蒼穹世界と暁世界(1)
「助けてくれてありがとう、ジルハムグレートのお姉ちゃん!」
「ジルハムグ――? え、何ですって? もう一回言って」
「ジルハ――もごっ、んーんー」
「いや、何でもない。こっちの話、気にすんな」
何故かは分からないが、裏返った声でそう言いながら健吾が男の子の口を塞いでいた。
傍らに立つ〈ジールヴェン〉の装甲が、夕陽に照らされてその輪郭を黄金に浮かび上がらせている。あの暁に少し似た、ユイもよく知る景色。こちらの世界にも、太陽が地平線の近くに存在する時間帯――つまり夜明けと夕暮れに限り、こういった色の空が見られることは、もちろん今は充分に理解している。しかしこの時、世界を焦がす黄昏がユイの心に訴えてきたものだけは違う。
“お前は「こちら側」の人間だ”
握り締めていたグリップの感触が、汗ばんだ両の手のひらから離れない。
周囲の状況が慌ただしく変わっていく。事後処理に追われて辺り一帯を走り回る機動隊の面々が、近くを横切る度に好奇心とも敵対心ともつかぬ露骨な視線を投げかけてくる。
放たれた粒子の塊に灼かれて藻屑と化した無惨な金属片。圧倒的な重量に踏み潰され、引き千切られた無数の車体。怪鳥の巨大な鉤爪で引き裂かれたかのようなアスファルト。異物が如く横たわる満身創痍の〈ミシア〉と、悠然と佇む〈ジールヴェン〉。これを平和への蹂躙と呼ばずに何と呼ぶのか。全ては、自分がここにいるからなのだろうか。
「ユイ」
「分かってる」
やがて機動隊の部隊長と思しき風格の男が、こちらへ走り寄って尋ねてきた。
「その少年は?」
「母親とはぐれた一般市民の男の子です。保護をお願いします」
ユイの申し出に、隊長はその精悍な顔を大きく頷かせた。
「了解した。保護者と思われる女性からの捜索要請を受けている。照合を急がせよう」
「ほら、」
健吾が男の子の背中を押してやる。寂しそうな顔で見上げてくる男の子。
「またあえる?」
「そのうちな」
「うんっ」
名残惜しそうに何度かこちらを振り返りながら、男の子が救護隊に先導されてとぽとぽ走り去る。それを目で見送った隊長が、再びこちらに向き直った。
「目標の鎮圧に際しての多大な尽力を、まずは感謝する。事態を収集してもらっておいて大変申し上げにくいのだが、」
「心配しなくても保安部の皆様に同行するつもりです」
「ユイっ」
「あなたは黙ってて」
健吾の制止を、とりつく島もなく切り捨てた。決めたのだ、この世界における自分の形振りを。
「話が早くて助かる。それで隣の青年は君とどういう……」
「俺は――」
「彼も戦いに巻き込まれた一般市民です。自宅まで無事に送り届けて下さい」
努めて他人行儀に振る舞う。心を鬼にする、というにはまだ幾分甘いが、言葉を発した瞬間に胸がちくりと痛んだ。だかこれ以上、彼に迷惑は掛けられない。危険にも晒したくない。
「ちょっ、急に何言ってんだよ、もしかしてまだあのこと怒ってるのか?」
「ううん。違う」
視線を健吾へと向ける。機動隊の隊長が、何かしらの空気を察したのかこの場を離れていってくれた。ユイに対する敬意を表したのかもしれない。
ユイの視線が自分へと向けられた。自然な二重瞼と、銀色の光彩が特徴的な、大きくて綺麗な瞳だ。この瞳に何度魅せられたことか。
「聞いて。あなたと私はここまで。あなたはもう、私とは関わらない方がいい」
何だよ、それ。
彼女が動く。機動隊の隊長が向かった方角へ数歩だけ進んで、また止まった。今度は振り返りもせず背中ごしに語りかけてくる。
「私が今こうして生きてるのは、ここにいるのは、あなた達のおかげ。ありがとう」
本当にこればかりである。それはもうお互いさまのはずだ。ユイだってあのロボットからこの街を守ってくれたではないか。
「急にぶったりしてごめんなさい。あなたには分かって欲しかったから。この世界の、尊いところ」
何も言い返せない。
「それから」
横顔だけで振り向く彼女。そこには、黄昏に彩られた微笑みがあった。ジルハムに向けるあの笑顔。どきりと心臓が跳ねる。
「最後は健吾のこと、少し見直したわ」
「……!」
初めて名前で呼ばれた。
「明美にもよろしく。じゃあ元気でね」
徐々に離れていく背中。
終わってしまう。
健吾の「特別」が。
たった二週間の「特別」が。
――いやだ。ここで終わらせてたまるか。
「あー、そういえば!」
如何にもわざとらしく声を張り上げる。驚いたユイが体ごと振り返った。夕日を背景として展開するお別れのシーンは、すごくドラマチックで感動ものの演出だったと思う。
――でも、ごめん。やっぱり俺には、そこの隊長さんみたいな空気の読み方は出来ないよ。
「ユイのパジャマ姿、ものすっごく可愛いかったなぁぁーっ!」
「なな、なに言い出すの、いきなりっ」
ユイがリンゴみたいに顔を真っ赤にして、見るからにあわあわし出した。こんな彼女の表情を見るのは初めてだ。俄然やる気が出てくる。
「水玉パジャマのカッコで『空が青いのっ』は反則だよなぁ」
「ちょっとそれ以上言わないで、みんな聞いてるのよ?」
機動隊の隊員たちが手を止め、今度は何ごとだと二人のやりとりを鑑賞し始めた。構うものか。教えてやる。この場にいる誰よりも、自分はこのユイという女の子のことを知っているのだと。
「でも二週間も俺の部屋に居たのに一度も添い寝してくんなかったなー」
「は? あなたと私がいつからそんな関係になったの?」
健吾の根も葉もない大言壮語に、とうとうユイも感情的な反論を始めた。
「だいたい、健吾。あなた盗み聞きしたり人の後つけたりするのやめなさい。犯罪でしょう?」
「ぐっ。でも最初は、ユイの方だってかなりの不審者ぶりを発揮してたんだから仕方ないだろ、」
「それはっ……! 身も知らない場所に放り込まれて、いったい他にどうしろと言うのっ」
だんだんと、周囲から小さな笑い声が漏れ出す。
「だからってそれを差し引いてもジルハムに話かけるとか――」
「ジルハム?」
あ、しまったつい。片眉を下げた訝しげな表情のまま思考を巡らせているうちに、ついぞその言葉の響きが意味するところへ行き着いたらしいユイは、カッと両目を見開いた。
「っ! ま、まさか、ジルハムって〈ジールヴェン〉のこと?」
「いやーそのー」
ユイの両肩がぷるぷると小刻みに震え出し、その声も次第に荒んでいく。
「健吾ね、あの子に変なこと吹き込んだのはっ。〈ジールヴェン〉という響きには、私の愛情がたくさん込もっているの。そんなふざけた語呂の名前を勝手につけて……!」
「あれはしようがなかったからだろ」
「何がしようがないの? ちゃんと説明して!」
もう堪えるのは限界だ、と言わんばかりに周囲がどっと沸いた。爆笑に次ぐ爆笑である。空気の変化についていけず、健吾とユイはポカンと口を開けた。
「はっはっは! 面白いな二人とも」
そう笑って近づいてきたのは、あの精悍な顔立ちの隊長である。
「せっかく彼女が君のことを庇ってくれていたのに……。もう言い逃れは出来んぞ。大勢の前でここまで盛大な痴話喧嘩を見せつけられては、こちらとしても君達が無関係な他人だなどと見過ごす訳にはいかないな」
「……うぅ」
ユイが苦い顔で俯いた。
固い強制力を感じさせながらも、爽やかな響きを含んだ声音で隊長は言う。
「青年。本件の重要参考人として、君にも我々とご同行願おうか」
臨むところだ。健吾はビシッと下手くそな敬礼の構えをとる。
「喜んで!」
「喜ばないでっ」
ユイの鋭い突っ込みはしかし、再び周囲の爆笑を誘うだけであった。