったんはその時東京でや。な? せやろサオ」
まるで隠し子の妹という感じだったが沙織は詩瑠に合わせて「うん。そう。東京でたまたま会って、今日も和君が一人で帰るからって愚痴を聞いてもらってたとこ」と。
愚痴聞くためだけに東京からやって来るというのもアホらしい話だが。二時間かけてやって来るこの詩瑠とかいう女もどれだけお人よしなんだよ。
「で? あんたはウチを見るためにここに来たんとちゃうんよな? サオになんであんな酷いことしたんかちゃんと説明してもらおうか?」
だが、話の共有を受けた詩瑠は沙織以上にぐいぐいと責めてくる。和彦にとっては厄介で面倒な奴を呼ばれただけだった。
とはいえ、今回の一件に関してはちゃんと謝って説明しなければならない。
和彦は撮ってきた写真なども活用しながら事の顛末を一部始終説明した。
「じゃあ、あの時いなくなったのも高橋さんの懐に入り込めると思ったから?」
沙織の言葉に和彦はうなだれるようにしながら頷いた。そのわきで詩瑠は「ほんまサイテーやな」なんて悪態ついているがこればっかりは返す言葉もない。出会ったばかりの詩瑠に悪態をつかれる筋合いもない気がするが。
そんな中、神妙な面持ちで沙織はもう一つだけ質問してくる。
「和君にとって天音ちゃんってそれほど大事な人? 本気で狙って付き合いたいって思ってる?」
まるでギャルゲーの究極選択肢のように投げかけられる質問。
ギャルゲーで攻略対象が沙織ならここは間違いなく「ノー」だ。たまにヤンデレキャラ相手だとセオリー通りここで「ノー」と答えたにも関わらず、後々天音との関係がバレて殺されるエンドになることもあるがそんな事はごく稀。ましてや沙織はヤンデレキャラでもない。ただ、それは攻略対象が沙織ならの話だ。
今天音と沙織を天秤に掛けてどちらと付き合える方が幸せか。昔、初恋をして、つい最近まで未練にとらわれて他の女を好きになれないほど大切にしていた女か。はたまたその呪縛から解き放って和彦に青春をくれた女か。
天音ルートを選んでちゃんと付き合えるかなんてわからない。いや、今までの積み重ねから考えても上手くいく可能性が低い。それでも、それでも和彦ははっきりと口にする。
「本気だ」と。たった三文字。それでも世界は大きく変わった気がした。
沙織は「そっか」とため息交じりに小さく呟く。
「なら仕方ないね」と。とても喜んでいる表情ではなかったが、無理に笑いながら和彦の蛮行を許す沙織は、この一瞬でどこか和彦の知っている沙織とは一線を画した別物の何かになったような空虚な感じがあった。
そんな不思議な感覚に耐えられなかったのか、大阪人が「何をそんなしけった空気二人で醸し出してんねん」と明るい声でぶち破る。静寂に包まれた世界に色が戻った。
気付けば沙織もいつも通りの沙織だ。
「でも、あんたもこのままお咎めなしで日常生活に戻れるんはちょっと甘いんとちゃう?」
ここで終われば世界は全て元通りだったはずなのに、詩瑠は調和を取り戻すだけでは飽き足らず新たな爆弾を抱え始めた。
「ココは一つ、今日サオを悲しませた分、明日二人で遊園地にでも行ってもらおうか。デートやデート。女の子悲しませたんやからそれくらいはしたって当然やろ?」
したり顔で「それこそが道理」とでも言いたそうに堂々と詩瑠は告げる。
「いや、待て待て。確かに反省はしてるけど、いきなりデートって」
どうしてさっきの話の流れを汲まない。今沙織の目の前で「天音に対して本気だ」と言ったばかりなのにデートさせるか普通? 気まずくて居ても立っても居られないだろ。
と、和彦が焦るのは当然にして、沙織の方もこの計画は聞かされていなかったらしく、動揺しながら「ちょっとシル! 私も聞いてないんだけど」と。顔を真っ赤に染め上げ大パニック。さっきまでとは打って変わって感情豊かな沙織はいつも通りの平常運転だ。
「えぇやん、えぇやん。せっかくあんたら久しぶりに再会したんやろ。ほなそんくらい楽しまな」
「大体さっきの流れからも分かるだろうけど、俺たちは付き合ってるわけじゃなくただの幼馴染なんだぞ」
そう言いながらもまだ若干和彦に迷いはあった。「本気だ」なんて逃げ口上のように使ったが心に整理をつけて天音に百パーセント振り切れているわけでは無い。そりゃいくら自分に青春をくれようとしている存在が現れたとはいえ、沙織は生まれてから十年以上ずっと一緒に居て、五年以上心の中に居続けた存在だ。普通に誰かを想ったことがある人なら分かるだろうがそう簡単に割り切れるものではない。
本音を言ってしまえば、沙織が和彦の前に帰ってきたあの日、和彦の心は物凄く揺れ動き全くもって穏やかではなかった。
だが、そんな気持ちも沙織の前では素直になれない。それだけだ。だから「(天音に対して)本気だ」なんて逃げ口上だって使った。心の中でキャラ崩壊していると言われても構わない。それくらい和彦自身が自分の気持ちを理解しきれていなかった。
和彦は小五の時から何一つ成長していない。あの時は本当に失ってから沙織の大切さ、どれだけ沙織が必要な存在だったかに気付いたと表現していた。嘘じゃない。一緒に居る時に恋愛感情を感じたことは無かったから。それでも「ドキッ」と心が弾む瞬間があったのも確かだ。それを和彦は無理やり「何でもない」と抑え込んでいたのではないだろうか。
「好き」の二文字を認知することを避け続けて来たのではないだろうか。沙織に自分の心の奥深い所を見られるのが怖かったから。
今も昔も何一つ変わらない。だから、今の和彦には沙織とデートなど出来ない。
ただ、自分の選択は間違っていなかったようで沙織の方も「そうよ! 私たちは幼馴染ってだけなんだから」と詩瑠の言葉を否定している。
沙織に対して素直になれない理由のもう一つはこれだ。沙織は和彦の事をなんとも思っていない。本当にただの幼馴染だとしか思っていない。それなのに一方的に和彦だけ十六年間ずっと好きでしたとか死んでも言えない。馬鹿にされて終わり。一生の黒歴史。それだけは勘弁してほしい。
「はいはい」と二人の焦る声を聴き、詩瑠は幼稚園児をあやす先生のように大げさな声を上げた。
「ほな、デート言うんはやめや。デートや無くてただのお出かけ。ウチも同伴する。三人でお出かけやったらええんやろ」
詩瑠なりの妥協だったのか「ホンマこれだから子供は」とでも言いたげに首を振っていた。
確かにそういうモチベーションで沙織と出かけるくらいなら百歩譲ってギリオッケーとしよう。それでもまだもう一つ問題がある。
それは明日がまだ水曜日だということだ。
大阪の家を一人で家出して、沙織に呼ばれたからという理由だけで二時間かけてこんなド田舎に来てしまう娘だ。詩瑠には学校という概念がないのかもしれない。でも、一般的に家出をすることもなく育った和彦はそうもいかない。
そんな反論に対して詩瑠は「あんた何ゆーとるん」とでも言いたげに半眼に閉じた目を和彦へ向けていた。
「自分ちょっと頭固いんとちゃう? あんたらは義務教育で学校に行っとるんやないんでしょ。あくまで学ぶために学校に行っとるんとちゃうん? それが学校に行っては寝たりケータイしたり。別に勉強したかないなら行く必要ないんやで。絶対に行かなあかんのは中学までや」
と、確かに和彦にとって学校に行く理由は義務教育だからではない。かといって学びたいから行っているのかと問われればそれも違う。社会に出るうえで必要だから仕方なく行っているというのが本当の所だ。「高校、いや大学は出なければ立派な大人にはなれないよ」という親や中学の先生、ひいては社会にそう言われたから和彦は学校に行く。
「でも、たかが一日サボったくらいで人生は終わったりせえへん。仮病だなんだと理由付けて学校を休んどる高校生が世の中どれだけいる事か。あんた少し真面目過ぎるわ。そんなキュウキュウに締め付けられとったら息苦しゅうてかなわんやろ」
だが、そんな和彦の考えを真っ向から詩瑠は否定してくる。親元を勢いで飛び出し東京で生活。しかも友達に呼ばれただけで夜中にこんなド田舎に参上。きっとろくな高校にも行っていないのだろう。
「俺は詩瑠みたいに自由人じゃねぇんだよ」
それでも心のどこかには詩瑠の言葉に甘えたいという自分があった。
ここで詩瑠の言葉に従えば「お出かけ」という名目で沙織と時間を共有できる。天音に今日撮ったスピカの写真を見せるのは明後日でもいい。椅子に座って、携帯を眺めて、時に机につっぷっして昼寝をするよりよっぽど時間の有効活用であり、自分にとっては幸福な選択なのではないかと思えてくる。
そんなどっちつかずではっきりしない和彦の気持ちにとどめを刺したのはやっぱり詩瑠だった。
「人間、時間は有限なんやで。楽しい事せなもったいないわ」
そう、人は幸福を得るために生まれて来たんだ。ちょっとくらい久しぶりに再会した幼馴染と共に時間を過ごしてもいいだろう。
「いや、待ってよ。私はまだ何もオッケーしてないし」
「いいのいいの。ほな明日は始発から出発やで。オーシャン・ランドすぐに満員になってまうからな」
詩瑠は沙織を抑え込み、勝手に計画を断行した。