蒼穹の平和(2)
ユイが相原兄妹の家にやってきて、二週間が過ぎようとしていた。
この一四日間、彼女は大量の地図や歴史書を読み漁ったり、街の周辺を詮索したりして、「ここはどこなのか」という健吾たちにとっては全く意味が理解できない質問の答えを探し回っていた。何故なら彼女自身は「ここが日本である」という自覚があるにも関わらず、「ここはどこなのか」と問うのである。最初は安易に国内の地名や地理の問題なのだろうと考えていたが、それとは何かが、本質的な何かが違うのだという。
このまま彼女の存在を両親に隠し通せるとは思わなかったので、インターネットで知り合った海外の友達が日本に遊びに来ることになったから、暫くの間うちに泊めてほしいという強引な作り話をでっち上げて無理やり承諾を得た。
内心、この状況に健吾は拍子抜けしている。謎の美少女が謎のロボットと共に自分の家にやって来たのだ。これでワクワクするような事件のひとつやふたつ、起こらない方が不思議である。エイリアンが攻めてきたり、ユイに惚れられたり、自分に特殊能力が開眼したり、そしてやっぱりユイに惚れられたり――。しかし現実は、彼女が同じ部屋でご飯を食べて違う部屋で寝ていること以外、いつもと何も変わらない日常だった。
いや、敢えて挙げるならばジルハムだ。普段ユイは、裏山に放置プレイ中のジルハムへ二日に一回は必ず会いに行く。こっそり後をつけて様子を窺ってみても、彼女はコックピットらしき場所に籠もるだけで機体を動かす素振りを見せない。
ところで、前述の文章に二つほど突っ込みどころがあることにお気づきだろうか。
まずひとつ目。ジルハム。これは決して新種のハムスターのことではない。健吾があのロボットにつけたあだ名のようなものだ。ユイがロボットのことを〈ジールヴェン〉と呼んでいるのは、この一四日間で何度も耳にした。由来は至極単純で、つまりはジールヴェン→ジル→ジル公→ジルハムである。
それからふたつ目。ユイの行動を「見に行く」ではなく「会いに行く」と表現しているところ。彼女はいつもジルハムに語りかける。時には眩しいほどの笑顔であったり、時には憂いに満ちた寂しい顔であったり……。そのどちらも、健吾達には見せたことのない彼女の飾らない表情だった。まるで心を許した愛しい恋人に声をかけるかのような。だから、「会いに行く」なのである。
嫉妬していないと言えば嘘になる。健吾も健全な男だ。身近にあれほど美しく魅力的な女の子がいる。仮にこれが下心からくる感情であったとしても、自然と惹かれてしまうのは責められることではない。ジルハムという言葉の響きに若干蔑称の意が含まれている事実と、健吾の嫉妬心が全くの無関係だとは言い切れないだろう。
答えを受け入れるしかないと思った。それはずっと疑ってきて、しかしあまりに非現実的だと自ら切り捨てていたある答え。
自分は、別の世界に来てしまったのではあるまいか。
もう二週間も全く戦っていないなんて信じられなかった。青い空のもとで。街は活気に溢れ。人々は笑顔を絶やさない。まるで絵に描いたような平和世界だ。その全ては、ユイが知る日本では絶対に有り得ないはずのもの。しかしならばどうやって元いた場所に戻るのか。途方もなく漠然とした問いかけに頭が重くなる。そもそも何故自分は戻ろうとしているのか。
この街で一番大きなデパートの屋上にある噴水広場。中央噴水を囲うベンチのひとつに座って、頭上を仰いだ。
「ここにいれば、もう戦わなくていいのかもしれない」
ユイの呟きが青い空へと溶けていく。
先ほどから自らが発している、世界、という言葉に思わず気が遠退きそうになる。周りに映る平和などは全部嘘っぱちで、ユイを欺いてからかう為の大掛かりなセットやエキストラである可能性は? 空に見える青だって、本当は新型衛星の超広角ホロフィールドが形成する幻である可能性は?
しかし、空の青から連想する確かな感覚がある。あの、青い光に包まれて飛ばされたのだとしたら――。自分をここへ連れてきたのは、やはり〈ジールヴェン〉の意志なのだろうか。絶望的な戦局からユイを存命させるために。
そして腹部に感じたあの熱はいったい何だったのか。機体システムとリンクする操縦系の生理的な反応は、全て熟知しているはずだったのに。あんな感覚、いや痛覚を発したのは初めての経験だ。これも能動的ではなく、受動的なものだった。〈ジールヴェン〉が関連しているようでならない。
もう幾度も機体のAIユニットと各システムを調べているが、特異なもの、異常なものは何も見つかっていない。これ以上詳細に調べるのなら、モジュールやフレームを解体する必要がある。そんな設備と技術が果たしてこの世界にあるだろうか……。
膝に力を入れて立ち上がる。とにかく、疑念を抱いたままただ考えているだけでは何も始まらない。〈ジールヴェン〉にもう一度会いに行こう。太陽の光を反射して中空にきらきらと輝き散る噴水を横切り、ユイは再び歩き始めた。