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序章


 手の先から少しずつぬくもりが体全身へと広がっていく。

 夜中の十一時に高梨山の山頂だ。梅雨もまだ明けない中、運よく今日は晴れというのが唯一の救いだった。

 それでも肌には鳥の毛をむしったようなイボイボが。見ているだけでも背筋が凍る。

 そんな凍える体を幼馴染の大房おおふさ沙織さおりは静かに温めてくれた。

 小学五年生の小さな手を精一杯駆使して、ギュッとつかんでくれることで。

 愛情のこもったぬくもりを受け、鷲崎わしざき和彦かずひこは空を見上げる。無数の星たちは久しぶりの晴れを満喫するように一層輝いていた。

 それもそうか。今日は何と言っても星たちが主役の日。七夕なのだから。

 和彦と沙織がわざわざ夜中に体を凍えさせながら山頂まで登った理由もそこにある。星たちが織り成す生活をのぞき見するため。

 和彦は沙織の手を握りしめたまま、空いているもう一方の手をそらに突き上げ、「あれは、これは」と星たちを沙織に紹介した。

 なんてことの無い平和な一夜。だが、和彦の手を握っていた沙織の様子が少しずつ変わり始める。

「――ないで、――てよ」

 か細く呟くものだから最初は何を言っているのか、いや、何か言っていることにすら気付かなかった。

 だけど、耳を澄ませばちゃんと聞こえてくる。

「星ばっかり見てないで、もっと私も見てよ」

 間違いなく彼女はそう呟いていた。その声に応えるようにして、和彦はようやく視線を地平線に戻す。

 山の夜と言っても頂上なだけあって見晴らしはよい。木も草も、街の明かりもはっきりと見える。

 ただ、一つだけ和彦には見えないものがあった。

『沙織の表情』だ。

 沙織は中世の映画に登場しそうな鉄仮面を身に付け、表情のすべてを覆い隠していた。

「ねぇ星ばっかり見てないで、もっと私も見てよ」

 見えない表情の中で沙織は壊れたおもちゃのように言葉を繰り返す。

 怒っているのか、悲しんでいるのか。表情が見えない、言葉に抑揚もない。和彦に沙織の心を推測できる判断材料は一つもなかった。

 ヒラヒラしたピンクのスカートに白いブラウス。お気に入りだった白い靴まで間違いなく沙織だ。

 でも首から上は全くの別人。

「ねぇ星ばっかり見てないで、もっと私も見てよ」

 すでに握っていた手は放し、和彦は一歩ずつ足を引く。

 機械みたく正確な足取りで同じ距離だけ詰めてくる沙織。いや、同じ距離じゃない。一歩引くごとに沙織は二歩近づいている。

 永遠と「ねぇ星ばっかり見てないで、もっと私も見てよ」と訴えかけながら。

 来ないで、来ないでよ。そう叫びたかったが声が出ない。

 それでも距離を保つため後ずさりを続けていたが。

「あっ……」

 木の枝か、それとも木の幹だったのか。何かに足をかけ、和彦の体は一瞬ふわりと宙を舞った。

「ねぇ星ばっかり見てないで、もっと私も見てよ」

 辛うじて怪我無く着地できたことはよかったが、これ以上逃げることは出来ない。

「い、いやだ。来ないで……」

 幼馴染なのに。大好きだった幼馴染なのに体が拒絶してしまう。

「ううん。これはもはや幼馴染でも何でもないか」

 そう思えるほど冷静な心が和彦にはなかった。

 目を閉じ沙織を払いのけるため右手をカッターのように左から右へ大きく振る。

 おそらく沙織の鉄仮面を殴るような距離にいただろう。

 でも、和彦の手に痛みは何一つない。あの堅そうな鉄仮面なら壁を殴るのと同じくらいの衝撃がありそうだったのに。

 不思議に思い、和彦はそっと目を開き始めた。

「いない……」

 沙織がいない。目の前にいない。――いや、それだけじゃない。星も木々も草花も何もない。代わりに眼前に広がるのはよく見ていた自分の部屋。

 と、安堵の息を漏らしたところで、意識はもう一段階上へと戻される。

 木の机、枕代わりに組まれた自分の両腕。先生から見えないようにと立てられた国語の教科書と、一部雨にでも濡れたか水たまりが出来たノート。

 耳には古臭い鐘の音と、お世辞にもキレイとは言えない「起立」という男子の声。

 和彦はとっさに状況を理解し、軽く目をこする。誰にもバレないよう小さく頬を律したところで、周りに後れを取らないように立ち上がった。

「気を付け、礼」

 日直の声に合わせて頭を下げ、今日一日の授業は全て終了した。

 あとは簡単なHRを終えて家に帰るだけだ。

 和彦は学校の部活動には所属していない。特にこれと言ってやりたかった事もないし、自分の家の農場で作業をしている方が楽しかったから。

「にしても嫌なものを見た」

 授業をしっかりと聞いていなかった天罰か。でもあそこまで残酷な映像を見せる必要もないのに。

 天を敵に回すというのは恐ろしいものだ。

 あの映像は少なからず和彦の記憶に残るものだ。とは言っても鉄仮面だとか繰り返し同じ言葉を告げるとかホラー要素が満点に盛り込まれているたちの悪い記憶に多少変えられていたが。

 およそ六年前の七夕。確かに幼馴染の沙織を連れて和彦は高梨山に登った。綺麗に星が見えた梅雨時には珍しくよく晴れた夜だった。

 そこで沙織と星を楽しく見ていた記憶はある。

 だけど、十一時――――帰宅時間を知らせるためのアラームが鳴り、観察をやめてからの記憶が和彦にはなかった。普段は十時や十時半に眠っていた小学五年生の和彦だ。体力的には限界だったのかもしれない。

 次に気が付いた時、和彦がいたのは夢で見た通り自室のベッドの上だった。

 ただ、そこで話が終わればこのエピソードが強く和彦の心に残る事も無かったのだろう。鉄仮面や繰り返される言葉みたいなものにも繋がらず、楽しかったけど疲れたという記憶で終わると思う。

 そうならなかったのは、次の日、目を覚ました和彦の世界が少しだけ変わっていたから。

「あれ、沙織は?」

 いつものように玄関も通らず裏から沙織の家へ入ってみたものの、沙織はいなかった。

 不思議に思い、お母さんに問いかけると「沙織ちゃんは、遠くに行っちゃったんだって」と。

 昨日の夜まで一緒に居たのに、それなりに仲もいいと思っていたのに、沙織は別れの言葉も残さず和彦の前から消えていった。

毎日のように一緒に遊んでお話をしていた沙織が急にいなくなった。何があったのかは知らないが遠くへ夜逃げしてしまった。

 和彦もひどく反省した。勝手に連れ出して、物凄く寒い中ずっと立たせていたのが間違いだったのか、沙織にとっては興味のない星を永遠と見続けていたのが原因だったか。どこで愛想をつかされたのか分からない。

 でも、和彦の方は沙織を失ってから初めて知った。

「俺、沙織の事が好きだったんだ」という事実に。

 認めたくない、というか考えたこともなかったのに、沙織を失ってからずっと同じことを考えて胸を苦しくしている。

 あの時こうしていれば。もっと話を聞いてあげていれば。寒い中、星なんか見せなければ。自分自身が星なんか好きじゃなければ……。

 でも、どれだけ色々な事を考えたところで沙織が戻ってくるわけではなかった。携帯で連絡せずとも会える関係だった二人は連絡先の交換もしていない。

 本当に沙織とはあれっ切りなのだ。


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