表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

二章

 結局あれ以降、沙織と話は出来ないまま日が明けた。

 和彦にとってはまた何気ない一日の始まりだ。学校に登校し、授業を聞き流しながら日がな一日を過ごす。

 そう思って学校に登校したのだが。

「おはよ。和君」

 そこには昨日までいなかったはずの生徒が何食わぬ顔で。

「沙織!? お前、どうしてここに?」

「どうして……って私だって和君と同い年なんだからいて普通でしょ。あ、でももう私誕生日過ぎてるから年上か」

 いやいやそういう事じゃなくって。

「でも、ちゃんと手続きだって取ってこの学校に入っているんだよ」

「ほら」と言いながら彼女はあるものを紹介する。一つの机だ。昨日までは無かったはずの場所にポツリと。

 しかも和彦がはみ出したように後ろの席にいたせいで、新たに増えた机は和彦の隣。

 そういえばマンガなんかで「空いてる席は……あ、主人公の隣が空いてるか」という鉄板パターンが完璧に準備されている。

 沙織は「ふふ~ん♪」と愉快に鼻を鳴らしながら、「という事でこれからよろしくね」とさも当たり前のように突如現れた席に腰掛けた。

 これだけ手際よく入学手続きが取られるとかどういったマジックをしたのだか。

 そればっかりは今ここで和彦が一生懸命考えたところではっきりさせることは出来なかった。

 だが、和彦の想像を絶するほどに弊害は一日中続く。

 普段からそこまで集中していた授業ではなかったのに、嫌に隣の席が気になる。

 理由の一つは今まで人がいなかった場所に人がいる違和感からだろう。もう一つはその席に座るのが幼馴染というあり得ないくらいの確率事象が発生している事だ。

 沙織はまじめに授業を受けているようで「サッパリ話が分かんない」とものの十分で集中力を切らす。それからはやりたい放題だ。

 後ろの席で先生から見にくい事をいいことに和彦の席へちょっかいを出してきたり、教科書に落書きをしたりと目が離せない。

 転校初日からこれだけの行為を繰り返す事が出来るとかどれだけ肝が据わっているのだか。

 それ以上に「静かにしろ」と怒られるのがどうして和彦だけなのかも気になる。先生だからって男女差別と贔屓はよくないだろ。

「ねぇ、今日の放課後さ、この学校の案内をしてよ」

 と、最後のHRが始まる前。散々の仕打ちに耐えてきて疲労困憊な和彦に対して、一切いたわる素振りなど見せず荷物をまとめながら沙織が。

「なんで、そんな面倒なことをしなきゃならないんだよ」

「ほら、だって私転校してきたばかりでこの学校の事とか全然知らないし。いち早くなじむためには学校について色々知っておかなければならないでしょ」

 と。さも当然のようにマンガメインヒロインド定番イベントを繰り広げようと。いや、待て。沙織さん、あなたは幼馴染なんですよ。和彦には目下片思い中の思い人がいて、どう考えてもそっちがマンガでいうヒロインのはずなのに。

「思い人?」

 そんな妄想ツッコミが声に出てしまっていたのだろうか、沙織は小首をかしげながら和彦の言葉を繰り返す。

 さらに運がいいのか悪いのか、一方的に想っているだけの片思い相手――赤星天音あかほしあまねがこのタイミングで俺の机にやってきた。

「ねぇ。鷲崎君。この後の放課後、その……ちょっと時間大丈夫?」と。

 今までろくに話したこともなかったのに突然赤星さんの方から。しかも少し顔を赤らめて、ちょっとだけ目線を外しつつパチクリと瞬きをさせながら。

「え……」

 え……っとちょっと待って下さい? どうしたどうした。どうしてこんなイベントが急に舞い込み始めた? 

 幼馴染がいきなり転校してきて隣の席にやって来たと思ったら、「好きだ」と憧れ眺め続けていた女の子からそんな照れた感じで「放課後時間ある?」と。

「出来れば、HRが終わった後、美術室に来てほしいんだけど……」

 それは明らかに、告白か、それに準ずる何かが待っているイベントフラグだ。

 本来のこういう呼び出しなら屋上や体育館裏を想像する人が多いのだろう。だが、田舎のこの残念学校は、体育館裏に行くためにはいちいち靴を履き替えなければならないし、位置取りを失敗すると余裕で体育館の中にいる人や校舎の中にいる人から見えてしまう。

 屋上に関してはあるにはあるのだが、なぜか「対ゾンビ用ですか」と問いただしたくなるほど無造作に椅子と机を投げ込むことで完成されたバリケードがその行く手を阻んでおり、一般生徒が屋上へ侵入することは不可能。

 となれば美術部部員である赤星さんが、人気の少ない美術室に呼び出す理由なんて。

 だけど、赤星さんはそれ以上の言葉は紡がずその場を去っていった。そんな一部始終を見ていた一年の頃からの友達、枡形ますがた劉生りゅうせいは「ふ~モテモテだな」と茶化すばかり。

 とはいえ、これは一世一代のチャンスだ。隣に転校してきた沙織はどうでもいいにして、赤星さんからアプローチがあったというのはついている。盆と正月が一緒に来るよりめでたい事だ。

「和君態度に出すぎ。思い人ってさっきのちっこいちびキャラみたいな女?」

「ちびキャラじゃない。赤星さんだ。確かに小っちゃいけど普通にいい子なんだって!」

 だが、その声に熱が入りすぎていたのか、多数の白い目線が一気にこちらを向いた気が。

 辛うじて赤星さんはトイレにでも行ったのか教室に居なくてよかったが、それでも恥ずかしい。

「んで、どうするつもりなの? 私の学校見学とその赤星さんの誘い。どっちに行くつもり?」

 それを今更聞きますか沙織さん。と言いたい所だったが、彼女の顔は割と真剣で。ボケたというにはあまりにも表情筋に動きがない。

「赤星さんの方だけど……」

 絶対悪い事してないのに、和彦の方が自信なくなる。

 でも、沙織もそれ以上何かを言うわけではなく、フンとそっぽ向いたのちに「じゃあ、その要件が終わったら学校案内してもらうから」と。それだけを残して帰り支度を再開した。

「え……そこまでして学校案内してほしい……?」


 HRは本当に秒で終わったのではないかと錯覚するほど一瞬で終わり、トイレなどで少し時間をつぶしたのちに和彦は美術室に向けて歩みを進めていた。

「で、何であの赤星さんって子がお気に入りなわけ? ロリコンだから?」

「誰がロリコンじゃ!」

 それ以上になぜ沙織も平然と隣を歩いている!

「そりゃその要件が終わったら和君に学校を案内してもらわなきゃいけないし。にしても和君私の知らない間に変わったよね~」

 沙織は特に目を合わせるわけでもなく前を向きながら呟く。

「昔は星にしか興味なかったくせに今や、星とはおさらばして農作業と女の子にご執心とは」

「農作業は家業だし、年ごろ的に好きな子くらいいたっていいだろ」

「ちなみに、今までに付き合った子は?」

 その質問には少々答えづらかったけど、どうせ嘘をついたところでバレるだろうし正直に「ゼロ……」と答えた。

 にもかかわらず沙織は和彦の誠意に対して「プクス」とまるで火山の噴火のように小さい波を起こしたのちに大爆発。「え? やっぱ彼女出来たことないんだ」と。廊下に誰もいないとはいえ、下手したら教室のほうまで聞こえそうなボリュームで大爆笑。

「わ、悪いかよ! 今までそういう縁がなかっただけだ」

 そんな風に笑う相手に「いなくなった奴の事を急に意識しだしたら他の女が好きになれなくなっただけだよ」なんて死んでも言えない。

 ただ、どういうわけか沙織の爆笑モードはスッと落ち着きを取り戻し、まるでインタビュアーのように次の質問へ。

「じゃあ、そんな彼女の一人もいなかった和君がどうして赤星さんの事を好きに?」

 当然と言わんばかりに、そういう色恋沙汰が好きそうな沙織は馴れ初めの質問を入れてくる。

「それをいちいちお前に答えなきゃいけないか?」

「そりゃまぁ。私がいなかった頃の和君に何があったかは知りたいし」

 特に話して過去のすべてが分かるようなエピソードでもなかったが。

「出会いっていうか接点があったのは去年の体育祭だ。そこでクラスが一緒だった俺と赤星さんはたまたまリレーの順番が並んだ」

 この学校における体育祭の目玉種目でもある全員リレー。その名の通り運動が得意不得意関係なく全員走らなければならない知る人ぞ知る運動不足組への公開処刑。

 和彦も運動部に所属していないことから分かる通り、運動が得意な方ではなかった。つまり処刑される組だ。

 そんな処刑される組はどこの学校も同じかどうか知らないが、大方真ん中らへんに集められる。

 クラスによってはそれを読んで真ん中らへんに速い選手を入れたりするところもあるが去年の和彦が所属するクラスはそうでは無かった。

「それでも、クラスにだけは迷惑かけたくなかった」

 正義感とかじゃない。自分がバカにされたり、嘲笑の的になったりするのが嫌だったから。

 だから誰かを抜かしたいとかそういう目標よりも「目立つような走りにはしたくない」という思いが強かった。

 なら、目立たない走りとは何か? 和彦の出した答えは『必要以上の人数に抜かれない事』

 その目標を達成するために目を付けたのが加速――リレーで言えばバトンパスだった。

「沙織がリレーとかやったことあるかどうか知らないけど、一か月そこら走ったところでタイムはそうそう伸びない。でもバトンパスが上手くできればそれだけで数秒早くバトンを繋ぐことが出来るんだ」

 だから和彦は自分より走順が前だった赤星天音に声をかけた。「一緒にバトンパスの練習をしてほしい」と。

 もしかしたらみっともないお願いだったのかもしれない。走るのが得意じゃないから小細工使って少しでも早く次につなげるために協力してくれなんて。

「それでも赤星さんは笑顔で『うん。分かった』って言ってくれたんだ」

みんながトラックを走ったりしている中、何度も何度も二人でバトンパスの練習だけをし続けた。

 赤星さんの方からも「もっとこうした方がいいかな?」「走るスピードもう少し上げた方がいい?」とかいろいろ提案してくれて。赤星さん自身だって自分の走りで手一杯だったはずなのに。

「はじめは「笑顔可愛いな」程度にしか思っていなかったんだけど、そうやって二人で特訓をしているうちに俺の心が少しずつ赤星さんに惹かれていったのだと思う」

 そこまで完璧にしてようやく和彦は「一番速く走りだせるバトンパス」というのを身に付けた。これなら下手に目立つことは無いと確信できるほどに。

 それでも本番は緊張する。嬉しいのか嬉しくないのか、和彦が所属するクラスのバトンはスタートから一位をキープした状態で。

「赤星さん」

 後ろとの差もあまり大きくなかった。予行練習で同じ走順の人と走ったことはあったから自分で一位が逆転されるのは仕方ない。それでも三位とは十メートルほど差が出来ていたから、少し責められるくらいで済む、そう思っていた。

 だけど……。

「結果だけを言えば俺がバトンを渡した走順は四位だった。五クラス中の四位」

 バトンパスの時、赤星さんが和彦にバトンを渡そうと手を前に伸ばした瞬間。二位を走っていたクラスの走者と赤星さんの腕がぶつかった。ぶつかった二位の走者も女の子ではあったが体つきのいい子で、その子の勢いに赤星さんの方がふらついてしまったのだ。

 正直言ってしまえばどうしようもないアクシデント。

 それで赤星さんの歩幅がずれて完璧なバトンパスは崩れた。テイクオーバーゾーンというバトンの受け渡しスペースから出るわけにいかなかった和彦は意図的にスピードを落とし、ほぼ加速の無い状態から走り出さざるを得なかった。

 とは言っても、こればかりは赤星さんを責められるわけじゃない。言った通りどうしようもない事故だったのだ。

「でも、そのリレーが終わった後、赤星さん泣いてたんだよ」

 誰にも気付かれないようにして体育祭中は人がほとんど通らないであろう昇降口で。和彦は和彦である程度話をする友達たちから冗談交じりに責められていて。それから逃げるようにして和彦もまた人気のない昇降口の方に向かった。だから一人体育座りをしていた赤星さんを見つけることが出来たのだが。

「赤星さんが悪いわけでもないのに、あんな風に悔しがって涙流して。それを見た瞬間に心の中で『すごいいい子だ』という思いと『守ってあげたい』って思いが溢れるように湧いてきた」

「ふ~ん。なんか普通にいいエピソードを聞かされていただけの私にどう反応しろって感じだけど、そんなことがあって逆に今日の今日まで付き合えないの?」

 と、沙織は平気な顔して核心をついてくる。悪気は無いのだろうが平気でナイフをグルグル回しながら胸の奥深い所を突き刺してくる。

「泣いているのを見つけた時は、まだ俺自身が興奮状態にあったっていうのもあって自然に話しかけることが出来たんだけど、翌日以降赤星さんの事を意識するようになったら、今までのように話せなくなったんだよ」

「まさかじゃないけど、それを今日まで?」

 間違いじゃない。そのまさかだ。冬と春が過ぎ、学年が変わって運よくまた同じクラスになったにも関わらず。ここ半年、いや九か月くらい事務連絡程度の会話しかしていない。

 そんな事務連絡にすらドギマギしているのだから情けない話だが。

「それでもちょっと怖いんだって。話しかけるのが。赤星さんがどう思ってるかなんて分からないし」

 結構的を射た悲痛の叫びだったと思うが、沙織は和彦の嘆きを一刀両断していく。

「そんなんだから彼女出来ないんじゃない」と。

 それを言っちゃおしまいなんだよ。

 でも自分から行くのは怖い。それで「キモイやつ」と認識されれば終わりだし、「興味ない」と断られる未来を想像すればそれだけで絶望が広がる。

 先に進もうとすることで自分がボロボロに傷つけられるくらいなら、逃げる方が、逃げ続ける方がよっぽど楽だから。

「でも、どうしてかは知らないけどいきなり千載一遇のチャンスが来たんだよ!」

 告白するよりも告白されたい系男子はこういったイベントがものすごく大事になる。この呼び出しにどう受け答えするかでその後の人生はバラ色にもいばら色にも千変万化するのだから。

「どうせあれじゃないの? 『視線がじろじろウザい』とか『勉強を教えてほしい』とか」

「だからそういう悲しい事言うのやめろよ」

そんなことを言われる心配以上に今の和彦には懸念材料があったのだが。

「いいか沙織、死んでも赤星さんの前で俺の悪口言うなよ。キモイとかダサいとか臆病とか農業しかしないとか。本当に俺の命掛かってるって言っても過言じゃないからな」

「オーバーだって。他に好きな子が出来たらどうするのよ」

「赤星さんを差し置いて俺に好きな子が出来るわけないだろ」

 力強く答えると、その勢いに沙織の方が気圧されたのか一瞬の間を開け「……あっそ」と答えたのちに「まぁ邪魔はしないから」とだけ。

 そうこうしているうちに二人は美術室の前にまでたどり着いた。

 この扉の向こうには赤星天音がいる。

 きっと夕焼けに照らされながらカーテンをなびかせ、顔を赤らめつつモジモジしながら待っているのだろう。

「マンガかアニメか知らないけど影響されすぎでしょ。まだ三時だし、今日は無風」

「だからそういう悲しい事言うのやめろよ」

 これだから爆弾抱えた状態で告白されに行くのは恐ろしい。

 とはいえ、ここまで来て逃げるわけにも行かない。出来る事なら沙織は追い返してから美術室に入りたい所だが、学校案内をするまでは帰ってくれないだろうし。

 和彦は頭の中から沙織を失念して、美術室の扉を開いた。

 そこには……、沙織の言う通り昼間の明るい日差しが差し込み、グランドでランニングでもしているのか「ファイ・オー」という掛け声がこだまする至って普通の美術室が広がっていた。

 その中で天音は絵を立てるための木で出来た道具を組み立てながら美術部としての活動準備を進めている。

「あ、鷲崎君。来てくれてありがとう」

 扉が開く音で気付いたのか、声を掛けずとも天音の方から振り返ってくれる。

「こちらこそ、少しつくのが遅くなってごめん」

 礼儀、というかデートにおける鉄則(時間通りに着いたとしても彼女を待たせた場合には謝る)にならい、一応詫びを入れておく。

 そうすることで円滑にコミュニケーションが進められると以前携帯で調べた。

 だが、その情報は嘘だったのかそれ以上会話が進まない。

 和彦は呼び出された側であり、これからどのようなイベントが発生するか分からない中、「で、用事って?」とこちらから問いかけるのが正解なのか、天音の方からその話を振ってくれるのを待つのが正解なのか分からなかった。

「これって俺から話の催促をするのが正解なのか?」

 天音には聞こえないよう沙織にだけ耳打ちする。

 が、返ってくるのは「知らないわよ」というあてにならない一声。

 この使えない興味津々幼馴染を連れてきた(ついてきただけだが)価値を見出してやろうとしたのに。

 ただ、そんな風に和彦と沙織で密談をしているうちに「今日来てもらったのはね」と天音の方から話しだしてくれた。

 本当に助かる。

 天音は「これなんだけど」と一枚のポスターというか募集要項のチラシを二人に差し出した。

「シェルアート展覧会?」

 そのチラシの上部に大きめな字で記されていた展覧会名。

「うん。これに出展しようと思ってね。そこで、出来れば鷲崎君にその出展する絵のモデルになってほしいなって」

 ん? これはあれか。この「モデルになってほしい」というのが天音の言いたかったことで沙織の言う通り告白とかとは一切関係ないやつではないか?

 その推測が正解だと言いたげに沙織は口元を抑えて必死に笑うのをこらえているし。

 それでも和彦は望みを捨てたくなかった。

「それで、俺をこの美術室に?」

「うん」

 だが、希望は小さくともこっくり可愛げに頷く天音の肯定によってあっさりと打ち崩されてしまった。

 さっきまでの期待に対する反動が大きすぎて頭がいたい。

「でもね、モデルって同じポーズのままずっと立ってもらわなきゃだから本当に鷲崎君がやってくれるなら……で、いいんだけどね。もちろん変なポーズとかいらないし、一時間くらいで終わらせるつもりだから」

 天音が困っているなら、和彦にそれを断る理由は無いのだが。

「でも、どうして俺なんだ? 出展する絵のモデルなら部員とかでも」

 美術部員には確か男子もいたはずだ。それにかっこいい男が描きたいならもっと「かっこいい」という噂が立っている男子に声をかけた方がいい。そんな質問に対して天音は目線をそらし、やや控えめな声で。

「鷲崎君くらいが体型的にも身長的にも構図に当てはめた時描きやすいから」

 それを聞いた瞬間沙織は耐え切れなくなったのか大爆笑。

「体型がよかったからって、ヤバ、にも関わらず期待して」

 辛うじて笑い声に紛れさせて言葉の一端が天音に伝わらないよう配慮してくれたのは唯一の救いだったが、笑うのだけはやめてくれ。辛すぎるから。

「あ、でもでも、体型がいいって美術においてはなかなかない人材なんだよ。絵を描こうって設定を決めて背景とか、メインにする人の大きさと比率。そういうのを計算して考え出された結果だから、本当に百人に一人くらいの存在なんだよ」

『百人に一人くらいの存在』って言葉は告白の言葉と一緒に言ってほしかったよ。

 とは言ってもそういう理由で選ばれたのなら断れない。ここで天音を突き放せばきっと天音が理想としている絵を完成させることは出来ないのだろうし。

「分かった赤星さん。協力させてもらう」

「ホント! ありがとう鷲崎君」

 そうやって手を握られ、笑顔を振りまいてくれるだけで幸せだから。


 承諾を得た天音はすぐに美術室の棚から大きめのスケッチブックを取り出す。道具を揃えて椅子に腰かけて、絵を描く準備は一瞬で整った。

 手には鉛筆が握られ、それとは別に、色の濃さが異なる鉛筆たちが机の上、天音の手に届く範囲内で無造作にちりばめられている。

「鷲崎君、こっちに来て、あの椅子に」

 対する和彦は、天音の指示に従い指定された場所で用意されていた椅子に腰かける。

「うん。そこでそうやってただ座っていてくれればいいから」

 天音は和彦の横顔を描こうとしているのか、視界にギリギリ入るか入らないかの場所でノートに絵を描き始めた。

「あ~と、視線があるからあんまりこっちは見ないで前の黒板の方を見ててくれると助かるな。しゃべる分には構わないから」

 ごめんなさい。

 モデルと言っても絵のモデルはパリコレモデルのようなものとは全然違う。正確に描写するために一ミリたりともずれないようにして欲しいらしい。

「でも、美術部が絵を描くって言うから、その木の何だっけ……、キャンパスとかに紙を立てて描くのかと思っていたけどノートに描くんだね」

 それでも正当に合法的に与えられた天音と話をするチャンスだ。生かさない手はない。というかここでしゃべらない方が気まずくなりそうだし。

「あ~これは別に出展する絵じゃないよ」

「出展する絵じゃないの!?」

「いや、本番じゃないってだけで、下絵ね下絵」

 下絵とはどうやらお手本にするための絵らしくて、天音の説明によると、実際紙にアクリル絵の具を使って作品を作ろうとしたら数週間くらいかかるらしい。もし下絵なしで描く場合モデルは毎日のように長時間同じ態勢を取らなければいけなくなる。それを防ぐためにモデルの絵を完成させてしまって、後はその下絵を参考に作品を作っていくのだとか。

 だからこれから数週間はこの美術室に通えるのかと期待したが実際は今日一日でお役御免らしい。

「あと、鷲崎君の言ってた絵を描くために立てる木のやつは「キャンパス」じゃなくて「イーゼルね」細かい事を言うと絵を描く紙の方も「キャンパス」じゃなくて「キャンバス」だけど」

 天音は美術に対して無知な和彦に親切心で教えてくれたのだろうけど、それを「バカじゃん。和君バカじゃん。ウケる」と少し離れた位置に座って待機している沙織に笑われているからやめてほしい。

 ちなみに「キャンパス」だと「大学」という意味になってしまうのだとか。多分これ以降一生忘れることは無いと思う。

「そういや、鷲崎君ってどこの部活にも入ってないんだよね? どうして?」

 相変わらず天音の方からは鉛筆がスケート選手のように滑る音が聞こえてくる。振り向くことは出来ないけれど依然として描きながら話しているのだろう。

「どうして……と言われても大した理由じゃねぇよ。特に入りたかった部活がなかったことと、農作業をしなきゃならないから」

「ホント知らないうちに野菜大好き人間に変わってたからね~」

 半分以上沙織のせいだけどな。

「まぁ実家が農家だからその影響ってところだ」

 大した話でもないと思うがそれでも天音は「へぇ~」と感嘆の声を漏らしながら興味を持ってくれた。

 いくら田舎の学校とはいえども和彦の家からは自転車で三十分程度もかかる町に出来ている学校だ。みんなにとっては農家という仕事が馴染みの仕事でもないらしく、この手の話をすれば自己紹介等々はいくらでも乗り切れることが出来たし、友達づくりの話題としても役立っている。

 実家が農家というのもそういった点では悪くなかった。

「そんな大層なもんじゃないけどね~」

 実家の周りが農家であふれている沙織にとってはありふれた退屈な話だが。

 ただ、天音の食いつきは人一倍違って。

「私農家とか、農場とか見たことないから、今度鷲崎君の家に見に行ってもいい?」と。

 抑揚こそ「昨日何のテレビ見た?」くらい他愛もない言い方だったが、言っている事は「家に行ってもいい?」だ。天音が和彦の家に。

 心を無にして一ミリたりとも動かないよう努めていた和彦も流石に心穏やかではいられなかった。

「赤星さんが、俺んちに……」

 だが、その動揺が絵に響いたのか、明らかに和彦の挙動がおかしくなったか、そのまま天音の方へと緊張が伝播したらしく「ゴメンね。そうだよね。いきなり家に押しかけようってのは迷惑な話だよね」としどろもどろな言葉で謝罪。

 迷惑なんかでは一切ないのだが、女の子を家に招き入れるならそれ相応の準備がしたかっただけなのに。

「和君の部屋散らかってるもんね」

 ニヤニヤというかニマニマ気持ち悪い笑顔を浮かべながら沙織はそっと呟く。

「うっせー余計なことは言わんでいい」

 そんな沙織にだけ聞こえるように突っ込んだつもりだったが。

「ん? 鷲崎君何か言った?」

 ギリギリ天音には聞こえないレベルだったらしい。

 危なかった。




「よし、完成! こんな感じでいいでしょ」

 それからも会話が絶えることなく、小一時間ほど座り続けていると、ようやく絵が完成した。

 座っている事は立っているよりも楽そうだから全校集会とかで椅子を用意してほしいとは思っていたが、緊張感もって座っているというのは、それはそれで疲れる。

「で、どんな絵が完成したか見ていい?」

「もちろん」

 天音からスッとスケッチブックが差し出され、それを受け取った。

 まるでノートにただ落書きをしたかのような状態だったが、線のタッチや濃さなどにまで意識を向けて完成されたその絵は、素人目で見ても「凄い」と思えるほどだった。

 まず何よりモデルになっているのが自分だという事が明確に分かるところに小っ恥ずかしさを覚える。

 今までも自分の絵を描いてもらうことはあったが、自室に飾ってある幼稚園児の沙織が描いた幼稚園児の和彦とは比べ物にならない。

 マンガに出てくるキャラともまた違う、絵画の白黒版みたいな感じで、なんか自分が偉人にでもなったようだった。

「赤星さん凄いな、この絵」

「確かにこれは凄いね」

 和彦も沙織もただただあっけにとられるばかりだった。

 でも天音からしてみれば「そんなの全然大したこと無いよ」らしい。

 しばらく和彦と沙織が天音の描いた下絵を見入っている間、天音は忙しなく美術室を動き回っていた。

「え~っと、やっぱ紙足しておかなきゃまずいよね……」

 どうやら、この部にある在庫管理をしているようで。

「あ、ごめん。もしかして絵を描くためにこの下絵返してほしかった?」

 これから展覧会に出展する絵を描くために描いた下絵を独占して見続けていたことを少し反省した。

「あ、いやいや違うの。思っていたより絵の具が残ってなくてこれから画材屋さんに行こうと思うんだけど、どうせ行くなら他に足りないものも買っておいた方がいいかなって。だからその絵はまだ見てても大丈夫だよ」

「ずっと見られるのもなんか恥ずかしいけど」と顔を赤らめながら付け足すように。

「画材屋ってそういう備品も自分たちで買ってるんだ。先生とかが補充してくれるわけでもなく」

 和彦が中学校の頃入っていた卓球部では備品関係をすべて先生が管理してくれていたからてっきりそういうものだと思っていたが。

「まぁ高校生だからね。用意されるのよりかは自分に馴染んだものを使いたいって感じで各々買ってるよ。まぁそんなに絵を描かない人は借りてるだけの人もいるけど」

 と。その発言で和彦は少し感じていた違和感を思い切って聞いてみることにした。

「その他の部員って人たちは? 今日は来ないの?」

 そう、天音に呼ばれてから今に至るまで美術部の活動場所である美術室に、美術部員は天音しかいない。

 途中からどんどん他の部員も入ってきて、みんなで囲むようにして絵を描くのかと思っていた和彦にとってはそれが想定外で気になっていた。

 天音以外の美術部員がみな幽霊部員という事も無いだろうし。

「美術部っていっても本気で私みたいな絵を描く人は少ないからね。部員の大半は漫研みたいな感じで。みんな優しいから展覧会前になるとこの美術室を譲ってくれて」

「じゃあ他のみんなは?」

「多分美術準備室で狭いながらに絵を描いてるか話してると思う。もしかしたらもう帰っちゃったかもしれないけどね」

 そんな統一感ない感じでいいのかと思ったが、美術部は野球部やサッカー部とかとは違い個人戦だからそれでいいらしい。大会に出るも出ないも本人の自由だと。

「鷲崎君ももう大丈夫だよ。あとは画材買いに出ちゃうから私もここ離れるし。今日はありがとう」

 備品のチェックが終わったのか、メモを切り外し、天音は絵を描くために広げていたものたちを片付け始める。スケッチブックもこのタイミングで天音に返した。

「せっかくだったら画材購入も手伝うよ? 部員もいなくなっちゃったんじゃ寂しいでしょ?」

「は? ちょっと待ってよ。私の学校案内はどうするつもりよ」

 そういえばそんなのもあったな。すっかり忘れていた。でも、悪い沙織。もう少し天音と一緒に居ることが出来るかもしれないこの状況を手放すわけにはいかないだろ。

「いや、そんな画材屋までなんて迷惑かけるから大丈夫だよ。気持ちだけもらっておくから」

 天音の方は申し訳なさそうに手を振り、首を振り、それはもう全身で遠慮していたが、和彦がそう提案したのにも訳があった。

「画材屋って学校から一番近いコンビニよりもう少し奥に行った所にある、少し大きめの二階建てになってるお店だろ」

 自信はあまりなかったが、天音の方は驚いたように「どうして知ってるの?」と。

 美術に興味の無い和彦にとっては普段からスルーするような場所だが、それでもその画材屋が面する道路は和彦の通学路なのだ。

 田舎の中に建てるには存在感のありすぎる画材屋の前を一年以上通っていればなんとなく記憶には残っている。

 自信がなかったのは店内に入ったことがなかったから本当に画材屋なのかどうかはっきりしていなかったところだ。

 ショーウインドーにさっき教えてもらった「イーゼル」や「キャンバス」が並んでいたのを覚えていたから山を張ってみただけの事。

 それでも当たっていてよかった。

「そこ実は通学路なんだよ。だから帰るついでに」

「そういう事なら……じゃあ一緒にお願いしようかな」

 天音は少し迷いながらも「話し相手がいるのはうれしいし」と同行を許可してくれた。

 外面は平静を装っても心の中は万々歳だ。

「ちょっと、ちょっと。私の学校案内はどうなるのさ!」

 沙織としては望まぬ展開だったらしいが、我慢してくれ。今は急に転校してきた幼馴染と学校を回っている場合では無い。

 一度天音と別れ、自転車置き場に向かい二人っきりになったところで沙織は学校案内の駄々をこねていた。が、和彦はそれを「いつかやってやるから」と沈めることに成功。

「そういや沙織自転車は?」

「んなもの無いわよ。どうやって昨日今日帰ってきた私が自転車を用意しろっていうのよ」

「え、じゃあ今日の学校は……?」

「歩いてきたわよ」

 自転車こいでも三十分かかるこの距離を? 沙織の底力はあまりにも恐ろしかった。

 そりゃその度胸と根性があれば勝手に六年間も家出するわ。

「で、今日の帰りはどうするんだよ。画材屋までは歩いていくけど、それ以降家まで歩くのは御免だぞ」

「だから~」

 その後は言わずもがな。沙織は満面の笑顔と「学校案内しなかった貸し」を盾に東京では間違いなく道路交通法違反にかかる行為を強要してくるのだった。


「ごめん赤星さん、お待たせ」

 学校の校門前。携帯を見ながら赤星さんは待っていてくれた。

「本当にゴメンね。普通なら自転車に乗ってすぐに帰れたはずなのに」

「いいのいいの。こっちから提案したことなんだから」

 三人は画材屋の方へ歩き出しながら話を始めていた。

「そもそも赤星さんってコンクールはよく出たりするの?」

「ん~そんなに多くは無いかもしれないけど、シェルアート展覧会はちょっと特別でね」

 天音の含んだ言い方に和彦も「特別?」と聞き返す。

「うん。実はこの展覧会、私がこの美術部に入って最初に出た展覧会なんだ」

「じゃあその時に優勝したとか?」

 だが、天音は軽く首を振り「どっちかといえばその逆」と。

「本当はね勝てるって思って作品を出したんだけど、最優秀賞取れなくて」

 その言葉に和彦もそれ以上は聞かない方がいいのかと一瞬ひるんでしまったが沙織の方は容赦なく「難しい大会だったんだ」と言葉を続けていた。

 確かにその聞き方なら傷つかないようにも感じるが、天音の方もダメージがあったのだろう。妙に変な間を開けてから。

「この辺にある高校三校くらいしか参加しない大会なんだけどね、ある人に負けちゃって賞の価値としては二位になっちゃったんだ」

 二位でも十分凄いと思うが天音にとってはそういう話ではないらしい。

「で、その時一位だったのが高橋さん」

 話の流れでさも当然知っているでしょと出てきた『高橋さん』だが、和彦の心中では「誰だよそれ」とそんなツッコミだけがただ流れていた。

 そんな事を思っていたから自然と和彦の顔が不遜な顔になっていたのか、それとも「え~それじゃ仕方ないか~」みたいな反応が返ってこなかったからか天音の方も念を押すように「高橋さんだよ」と。

 何? 高橋さんそんな有名人なの。

 それでもパッとしない心を天音は読んだのかもう少し詳細な情報で「C組の高橋スピカさん」と。

 スピカという特徴的な名前でようやく誰なのか思い出した。誰なのかと言っても友達の枡形劉生が「あれはヤバい。高嶺の花と噂の才色兼備、歩く百合の花」と興奮気味に語っていた一シーンを思い出しただけだが。

「あの百合の花さん?」

 ただ、その通り名自体が有名なわけでは無いらしく天音も「百合の花?」みたいに首をかしげながら困惑していたが。

「でも、その高橋って同じ学校なら、普通に互いの実力とかも分かり合ってんじゃないのか? もう一年も一緒に居るんだろ?」

「いるにはいるけど私と高橋さんじゃ接点ないし」

「接点ない? 美術部なのに?」

 今日のように大会前も日を決めて美術室を使っているなら交互に使うとかなのだろうか? と思考していたが次の天音の一言でその前提から覆される。

「高橋さん、美術部じゃないよ」

 一瞬和彦の頭の中は真っ白になりかけた。美術部じゃないのに絵の展覧会に出展してきてあまつさえ最優秀賞をかっさらっていく。そんな非現実的な姿が目に浮かんで。

 対して沙織の方は携帯を見ながら「あ、本当だ。シェルアート展覧会、出展資格高校生なら誰でも可って書いてある」と。

「じゃあ、その高橋って何者なんだよ」

「やっぱ鷲崎君あんまり高橋さんの事知らないんだ。男子の中ではもっぱらの噂、というか話題の的って感じなのに」

 ……どうして天音の方が男子の話題に詳しいんだよ。明日にでも高橋について劉生に聞いてみよう。

「で、今年はその高橋さんに負けたくない……と」

 天音はこっくり頷き和彦の言葉を肯定した。

「だから今回の絵は力を入れようと思ってね。――あ、着いたよ」

 気が付けば目の前には画材屋さんが堂々とした立ち姿で構えていた。

 せっかく天音と話しながら下校出来る機会だったのだからもっとゆっくり歩けばよかったと今更ながらに後悔が湧いてくる。

 だが、そんな思いなど知る由もない天音はためらう事も無くどんどんと中へ入っていってしまった。

 慌てて和彦も天音の後姿を追っかけ、それに続いて沙織も店内へと入っていく。

 店の中も落ち着いた雰囲気だった。一歩入った瞬間にその品数と吹き抜けるような広さに驚かされるが、この店自体に慣れている天音は何のためらいもなく、目的のものがある場所へ進んでいってしまったようで、入店一歩目からして見失ってしまった。

「まぁ中にいれば合流できるだろうし、私たちも折角だから色々見ていこうよ」

 本当ならいち早く天音に合流して話の続きをしたい所でもあるが、流石に購入中は紙の質や絵の具の質を見定めるのに集中したいか。よく分からないが、自分がスーパーで野菜を選ぶときは静かにしていてくれる方が集中できてよりいい野菜を購入することが出来るから、天音もきっと同じだろう。

「じゃあ二人でちょっと店の中を見て回るか」

 沙織も「うん」と首を縦に振り、早々に奥の方へと駆け出して行った。

 そんなおてんばというか落ち着きがない所は六年前と何も変わらない。

 沙織が最初に目を付けたのはペンのコーナー。文房具屋とは比べ物にならないほどの色ペン、水性ペン、太さ・濃さの異なる鉛筆に幼稚園の教室にあったような色のキャップが付いたペン。さらには普通のボールペンやシャーペンまで。

 描き心地を試すことが出来る付箋にはよくわからないナミナミやグルグルの線が。他にも「あ」とか「ココちゃんサイコー」とか「リョウ君マジヤバ」というアイドルの応援メッセージ。挙句は「ここには月一くらいで来てます」「あ、僕も。コケシって知ってます? 漫画とか音楽やってる」「えっ! めっちゃ好きです。あなたもコケシのファンだったんですか」と文通のように会話までしている人も。

「ねぇ私たちもここに何か書き残す?」

 付箋をパラパラめくりながら沙織も興味を持ったのか一本のペンを握りキャップを外していたが。

「やめとけ。あくまで試し書きをするために店員さんがわざわざ置いてくれているものだから買う気もないのに何か書くのは悪いだろ」

「別にいいじゃん。ここに書いている人たちだって買う気ないだろうし」

 拗ねる沙織だったが、ここで文通をしている人はともかく、遊び心だけで落書きをするのはよくないだろう。

「私がここに来たんだよ~って証拠になるじゃん」

「そういうのは、ライブハウスとかにあるノートでやるもんだろ」

「和君ライブハウスとか絶対行ったことないくせに」

「この間テレビでやってた」

 それでも「何か書く」と聞いてやまないものだから仕方なく目をつぶることにした。まさか個人情報丸出しに「大房沙織参上」なんて書くとは思わなかったが。

 それだけの画数書けばそれはもはや試し書きでもなんでもない。

 一応『大房沙織』の部分は沙織に見えないように「油性で描いたものでも消せます」というぼかし油でそれとなくぼかして、よく分からない何かが参上した程度にとどめておいた。

 その次に沙織が向かった絵の具が売られている場所でようやく天音と再会する。

 彼女はかごを抱え、中には画用紙や「キャンバス」、筆にハケと色々持っていたがそれ以上に目を疑うものがかごの中にはあった。

「その異常なほど入っている白い絵の具は一体……」

 天音の持つかごの半分くらいに白い絵の具が入っている。他の絵の具や筆、ハケなんかが一・二本ずつなのに対して白の絵の具だけ、一ダース――十二本も入っている。

「白って色々な色と混ぜて使うから本当にすぐなくなっちゃうんだよ」と。

 今回の主たる目的も白い絵の具の買い足しらしく、これだけの数を買ったところですぐになくなってしまうらしい。

 美術部以外の一般市民からしてみれば「それ使いきれるの?」と思う所だが。

 それ以降は特に天音も買うものがなかったらしく、かごを抱えたままレジへ直行。

 ここからさらに学校や駅のほうまで天音と一緒に行くのは流石に気持ち悪いしストーカー呼ばわりされかねないからここで別れることを決意した。

 画材屋から出ればすでに外も暗くなっており、街灯も明かりをともし始めている。

「ゴメンね今日は遅くまで」

「いやいや、こっちこそ画材屋なんて入る機会なかったから楽しかったよ」

「画材屋入ってからはほとんど一緒に居なかったけどね」

 天音は自分の口元を手で覆うようにしながらクスクスっと。

「じゃあ今日は本当にありがとうね」

 天音は手を振り、駅に向かったのか、買ったものを置くために学校へと向かったのか、三人で歩いてきた道を戻っていった。

「俺たちも帰るか」

「うん」

 田舎じゃ警察もほとんどいない。少なくとも通報されない限り罪には問われない。

 だから、天音を自転車の後ろにある座れる部分に乗っけて次第に田園風景へと変わっていく道をひた走ったが、いい子のみんなはどうか真似しないでほしい。

 きっとこれをすれば警察から疎まれるだけでなく、周りの男たちからも疎まれるから。例え恋人関係に無い幼馴染相手だとしても。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ