おかえりなさい(2)
「愛子さんはああいう話が大の苦手なんですから、あんまりしつこくやると本当に恨まれますよ。あと、出来れば食事中にトイレの話はやめて下さい」
「すんません」
時雨を窘めつつ隣を見やる、ソーメンの鉢とお椀が放置してあった。覗いてみると中身は空っぽだ。いつの間に……。交換の話は一体どこに行ったのだろう。もしかして、時雨の前で交換するとからかわれそうだからやめたのかもしれない。
メファーナは残り半分のチャーシューメンを完食して席を立つ。
愛子の食器を片付けるのはもはや自分しかいない。流石に一度に全部を運ぶ自信はないので、二回に分けることにした。まず愛子のを持って行ったあと、再びテーブルに戻ってきて自分の使ったトレイと食器を手に取る。
「それじゃあキャプテンお先に」
「ちょっと待った」
振り返るメファーナに向かって時雨が掲げたのは、もちろん見事に割れたチャップスティックスであった。
「メファはこの芸術的な割筋をどう思う? 近年稀にみる傑作だと自負しているんだが」
「今日は助けてくれて本当にありがとう」
「何だ藪から棒に。そのことはもういいっていったろ」
生きて帰ってこられたからこそ、母に優しく出迎えてもらえた。でもこれはちょっと照れてしまうので、言わないことにする。
「いいえ。こうしていま生きて食後のメロンソーダを楽しめているのも、やっぱりフランツのおかげだから。ありがとう」
フランツは無愛想な表情で腕を組んだ。
こういうときは例によって瞳の動きを観察すればいい――案の定、微かに揺れている。戦闘終了直後に見たのと同じ、照れとバツの悪さが入り混じった、声なき戸惑い。困らせてしまっただろうか。でも言わなければきっと後悔したと思うから。通信機越しではなく、顔を見合わせて、言葉を交わしたかったのだ。
手元のメロンソーダとフランツの瞳を見比べながらほっと息をつく。ちゃんとお礼が言えて良かった。
それから二人は特に会話をするでもなく、ただただ流れ行くだけの数分間をまったりと過ごす。フランツはコーヒーを、メファーナはメロンソーダを啜りながら。
会話がなければ息が詰まりそうになる、とはコミュニケーションの道理において何かとよく聞く台詞だが、それは相手と本当は仲の良くない証拠なのだ。真に心を許しあえる仲間となら、ちょうど今の自分のようにただ一緒にいるだけで、安らぎや居心地の良さを感じるものだと思う。
ふと、ここまで仲がいいのになぜ自分たちの関係は恋愛に発展しないのかをちょっぴり考えて、何だか頭痛がしてきそうになる。フランツと自分がそういう雰囲気になっている光景が、全くと言っていいほど想像出来ない。
彼はやっぱり自分にとって戦友――ああ駄目だ。
これは出撃前に既にやった、恋愛、否、友情という思考の流れとまるっきり同じではないか。これ以上続ければ、心が再び「あの子」に辿り着く。まるで行き場のない檻だ。気持ちが一気に沈んできっとまたフランツに迷惑を掛けてしまう。痛み始める胸を抑えつけて思考を強引に振り払い、メファーナは顔を上げる。
と、フランツの視線が自分を通り越して後方へ向けられていることに気づく。それ自体は別に不自然ではなかったが、気になることがある。その瞳が揺れていない。これは、彼が確固たる意志の下に行動を起こす時の眼差しだ。
フランツの視線を追ってみる。フロアの隅から、執拗にこちらを窺う仕草が見て取れる女性のクルーがひとり。朝すれ違った人とはまた別人だ。
「私、席を外した方がいいですよね?」
「すまない」
「いえ」
フランツと短い会話を交わし、飲み干したメロンソーダの紙コップをゴミ箱に捨ててメファーナはフロアの出入り口へ向かう。
例の女性が、フランツの周囲にもう誰もいない状況を確認して彼の元へ走り寄った。彼女はフランツと対面するや矢継ぎ早に何かを訴え始める。その頬がどんどん紅潮していく。嫉妬と羞恥。
さっき一緒にいた子とは一体どういう関係なんですか、付き合っているんですかっ。私も、私だって、今日までずっとあなたのことを見てきました。好きです。どうか私と、私と――。
ここからではもう声は聞こえないが、多分そういうことを言っているのだろうというのがメファーナには分かる。そして、フランツが彼女に求愛に応えないであろうことも。
もし恋愛の神様がこの世に存在するのなら、どうかあの女性と、フランツの前に、いつの日か素敵な人が現れますように……。そう祈りを捧げながら、メファーナはリフレッシュルームをあとにする。
整理整頓の基本は、まず今すぐ必要なものとそうでないものに分けることだろう。その点はメファーナの得意分野だ。何たって魔法のメモ帳があるのだから。
足の踏み場を埋めていた書類とディスクを少しずつ丁寧に纏めていく。棚やクローゼットなど、収納を最大限に活用して部屋本来の広さを取り戻す。掃除を始めてから三時間弱。机の上、ベッドの上、床の上、智世の私室が秩序を伴って美しく生まれ変わった。
「お疲れさま。これなら私の手伝いなんて逆に要らなかったわね」
「そんなことないです!」
母さんと一緒に掃除が出来て嬉しかったから、とは流石に言えない。
「綺麗になると気持ちがいいわ。でも良かったの? シャワーを浴びたばかりだったのに。私はほとんど動いてないけど、あなたはまた汗をかいたんじゃないかしら」
頼まれた仕事はその日にやっておかないと気が済まない性格なのだ。「大丈夫です。気にしないで下さい」と返しながらパソコンのディスプレイを軽く拭こうとして、思わず手が止まる。
そこには、驚嘆するほど膨大な量の数語式が溢れていた。
記号と数字が織り成す静謐な混沌は、部屋の秩序と相対して異常なまでの存在感を放つ。今朝見たときよりも遥かに難解さを増している。不思議な魔力を宿した数語式に飲み込まれてしまいそうな錯覚を抱いて立ち眩みを起こしかけたそのとき、
「ファインマン。発展系の経路積分法よ」
「え、」
突然近くなったその声に思わず振り返る。いつの間にかすぐ背後に智世がいた。緊張が全身を走る。見つめ合う、母娘。先程までの柔和な空気を一切感じさせない母の真剣な表情に意識を集中する。
「それはね、魔法なの」
「魔法?」
一瞬、魔法のメモ帳の存在が脳裏を過ぎったが直ぐにかき消えた。あれとは決定的に質が違う。
「そう。この世界の真実を映し出す強力な呪文」
母は、何を言っているのだろう。
「平行宇宙という言葉を知っているかしら?」
少し考えてから、首を縦に振る。SFに登場するパラレルワールドの事ならメファーナにも少しだけ知識がある。確か「時間軸が分岐し、それぞれ別の因果律をもった世界が無限に存在している」という理論だったと思う。
現実主義の物理学者である智世の口から魔法などという単語や、SFとはいえ作り話の中でしか語られないような台詞がこうして飛び出してくるとは夢にも思わなかった。
「この経路積分はね、平行宇宙の存在を数学的に証明できるかもしれないツールなの」
意味が理解出来ない。物理学の素養がない自分に向かって突然何を伝えようというのか。だが次に発せられた言葉は、メファーナの心を深く抉るものだった。
「メファ。あなたは、私がいずれこの艦を去ってしまうのではないかと危惧しているわね」
口から心臓が飛び出しそうになる。「あの子」を失してから毎日毎日、苦悩し続けた恐怖を言い当てられてしまった。見透かされていた。胸の奥に仕舞い込んで隠し続けてるつもりだった心の影を。
「そ、それは――」
「部屋の掃除をしてくれたお礼よ。あなたの一番知りたいことを教えてあげる」
私の一番知りたいこと。
「あの子」がいなくなってしまったから、お母さんは私を置いて、遠い何処かへ行ってしまうのではないか。精神を蝕み続けている大きな恐れ……。
「私は、この艦からは離れないし、何処にも行かないわ」
聴覚が捉えたその響きを、脳髄がゆっくりと解析する。
嬉しい。本当に嬉しい。それなのに、メファーナは大きな幸福を感じることがまだ出来ないでいる。こんなにも望んでいた答えを母は与えてくれているのに、自分はこれ以上何を望むというのか。
分かりきっていた。
こう言ってほしいのだ、「あなたを置いて遠くへ行ったりしないわ」と。こう付け加えてほしいのだ、「あなたがいるから私はここに残るのよ」と。自分は何と強欲で醜く、傲慢で身の程知らずなのだろう。こんなものはきっと智世の求める娘の姿ではない。
智世の瞳はもはやメファーナに向けられていなかった。自分の背中を通り越し、再びパソコンのディスプレイへと注がれた彼女の強い視線を認めて、どうしようもなく悟ってしまう。肩に置かれていた母の手に力が入る。この画面に巣食う魔法の呪文こそ、「あの子」を失ってなお智世がこの〈クインハルト〉に留まる本当の理由なのだ。
あの母がここまで情熱を注いでいる。凄く価値のある研究に違いない。それはメファーナにとっても誇れることだ。
でも。ほんの片隅でいいから、どんなに小さくてもいいから、智世を智世足らしめている気高い決意と心のどこかに、自分の存在を見つけたかった。
どんどん我儘になっていく己に気がついて、必死にその邪さを抑え込む。戦場から戻ったときに母が優しく迎えてくれたことを誇大解釈し、気を大きくしていたのかもしれない。智世の些細な気まぐれを娘への愛情だと勘違いして。
メファーナは心の中で何度もかぶりを振った。いつから自分はそんな高望みが出来るほど偉くなったんだ。些細な気まぐれだって全然構わない。母が優しく迎えてくれた――それだけで、それだけで充分だったんだ。他にはもう何も望まない。
「母さん、話してくれてありがとうございます。その言葉を聞いてとても安心しました」
内心の葛藤を悟られない程度には巧く笑えたと思う。ただ含みのある表情であることは勘づかれたようで、智世に再び苦笑されるはめになった。
「まぁとにかくそういうことだから、これからもよろしく頼むわね」
「はい。こちらこそです」
メファーナの肩から手を離してゆっくり後退すると、智世はそのまま部屋のベッドに腰を掛けた。
母を追ってベッドの脇にあるテーブルへと歩み寄り、その上に置かれた簡易給湯セットに手を伸ばす。急須の中にお茶の葉が入っていることを確認して、小型ポットからお湯を注ぐ。柔らかい葉の香りが仄かに立ち込める中、溢さないよう慎重な手つきで母の湯飲みにお茶を淹れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
差し出した湯飲みを受け取った智世が、「あら」と小さな驚きの声を上げる。しまった。埃でも浮いていたのか。「これよ」中身がよく見えるようこちらに傾けられる湯飲み。慌ててその中を覗き込む。
細いお茶の茎が、垂直に立って浮かんでいた。
「……すぐに、淹れ直しますから」
「ああ待って」
湯飲みを取ろうとするメファーナを制して、智世は目を細めながらお茶の茎を眺めている。嬉しそうな表情に見えるのは気のせいだろうか。
「これは茶柱と言って、日本では吉兆の現れだと云われているの。私も科学者のひとりとしてその手の縁担ぎはあまり信じない方だけど。なるほど、実際にこの目で見てみるとなかなか悪い気はしないわね」
「縁起のいいことなんですね」
「ええそうよ」
メファーナはそっと胸を撫で下ろす。失敗じゃなくて良かった。それにほんの少しだけれど母を喜ばせることも出来た。茶柱にそっと感謝の気持ちを送る。
「メファにも、いいことがあるといいわね」
顔を上げた母が、爽やかに微笑んでそう言ってくれた。
お母さん。私はもう満足です。あなたが喜んでくれるだけで、こんなに嬉しい気持ちになるのだから――。
メファーナがもう一度シャワーを浴び終えてから自分の部屋へ戻る途中で、〈クインハルト〉は消灯時間を迎えた。天井のライトがその明度を緩やかに落としていき、代わりに足元に設置された小さな誘導灯が点灯を始める。静寂と暗闇が辺りを支配した。
智世ともっと一緒にいたくて、もっと話がしたくて、あのあと結局一時間近く彼女の部屋に居座ってしまった。迷惑ではなかっただろうか、邪魔にはなっていなかっただろうか。そう考えたら不安になってくる。自問自答を繰り返しながら廊下を進む。