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一章

 和彦かずひこの家は学校から自転車で三十分くらい走ったところにある。

 町並みは学校近くだと、一つの町のように家やスーパー、コンビニなどが立ち並んでいるのに対し、家に近づくにつれて畑やあぜ道などが増えてくる。

 視界がどんどん開けるようになっていき、コンクリートがどんどん消えていく。三十分自転車を走らせているだけなのに、まるで数十年分タイムスリップしたかのようだ。

 そんなタイムスリップの先に一つの集落みたいな家の塊がある。

 どの家もみな同じように木で出来ていて、不謹慎とはいえど、火災が起これば一瞬で集落丸ごと消えるであろう状態。

 その一角に和彦の家がある。畳や縁側、風鈴に木で出来た廊下と、至れり尽くせりで田舎を感じることが出来る家。

 東京の家がテレビで映ることもあり、初めて見た時には価値観そのものがひっくり返される思いだった。

「家ってみんな木で出来ていて、畳が普通にあるんじゃないんだ」と。

 和彦は自分の家に入り、学校のカバンを玄関先へ無造作に投げ捨てると、すぐに畑仕事用グッズと称したバケツに持ち変える。

 制服を脱ぎ捨て農作業用の服に着替え、そこにかかる時間は多分一分もない。

 六月も下旬。七月に入ろうかというこの時期は収穫に向けたラストスパート。二日ぶりの晴れかつ珍しく例年より早い梅雨明けという事もあって今日の気合の入れようはいつもと少し違っていた。

「和彦、帰って来たならまず落ち着いて一回家に――」

「いや、行ってきます」

 お母さんに有無を言わすことなく和彦は家から飛び出した。

 和彦の農場は家から徒歩で五分くらい歩いたところにある。本当なら家の目の前に畑を作ってほしい所だが、和彦の家を含めあそこの一帯に住んでいる多くの人が農民だから土地も奪い合いだ。

 沙織のお父さんのように都市に出かける人の方が少数派の世界。

 それだけの人々で広い土地を奪い合った結果、和彦のお父さんが手に入れたのは家から五分離れた場所だった。

 こればっかりは誰も責めることの出来ない仕方のない事。そう受け入れていたからこそ、和彦も不平不満など漏らすことなく通っていた。

 その道中、漬物石を三倍くらいにしたような大きくて丸い石がある。「何か願いを込めてその石を触れば叶う」みたいな都市伝説が出来てもよさそうなくらい異様な存在感を放つ石。

 その石の上に和彦は信じられない人影を見た。

 どこか遠くを眺めているようで。その人影は和彦の方を振り向くこともなくスカートを風になびかせながら動かずじっと石の上に。

 身長こそ大きくなっていたが、まるでモデルさんのようにキレイな立ち姿。手の先まで意識の行き届いた清廉さ。何より、大きさが変わっているはずなのに大好きだったあの白い靴と同じモデルを履いている。

「沙織……」

 信じられないという思いから言葉は詰まった。それでも、それでも和彦が沙織を見間違うわけがない。

 和彦の声に反応して石の上に立つ女性も振り返った。いや、振り返るだけじゃない。身軽に体を使い、幼稚園児や小学生の少女が石段から飛び降りるように、いとも簡単に和彦のいる地面へ。

 ケガをするほどではないにしても和彦なら躊躇ってしまいそうな高さだが、それをあっさりと降りる天真爛漫さもまた沙織だと証明していた。

「久しぶりだね。和君」

 着地した女性は、ずれてしまった帽子を人差し指で押し上げ、初めて和彦に顔を見せる。

 クリクリとした大きな瞳にあどけない表情。それは間違いなく六年前、何も告げずにいなくなった大房沙織(おおふささおり)

 久しぶりに幼馴染を目の当たりにして、最初は動揺と困惑、混乱が頭の中のすべてを埋めていた。が、ある程度落ち着きを取り戻すことで次第に疑問が浮かび上がってくる。

『なぜ、沙織は何も告げずに消えたのか』『なぜ今になって急に戻って来たのか』『沙織は今までどこで何をしていたのか』

「待って待って。そんな一気に聞かれても答えられないよ」

沙織は両手を顔の前で振り、困ったような表情を見せる。それはそうか。沙織も一人の一般的な人間だ。聖徳太子のようにいくつもの質問に一気に答えられはしないか。

「ゴメンね。実はあの日の夜お母さんと喧嘩しちゃって、その……家出っていうのかな? 和君には何も言わず飛び出しちゃって」

 申し訳なさそうに足首を回し、視線をそらして答える沙織。

「でも、やっぱり和君には会いたいなって戻ってきちゃった」

「えへへ」とハニカミながら告げる彼女には神秘のようなものを感じた。

 和彦もどう対応していいのか分からない。「お帰り」と言うべきなのか「心配したんだぞ」とキレるべきか。でも、キレたところで何かが解決するわけでは無い。むしろ面倒くさい事が起こるだろう。その事は容易に想像できたからこそ和彦はそうしなかった。

「ったく、俺がどれだけ心配して悩んだ事か。お前には分からないだろ」

六年前、普通に会話していたように自然と返した。

 すると沙織も顔を歪ませニヤリと笑う。

「へー和君私がいなくなってそんな心配してたんだ。なになに? 私の事が忘れられなかったとか」

 突然帰ってきて感動の再会モードはどこへやら。弾むような声に転調した沙織が煽るようにして聞いてくる。

「いーや。今のは言葉の綾だ。なし無し。お前の事なんて別に大した心配してねぇよ。三日でもう平気になったわ」

「三日もかかったんだ? てかそんなこと言って本当は今日までずっ~と私の事考えてたとか?」

「――っな! んなわけねぇーだろ。どうして急に消えたやつの事、六年も考えて無きゃならないんだよ!」

「もぉ~強がっちゃって。や~っぱ私が帰ってきて正解じゃない」

「知らねぇよ」

 結局小学生の頃と何も変わらない「いつものペース」だった。

 ったく、今となっては和彦が沙織に対する気持ちに気付けなかったのも、沙織のこんな性格が悪かったんじゃないのか? と思ってしまう。

 でも……。

「でも、俺も久しぶりに沙織と会えてよかった」

 今日は素直に自分の気持ちを告げることにした。

 どんなに天邪鬼と反骨精神を重ねたところで六年はあまりにも長すぎる。

 どうしても体が安堵を伝えたがっていた。

「何よ急に? そんなしんみりして。和君らしくもない」

 沙織も驚いた様子だった。それもそうだ。言いながら自分自身でもちょっと驚く部分はあったから。素直な言葉が言えたのは何も離れ離れだった期間の長さだけが要因じゃない。沙織の事が好きだったというのもあるが、それ以上に負い目を感じていたところもあったから。自分のせいで沙織がいなくなったのではないかと。

「そんなわけないじゃん。和君は関係ないよ。あれは……私が悪いの」

 最後の「私が悪いの」は自信のない小さな声。それでも田舎の静かな環境では和彦の耳にも届いてしまった。

「ねぇ沙織。今からうちの農場に行くところだったんだけど、一緒に行くか?」

 和彦の一言で少し重くなりかけた空気を払しょくするために、それ以上に本来和彦のやるべきだったことをやるために努めて明るい声を出し沙織を誘ってみる。

 対して沙織も「え……?」いう表情を浮かべつつ「農場?」と。

 そういえば和彦が農作業をするようになったのは沙織がいなくなってからだと思い出す。どうしても星を見上げると沙織の事を思い出して胸が苦しくなる日々を和彦はしばらく過ごしていた。そんな和彦はそらから地面に逃げるようにして家庭の手伝いを始めた。それまで農作業なんて何一つ興味がなかったのに。

 でも、今となってはそれが一番の趣味であり、やるべき事かつやりたい事になっているのだから人間分からないものだ。

「実はあの後お父さんの手伝いで農作業をするようになって」

 打ち明けるように伝えると沙織の方も「へぇ~」と。続けて「あんなに『地味じゃん。ロマンがないじゃん』ってバカにしてたのにね」と笑う。

 確かに星に比べたら農作業なんて地味で何が楽しいのかすら分からなかった。

「でも、やってみたら意外と奥が深くってさ」

 歩きながら、少しだけ沙織にも農作業の良さを伝えてみた。

 多分和彦が変わったのもあの六年前の出来事がきっかけだと自負している。星というロマンから、もう少しだけ現実を見るようになった。

 当たり前にある日常の大切さに気が付いたと言っていいかもしれない。何の変哲もない日常だって何かの拍子に失われるかもしれない。沙織が消えたように。その前兆もなく突然にして奪われる。

 だからこそ、今自分の手元にある日常は大切にしようと思うようになった。普通が一番。日常こそ最高の幸せなのだと。

「ここだ」

 沙織に対する農作業のプレゼンテーションもほどほどに二人は和彦の家が所有する農場にたどり着く。

 歩いて五分はたかが知れた距離だ。でも沙織は「うんうん」と頷きながら聞いてくれる分話しやすいし、話していて気持ちいい。

「うゎ~、すごいね」

 何よりリアクションもいい。目の前に広がる畑は教室一つ分くらいの広さがあり、その半分くらいをビニールハウスが埋めている。

 和彦がこの場所を初めて見たのは、種すら植えられていない更地だったが、それでもテンションは上がった。

 これだけ緑が広がっていれば驚きも大きいだろう。

 沙織はウサギのようにぴょんぴょん跳ね回りながら和彦の畑へと入って行く。

 今年は気候変動が読みにくく、梅雨も七月に入るか入らないかのところで明けでしまったせいで、どうなる事かと心配していたが、見た限り順調に育っている。

 ビニールハウスの外で栽培しているキュウリや自家用のトマトなども綺麗な花を咲かせているし、明らかに腐っているようなものもない。

 これからは害虫や病気との勝負になるが、そこは野菜にも頑張ってもらうしかない。もうひと踏ん張りだ。

「へ~すご~い。キュウリってこんな風に先っぽに花が出来るんだ」

 沙織もしゃがみながら、目の前に広がる野菜に感動を覚えているようで。

 キュウリの花などはある程度知名度もあって有名だと思っていたが、生まれながらにして農業と関係のない家庭だと、やはり新鮮に映るのか。

 ツタから実を経て花を咲かすキュウリを見ながら沙織は目を輝かせていた。

「ねぇこれってもう採っても大丈夫なレベルなの?」

 振り向きキュウリを手に乗せ沙織は問いかける。

 確かに一見すれば長さが少し短いものの普通のキュウリと同じようにも見える。

「でも、花がまだ咲いてるから収穫はもうちょっと後だな」

 キュウリは基本的に開花してから一週間ほどで収穫の時期になる。その頃には花もしおれたり落ちたりしてよくお店で見る状態のキュウリになるからそこで収穫をするのが正解だ。

 ただ、収穫瀬戸際のキュウリの成長は早く、朝見た時と、夕方見た時で数センチも変わっているなんてこともあるから、本当に取り扱いが大変なのだ。まぁ長さといい、状態といい沙織の手にあるキュウリはもう少し待ってから収穫するべきだろう。

 和彦はそっと沙織に近づき、軍手をはめてそのキュウリのプランターから延びる側枝などをハサミで切りながら整理するにとどめた。

 その他のプランターも葉や枝の整理をしつつ様子を見る。中には梅雨時期に病気にかかってしまったキュウリなどもあり、泣く泣く切り落とすものもあったが、多くのキュウリは順調に育っているようだ。

「ねぇねぇ、こっちのキュウリ物凄く曲がってるけどこれは?」

 呼ばれる方に赴くと確かに沙織の手には半円を描く感じで曲がったキュウリが。ブーメランやドーナッツの半分を切り取ったほどクネッと曲がったキュウリ。

 先っぽの花が咲く部分も尻すぼみになっていて元気がいいとは言えない。

「これはダメだね」

 多分お店に出荷することは出来ないキュウリだ。場所的に日照が足りなかったか、茎そのものの栄養が足りなかったか。

「じゃあこれも捨てちゃうの?」

 まるでわが身が捨てられるのではないかというくらい心配そうに問いかける沙織だが、その答えとしては「とんでもない」

 確かに曲がったキュウリは見た目からしてスーパーなどに出荷するわけにはいかないが美味しく食べることは出来る。

「これももうちょっと置いてから自分の家用にちゃんと収穫するよ」と。

 それだけで沙織の顔も少し安心したように落ち着いた。

 農作業とは無縁で生きてきて、ここまで野菜に感情移入できる人もそうそういないだろうに。

「他の野菜も見て見よっか」と彼女をキュウリから引き離し、和彦は他の野菜の様子も見に行くことにした。


 ピーマンに人参にアスパラガス。みなよく成長していて順調だ。どれも数本は上手く育たなかったり、病気になってしまったりと切り落とす野菜もあったがそれは仕方がない。どうしても毎年病気にかかってしまう野菜は出てしまう。それらを沙織に切ってもらったときには「ゴメンね」と言いながらハサミを入れていた。

 唯一の例外としてはオクラだろうか。オクラに対しては何の詫びも入れることなく、ハサミを入れ込む沙織。そういえば昔、肉巻きの中から綺麗にオクラだけ取り除いて丸まっただけの豚肉を食べていたこともあったっけ。多分そういう事なのだろう。

 沙織の感情と好み一つで容赦なく切り落とされるオクラもかわいそうだったが、元気な子まで手を出されなくてよかった。

 対して沙織の好物であるトマト相手には、より一層興奮度と感情移入が高かった。

 トマトも例外なく上手く育たず色が悪くなったりしていたものもあったのだが、それを切り落とすまでにかなりの時間がかかった。

 どうしても頑張って実までつけたのに切り落とすというのが出来なかったようで。

 他の野菜たちは(特にオクラなんて)容赦なく出来ていたのに……という思いがあったが、それでもトマトは特別なのだろう。

「それを切り落とさないと他のトマトたちにも感染しちゃうから」と告げ、何とか切り落としてもらった。

 野菜の取捨選択にこれだけ感情移入するようだと多分農家はやっていけないだろう。本当に切り落としたトマトを眺めながらずっと落ち込んで、駄々をこねるようにその場から動かない。

 だけど、それなりに早い成長を見せていたトマトを一つ収穫し、沙織に与えると、まるで目の色を変えた。

 水を得た魚にトマトを得た沙織だ。

 後光が差し込むように彼女に光が現れて、暗がりにあった表情が百八十度転換する。

「いいの?」と、お年玉をもらった子供のようなその表情に、どうして毎年正月におじいちゃん・おばあちゃんが五千円もくれたのかようやく理解できた気がする。

「一応向こうに蛇口があるからちゃんと洗ってから食えよな」

 沙織は「うん」と元気に頷き、両手でトマトを抱えながら水道のほうまで駆け出して行った。

「あれで高校二年生かよ」と疑いたくなるほど子供のようにはしゃいで。



 農作業を一通り終え、和彦と沙織は家のほうまで戻ってきた。

 幼馴染とはいえ、六年も会っていなかった沙織とここまで楽しく話を持たすことが出来たのは必要以上に距離感を突き放さなかった沙織のおかげだろう。

 和彦は沙織のペースに乗せられるようにして、話の波に乗ることが出来た。

 でも、六年ぶりの帰りだからといって間違うはずのないミスを沙織はする。

「あれ、お前、家の入口さっきのとこ右じゃないのか?」

 いつも分かれていた交差点を和彦の家がある方向へ歩いていた、というか付いてきた。

「あぁ……と、ほら、お母さんと喧嘩して家出てきて、正面から入るってのも気まずくて……」

 沙織は身振り手振りを使いながらも大胆過ぎない動きで説明を。流石に六年ぶりともなれば普通に会いたくなるものでは無いのか? と思ったが家族関係良好な和彦には沙織の気持ちを推し量ることは出来なかった。

「だから今日は裏から私の部屋に入ろうかなって。どうせ鍵は閉まってないだろうしね」

 沙織の言う通り、鍵が閉まっている事は無いだろう。昔は和彦も、今から沙織が通ろうとしているルートを使ってよく遊びに行ったものだ。

 このあたりは集落の人以外住んでいる人もおらず、都市や町とも少し離れて四方八方山か畑しかない。となればすれ違う人も皆顔見知りだし、泥棒なんてわざわざこんなちんけなところまで盗みにやってこない。だから年中鍵が開きっぱなしでも問題は無いという事になる。

 もちろん公に「鍵は開けていて大丈夫ですよ」と言っているわけでは無いが、暗黙の了解のようにして多くの家は開きっぱなしだった。

 そもそも縁側が存在してそれを閉めるドアがない時点で交流の間である庭から他人の家に入ることなど容易なのだから戸締りなんて。

 沙織がいなくなって以降、裏から(いや、表からもだけど)沙織の家には行ったことは無かったが、おそらく昔のように開いているだろう。

 少し細い、子供しか通れないような草木の間を縫って、沙織の家の裏側に侵入する。やっている事は傍から見れば泥棒そのものだが気にしない。

 そもそも今日の侵入者はれっきとした大房家の娘なのだから。

 いつも和彦が沙織の家に入るときに使っていた障子の部分までたどり着く。その障子を出来るだけ音を立てずゆっくりと開いた。

 はじめはつっかえ棒でもつけられたかというくらい開きが悪かったが、どうやらしばらく開いていなかったことで滑りが悪くなっていただけらしい。

 何度か押し付けるように無理やり力を入れると扉は開いた。

 少し大きな音を立ててしまったことで沙織のお母さんにバレたのではないかと焦ったが、どうやら奥からシャワーを流す音が響いている事を考えてもきっと入浴中なのだろう。

 お父さんはしばらく単身赴任で帰ってこないらしいし、沙織は一人っ子だから他に警戒すべき人間もいない。

「にしても、これは……」

 沙織の部屋に一歩足を踏み入れ驚く。まぁ当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど。

「何にもないね……」

 沙織の言う通り部屋には何もなかった。昔はあった勉強机も、寝るためのベッドも、女の子の部屋らしい小物の数々も何一つとして置いてはいなかった。

 木の壁とフローリングが見えるだけの何もない部屋。

「意外と全部片づけると私の部屋って広かったんだね」

 何とか平静を保ちながら話す沙織だったがその言葉には震えもあった。

「いや、流石にこれは酷いでしょ。六年いなくなったくらいで勝手に片付けるなんて。そのまま置いておいてくれればいいのに」

 いつか帰ってくるかもしれない娘の事を思えばそうするのが普通なのではないだろうか。

「でも、まぁ喧嘩して出ていったわけだし。これはこれで仕方ないよ」

 けれど沙織は何一つ文句を言う事も無く、石段に靴を置き、何もない自分の部屋へと上がる。

 それにつられるようにして和彦も一緒に部屋の中へ。

「やっぱりこれはちょっと寂しくない?」

 だが、クルクルと回りながら部屋を見渡す沙織はどこか元気がなかった。

「だったらさ、俺が覚えている限りこの部屋再現してみるよ」

 そんな面倒くさそうな事普段なら絶対にしなかったと思う。でも、どうしても沙織のやるせないような顔を見ていたら何とかしてあげたいという気持ちが心の底から湧いてきた。せっかく六年ぶりに帰って来たというのにこれじゃかわいそうだ。

「いや、いいよ。私は別にこのなんもない部屋で十分だし」

 繕うような彼女はあまり人の心を察するのが得意ではない和彦にも遠慮だと分かる。

 とりあえずいくらかの可能性を信じて奥にあるふすまを開けてみる。

「おっ!」

 どうやら神様もそこまで沙織を見放すことは無かったようだ。そこにはこの部屋にあったであろう勉強机やベッドなどが整頓されて詰め込まれていた。

「な? これで部屋を元通りにしようぜ」

 流石にここまでの材料が出てきたことで沙織もその気になったのか、それ以上「やらなくていいよ」というネガティブな言葉は漏らさず「うん、ありがと」と素直に礼を言ってくれた。

「よし、夜も遅くなっちゃうと帰らなきゃいけなくなるから、とっとと済ませちゃおうぜ」

 和彦が農作業をするときは帰りが八時くらいになることもある。今日は予期せぬ出会いがあった事もあり、作業も予定より早く切り上げて帰って来た。だから、多少帰りが遅くなってもお母さんやお父さんが心配することは無いだろう。

 とにかく和彦は手始めに大きい勉強机とベッドを収納スペースから取り出す。

 いくらか引き出しのついたタイプの勉強机は流石に一人で抱えられるほど軽くはなかったがそれでも力を振り絞って運び出す。あれだけ「協力する」「部屋を作り直そう」と言っておいて初っ端からくじけるわけにはいかない。

 沙織と二人で「ここには確か本が置いてあったっけ?」とか「いや、教科書やノートはあっちじゃない?」「あ、これ昔集めてた宝石たちだ」「ってかそれただの石ころだろ」「ったくそういう事言わないの」と、何だかんだ思い出を振り返りながら部屋を再現していった。

 カレンダーも、教科書も、雑誌も何もかも六年前で止まっていて。でも、それが逆に風情あるような気もした。

「あ~ピョンちゃん」

 沙織は収納スペースのさらに奥からまた懐かしいものを拾い出してくる。

「それって確かベッドの上にいつもいた……」

 多分にホコリを被っていてとてもじゃないが抱えて寝られる状況にはなかったウサギの縫いぐるみ。

 でも糸のほつれや綿が出てきているなんてことは一切なく、きれいにすればまた抱きしめられそうだった。

「どうするそれ? 洗濯機にでもぶち込むか?」

「な! なんて酷いことを、雑巾とかでふいてあげるのが普通でしょ」

「いや、普通って言われても縫いぐるみなんてうちの家一匹もいないから扱い知らないし」

 沙織は自分のランドセルからハンカチなのか雑巾なのか、布を取り出してウサギの頭をなでながら。

「そういう無神経な所がよくないのよ。それじゃ女の子の気持ちは理解できないわよ。というか女の子というより縫いぐるみの気持ちだけど」

「縫いぐるみの気持ちって……それはモテるモテないとは関係ないだろ」

「いやいや、関係大あり! 洗濯機でぐるぐるしたらピョンちゃんだってあっちこっちに頭打って可哀そうなことになるじゃん」

 和彦にはどうにも分からない感性だったが「ふ~ん」と流し、他のものの配置作業に戻った。

 それから一時間くらいしただろうか? 時計だけが唯一なくなっていて正確な時間を把握することは出来なかった。ピンクのふちで象られ、どこぞのキャラクターをモチーフにしていた時計だ。

「いや、でもこれすごい。本当に私がいなくなった時と同じ状態だ」

 和彦の古い記憶で作った沙織の部屋だが、当の本人には喜んでもらえたようだし、おおかた間違ってもいなかったのだろう。

「にしてもよくここまで再現できたね」

「まぁあの頃は毎日通うようにしてここに来たか、沙織が俺の家に来てたからな」

「ま、確かにそっか」

 二人は床に尻をつけながら笑いあった。まるで六年前の日常が突如戻って来たかのように。

 またこうしてこの場所で二人笑いあえる日が来るなんて。

 沙織がどういう風の吹き回しかは知らないが帰ってきてくれてよかった。

「あ、でも私が帰ってきたこと、私のお母さんだけじゃなくて和君の両親やここら辺の人にも言わないでね?」

 沙織は思い出したようにまじめなトーンに戻り、指を唇に当て、前のめりになる。

「私が帰ってきたことは二人だけの秘密にしてほしいの」

「どうして?」

 せっかく帰って来たなら大々的に紹介すればいいのに。いくら喧嘩したからって六年ぶりに帰って来たならお母さんだって許してくれるだろうし。

 沙織が無理やりにでも正面ではなく裏から入ったことといい、どうしてそこまで自分の親に自分が帰って来たという事を知られたくないのか。

 沙織の心が理解しきれず頭を抱えていたその時、足音がこの部屋に向かってくるのをいち早く沙織が察した。

「ヤバ、多分お母さんだ」

 そう言い残すと、沙織は一目散に収納スペースへと身を隠していく。

「お、おい沙織」

という言葉すら十分に伝えられないうちに彼女の姿は一瞬で消え、それと同時に廊下につながっている扉が開く。

「声がするけど誰かいるの?」

 という拍子抜けするほど穏やかな声と一緒に。

 とっさに和彦もそちらを振り返れば、そこにはこちらも久しぶりに見る沙織のお母さんが立っていた。

 沙織ほど会っていなかったわけでは無く、時々見かけることはあったが、それでもこうしてしっかりと目を合わせるのは久しぶり。

 はじめはお母さんの方も「あ~和彦君」と相変わらずの挨拶をしてくれたのだが、その声が、その態度が、この部屋を見てからか一瞬で豹変する。

「え……と、和彦君、どういうつもり?」

 少し首を動かして周りを見渡し、おそらくこの部屋に起きた変化を感じ取ったのだろう。

 その瞬間とてもご近所さんとはいえ、よその子に聞かせるようなものではない、暗たんとしたトーンで。

「いや、その――」

 そこでお母さんに沙織の事をどう説明しようか考えながらも見切り発車で話し始めたところ、今度は暗い悲しみから怒りに変化して「ふざけないで!」と。これはこれで他人に聞かせるものではないレベルの声量で怒号を。

「あ、いや……」

 これには和彦もたじろぐしかなかった。

 和彦は成長する中で沙織と同様沙織のお母さんもよく見てきた。いつも二人を気遣ってくれて、美味しいお菓子を食べさせてくれたり、季節に合わせたフルーツを用意してくれたり。沙織のお父さんが忙しくてあまり家に帰ってきてくれない中、そんな寂しさを一切見せず二人を育ててくれた優しいお母さん。だけど今、目の前にいるのはあの頃の面影からは遠くかけ離れた形相をしている一人の人間。

「いい加減にして、久しぶりにやってきて何の嫌がらせか知らないけど……こんなのあんまりよ……」

 それだけを言い残し、バタンと激しい音を立てて戸を閉める。

 和彦に理由を説明する余地など一切与えず、まくしたてるように「そこは元の通りに戻しておいて!」とだけ告げ、荒々しい足取りでお母さんは居間の方へといなくなっていった。

 そんな雷が去っていったのを確認して沙織はノコノコっと四つん這いになりながら収納スペースから姿を現した。

「だからやっぱり余計なことをするべきじゃなかったのよ」

 結果だけを見れば沙織の言う通り。

 でも、誰が部屋を再現したくらいでここまで怒られると想像できたか。

「沙織、一体お母さんとどんな喧嘩して出て行ったんだよ」

 呆れながらに問いかけるも沙織はこの部屋の物を片付けるためか後ろへ振り向き、今しがた出したばかりの小物を拾いながら「和君ってあの日の事あんまり覚えてないんでしょ?」と。

 沙織の言う「あの日」というのは間違いなく沙織の消えた前日。二人で星を見に行った日の事だろう。確かに沙織の言う通り最後の部分が正確に頭に残っておらず、どうやって家に帰ってちゃんとベッドの上で寝ていたのかはっきりしていない。

 もしかして、あの帰り道に沙織が何か大切なことを打ち明けていたのだろうか。それともあの日の事が原因で沙織と沙織のお母さんが喧嘩する羽目に?

「いや、ごめん。その言い方だと、和君が悪いように聞こえちゃうか。和君は関係ないから、気にしないで」

 淡々と告げて沙織は次々に物を片付けていく。

「いや、でも……」

 それでも腑に落ちない和彦は沙織にあの日の事、お母さんと何を喧嘩して、どうして沙織が六年間も出ていく事を決めたのか聞こうとしたが。そういった考えが見え透いていたのだろうか、「ゴメン。ここは私が一人で片付けておくから、和君今日は帰って」と拒絶されてしまった。



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