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おかえりなさい(1)




「おかえりんぐメファ嬢。無事で何よーりよ」

「ただいまです。リプリーチーフ」

「あんれ? ところで〈ソルダーニャ〉のハンドカノンは?」

「失しました」

「がびーん」

 そんなこんなで〈クインハルト〉へ無事に帰艦したメファーナは、リプリーにたくさん謝罪をしたあと、パイロットたちの生還を見届けに降りてきた時雨から「よく戦ってくれた」と労いの言葉を掛けてもらい、艦底部に位置するNFAハンガーを出た。

 エレベーターの上昇感覚に身を預けながら、帰艦早々姿が見えなくなったフランツを探し出して、もう一度だけ彼にお礼を言った方がいいだろうか、それともあんまりしつこいと逆に嫌われるだろうか、などと思考を馳せつつ深呼吸。

 エレベーターの扉が開く。

「っ!」

 智世が立っていた。

「おかえりなさい、メファ。よく頑張ったわね」

 本心からなのか愛想笑いなのか判断のつかない微笑を浮かべて母はそう告げる。こんなことは初めてだ。自分を迎えにきてくれるなんて。嬉しい。でもどう対応すればいいのだろう。頭の中をあれこれ堂々巡りして、ようやく捻り出した言葉は――

「お部屋の掃除、まだでしたよね! す、すぐに終わらせますから!」

 智世が今度は苦笑する。

「ふ。何それ。ここは『ただいま』でしょう?」

 やってしまった。顔中が熱を帯びていくのが分かる。きっと耳の先まで真っ赤になっているに違いない。

「た、ただいまお母さん」

「お帰りなさいメファ」

 そのひと言で胸に温かな安らぎが生まれてくる。

 ああ。自分の帰りを待っていてくれる人がいるということは、こんなにも幸せなものだったのか。死ななくてよかった。生きててよかった。やっぱりフランツにもう一度だけお礼を伝えよう。

 いや、重要なことを思い出した。

 そういえば戦闘後にはなるべく母と会いたくない理由があった。ツンと鼻を突く体臭。白いパイロットスーツが、躯にベットリと貼り付いていて凄く気持ち悪い。さっきから髪の毛がベタベタするし、全身が痒くてしょうがない。母の前では常に心掛けている「清潔」の二文字が、今や遠い異世界の呪文か何かのようだ。

「ごめんなさい」

 つい後ずさって身構える。せっかく出迎えてくれた母に不快な思いをさせてしまったかもしれない。

「謝る必要はないわ。戦闘行動中――緊張状態における発汗作用は、人間として当然の身体機能よ」

 智世がこちらに背中を向けて既に歩き始めていた。淀みのない、自信と誇りに満ちた強い歩調。メファーナは母のこの姿が好きだ。何故だか自分まで勇気が沸いてくる。

「何時までもそのままじゃ気持ち悪いでしょう」

 小刻みに揺れる智世の肩、メファーナには分かる。

「いつまでそこに突っ立っているの? 早く私について来なさい」

 その後ろ姿が自分にそう語りかけていた。


 こうなることはある程度予想出来た。

 母は体を洗い流そうとした直前に戦闘が始まってしまってそれを中断せざる得なかったのだし、自分なんかは先述の通り戦闘に参加した直後で体中が大量の汗でびっしょりなのだ。そうだ。こうなることは予想出来たはず。しかしいざこうなってみると、やっぱりもう少しだけ心の準備が欲しかったなと切に思う。

 降り注ぐ温水の雨。立ち込める湯煙。伝わる熱の微風。

 メファーナは、智世と並んでシャワーを浴びている。

 母と裸体を晒し合うなど、想像もつかなかった。計七基のユニットシャワーが立ち並ぶフロア。簡素な開閉式の仕切りを挟んだすぐ隣で、きっと母の白くて綺麗な素肌が光を反射して煌めいているのだ。

 智世の方が早くシャワーを終えるだろう。ふと自分の体に、母に見られておかしな所はないだろうか気になって腕の動きが緩慢になる。だがボディソープの泡が自分の体を隠してくれる事実に今さら気づき、慌てて両手をこすりあわせて泡立てを始めた。

 裸を見られるのが恥ずかしくて、脱衣所では母がシャワー室に入っていくまでメファーナは下着を取ることが出来なかった。とはいえ一緒にシャワーをと誘われておきながら、このフロアでスペースを空ける訳にもいかず、こうして隣で湯の栓を開けたのである。

 よく泡立った石鹸を、どうしよう、そうだ、とりあえず一番見られたくないこの胸を、

「やっぱり大きいのね」

「ひゃっ」

「上向きで形もいいし、羨ましいわ」

 いつの間にか隣の仕切りを開いて顔を出していた全裸の智世が、これっぽっちも遠慮する素振りを見せずにメファーナの上半身を凝視している。母の身体を見返す余裕もなく、思わず自らを抱くようにしゃがみこむが、

「私もある方だと思ってたけど、流石にあなたには負けるみたい」

 手遅れだった。

「頂上はピンク色か。色素が薄いのね」

 も、もうやめて。恥ずかしい。

 智世は生物学者でもある。あらゆる生物の身体構造に精通しているのだ。今までに幾度となく聞かされてきた生命体についての論述も、必ず科学的見地に基づいた厳粛なものではなかったか。それなのに今の智世の口から出て来る言葉は、何から何まで破廉恥なものに思えてくる。

「今、成長期よね。まだ乳房の芯は残ってる? 弾性の具合や脂肪の付き方にも興味があるわ」

 お、お願いだからもうやめて。

「乳腺の状態はどう? 少し触診してもいいかしら?」

 母さんの威厳が揺らいでいる気がするのは、まさか私のせい? もしそうなら、こんな大きいだけで何の役にも立たない胸なんていらないよう。

 恥ずかしさで全身が酷く火照っている。てっきり自分になんか関心がないと思っていた母が、こうして興味を示してくれたのは喜ばしい事実なはずなのに。この状況下では、とてもそれを素直に喜べないメファーナであった。


 智世のおっぱいタッチをどうにかこうにか凌ぎ切り、食堂に辿り着いたメファーナは、壁掛けされた電子メニューボードの前で、考え込むように顔を渋る菊岡愛子の姿を見かけた。「うーん。どうしよっかな」などと呟いている。何やら夕食のメニューを決めかねているようだ。

「こんばんは、愛子さん」

「ああメファ」

「悩んでらっしゃるようですね」

「うんそうなのよ。麺系でいこうと思うんだけど。ソーメンにするか、チャーシューメンするか、なかなか決まらなくてね。メファはどっちがいいと思う?」

 急にそんなこと訊かれても、何を基準に決めればいいものか分からない。どうしようか悩んでいると、愛子が突然「そうだ!」と手を叩いた。

 わ、ビックリしたぁ。

「いいこと思いついた。私がソーメンにするから、メファはチャーシューメンにしなよ。それでもって半分食べた時点でお椀を交換。ほらほら万事解決。一度で二度おいしいこの感じ、私って頭いい」

 巻き込まれてしまった。

 カウンターで注文を済ませ、料理の載ったトレイを受け取る。空いているテーブルを適当に見繕って愛子と並んで席に座った。

 箸を用意して「いただきます」をし、チャーシューメンに手を付け始める。こってりとした濃厚スープと肉汁たっぷりの厚切りチャーシューが何とも食欲をそそる。そういえば午前中に緊急戦備警報が発令されてから五時間、まともに昼食を摂っていなかった。

 食は須く進み、ずず、ずずず、と麺の音を立てながらお椀の中身はあっという間に半分に。そろそろ愛子のソーメンと交換しなければいけないのだろうか。メファーナが挙動不審になり始める中、ふと向かい側のテーブルに別のトレイが置かれた。

 ぱっちん!

 箸が割れる無駄に小気味いい音。

「これはこれは。食堂の隅で箸をつかってるご婦人がいるなーと思ったら、君たちだったか」

 メファーナは微笑を浮かべて「キャプテン、どうもお疲れさまです」と言ってみる。愛子がその隣で、ちっ、と小さく悪態をつきながら露骨に視線を逸らした。

「あっ、愛子くん今確かにちっちゃな声で舌打ちしたろ。傷つくな」

 眉をひそめたまま芝居がかったような動作でかぶりを振る桐島時雨は、「違いますー」という愛子のあからさまな嘘にもめげずメファーナ達の正面を陣取った。彼の持ってきたトレイの上には、赤やら黄色やら黒やら白やら緑やらがやたらめったら挟み込まれたビックサイズのハンバーガーが二つ。

 それを食べるのに何故お箸?

 メファーナのそんな疑問をよそに、何と時雨は目前でハンバーガーの解体ショーを始めてしまったではないか。蓋と真ん中と底で具を挟んでいた三枚の円形パン、赤――トマト、黄色――チーズ、黒――ハンバーグ、白――卵、緑――レタス、無惨にもその身を引き離されてしまったハンバーガー。バラバラ殺バーガーの犯人は、それらを箸で挟み込むと器用に口の中へ運び始めるのだった。

「うわ、ちょっとあれ。何考えてるのかしら、理解できないわ。これだから嫌だったのに……勘弁してよもう」

 小声でそう耳打ちしてくる愛子に苦笑を返す。確かにどうかと思う。本人にとっては割り箸を駆使した高度なテクニックのつもりなのだろうが、これではハンバーガーの存在意義が無くなってしまう。可哀想なハンバーガーさん。

「んぐんぐ。そういえば、この艦にも出るらしいな」

 何の脈絡もなく唐突に切り出された時雨の言葉に意味をはかりかねたメファーナは、急に何を言い出すんだろうと思いつつ小首を傾げて聞き返す。

「出るって何がですか?」

「出るって言ったら、ほら、やっぱりあれしかないじゃないか。本当は見えちゃいけないはずのあれさ」

 急に声のトーンを低めて絞り出すようにそう呟く時雨。いまだ彼の言葉の真意を理解できなくてキョトンとするメファーナの隣で、愛子が「ひ、」と肩を震わせて箸をお椀の中に落とした。

 心なしか、この場の温度が少しだけ下がった気がする。

 ――うん、まぁ何ていうか、この〈クインハルト〉は戦争をしてるんだ。いわば生と死の彼岸へ頻繁に出入りしていると言っても過言じゃあないだろ。

 あると思うんだよね。魂が行き交う道筋みたいなものが、この〈クインハルト〉の艦内にもさ。だから時折こんな話を耳にするんだ。

 丑三つ時。夏夜の寝苦しさに目を覚ましたある兵士が、汗でベタベタになった自分の身体をさっぱりさせようと、シャワー室へ続く長い廊下を歩いていた。誘導灯しか光源のないそこは昼間とは完全に別世界さ。

 カツーンカツーンていう自分の足音だけが反響する、不気味な暗がり。兵士はふと自分以外の気配を微かに感じ取るんだ。だが振り返っても誰もいない。考えてみればおかしな話だよ。自分の足音しか聞こえないのに背後から気配を感じるなんてさ。

 首を傾げて再び歩みを始める兵士。馬鹿だよなぁ。ここで自分の部屋に引き返せば良かったのに……。

 やがて気づいてしまうんだ。自分の足音に紛れて、ざっざっざっていう、重たい何かが床の上を引き摺られていくような摩擦音が、いつの間にか聞こえ始めていたことに。こんなのは幻聴だ、自分にそう言い聞かせながら歩みを進める兵士。

 だが進めば進む程大きくなるその音に身の内の恐れは否応なく増長されていく。恐怖のあまり振り返ることも出来ず、耐えられなくなった兵士は咄嗟にすぐ脇のトイレに駆け込んで、個室に鍵を掛けた。

 ざっざっざっ。

 その音はトイレの中まで追いかけてきた。便座の上で両耳を塞いでうずくまる兵士。全身の震えは止まらず、冷や汗は一層溢れてくる。

 ざっざっざっ。

 早く、早く違うところへ行ってくれ。どうかこの扉を開けないでくれ。俺の存在に気付かないでくれ。兵士は必死に祈る。すると突然その音が止んだ。願いが通じたのか、それ以来いくら息を潜めても音は聞こえてこない。

 腕で額の汗を拭いながら大きく溜め息を吐いた兵士が、便座から立ち上がったその時だ。ツーと首筋を何かが伝った。自分の汗だと思い、手でそっとそれを拭う。何気なしに手のひらを確かめた兵士は目をむきだして驚愕する。赤。手のひらにベッタリと、血の赤。恐怖で殆ど動かなくなった首の関節を軋ませながら、ゆっくり頭を持ち上げる。

 戦慄で五臓六腑が凍りついた。そこには、爪の剥がれた血まみれの指で壁の縁を掴み、眼球の抉られた暗く虚ろな双眸でこちらを見下ろす戦死者の怨霊が――

「いやぁあぁあぁあぁーー!」

 突如もの凄い音を響かせて立ち上がった顔面蒼白の愛子が、両耳を塞いで絶叫しながら食堂を走り去って行った。速い。むちゃくちゃ速い。彼女は本当にオペレーターか。怪談話を途中で切り上げた時雨が後頭部を掻いて肩をすくめた。

「おっと。囁かな復讐のつもりだったんだけど、ちとやり過ぎたかな」


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