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もうひとつの朝(3)

 慌てて歩み寄って、両手で包み込むように眼鏡ケースを受け取る。それから上目遣いに智世の表情を窺ってみた。すると自由になった彼女の手の平が顔面に迫ってきて――。

 えっ、と頬を朱に染めるも、それは肌に触れることなくメファーナの掛けている眼鏡に辿り着く。指先がスッとフレームを伝う。

「いい? 今回はケースだけで済んだけど、本体はくれぐれも失さないように気をつけて。あなたの眼鏡は、特別なんだから。すぐにスペアは効かない大切なものよ」

「ごめんなさい。気をつけます」

 ――安心して母さん。眼鏡はもう、大丈夫です。貴女が大切だとそうはっきり声に出したものを、私は決して失さないから。

「少しシャワーを浴びてくるわ。この部屋の片付けをお願い出来るかしら」

「任せて下さい」

 思わず笑みがこぼれた。智世からお願いをされると胸が躍る。嬉しさに溺れそうになる心を引き締め、言葉を付け加える。

「ごゆっくりどうぞです」

「ゆっくり、ね。そう出来るといいけど」

 智世が皮肉の籠った口調で言った。彼女は紛れもない非戦闘員だが、いつスクランブルが掛かるか予測出来ないこの艦の現状をよく理解していた。さすがにこればかりはメファーナにもフォロー出来ない。

「そんなしょげた顔しないの。あなたを責めている訳ではないのよメファ」

 智世はそう言い添えながら隣を横切って部屋の扉へ向かう。外側にカールして跳ねる彼女の栗毛の髪が、メファーナの耳朶を掠めた。左からスライドしてきた扉が、部屋の出入り口を静かに閉ざす。パソコンの微かな機械音だけが後に残された。

 寂しい。

 だが仕事を仰せつかったばかりである。ぼさっと突っ立っている訳にはいかない。ズボンのポケットをほじくり回して、中から小さな赤いリボンを取り出す。

 自分の金髪を大雑把にかきあげて指で適当に解いた後、髪の右側へ纏めて赤いリボンで結わく。これが本来のヘアースタイルである。一度だけ智世を真似てドライヤーでカールをつけようとして、髪質が合わないのかどえらいことになった。

「ふぅ」

 見渡す部屋は、そのときの髪型みたいにどえらいことになっている。足の踏み場を犠牲にして敷き詰められた資料やメディア。積み重ねられたファイルの束がベッドにまで及んでいた。今からこれらを綺麗に整理しなくてはいけない。智世がシャワーを浴び終えて戻ってくるまで。

 でもその前にやっておかなければならない儀式がある。

 今度はズボンのお尻のポケットに手を入れ、中から小さなメモ帳を取り出す。月に一度、物資の補給と共に艦にやってくる行商人から、日本円の一一〇円で購入したもので、安っぽい再生紙を纏めただけの簡素な品だ。

 ページをひとつひとつ、丁寧にめくっていく――。

 そこには、デスク上に散乱している智世の論文に負けないくらいびっしりと、辛うじて読める下手くそな日本語で書き込まれた、数万字にも及ぶ単語の海があった。

「ちょっと借りますね」

 小声で呟き、デスクに転がっていたボールペンを遠慮がちに拝借。そして単語の海が浮かぶメモ帳の、僅かに残されたページに、メファーナは辛うじて読める下手くそな日本語で新たにこう書き加える。

 私の眼鏡。

 智世は何故、よくものを失してしまうメファーナに、大切な研究資材やデータが保管されているはずのこの部屋を任せていられるのか――それは、メファーナが智世の大切なものを今までに一度として失したことがないからだ。逆に智世が見失っていたものの在処ありかを一瞬で言い当てたこともある。

 誇れるとまではいかないが、これが自分の唯一の自慢だった。智世が「大切」だと口にしたり、あるいはそう考えているとメファーナが判断したものの名前を、全て紙に書きとめておくという、律儀で気の遠くなるようなメモ帳。

 そして自分以外にこのメモ帳の存在を知る者は、“もう”どこにもいない。ただ一人だけメモのことを知っていた「あの子」は、笑ってよくこう言った。

「それは魔法のメモ帳ね。メファの持ち物だって、そこに書いておけば失さなくなるかもしれないよ」

 技得たりと喜んで試してみたけれど駄目だった。自分のものはどうしたって失してしまう。不思議だがこのメモは、智世のものでなければ魔法の効果を発揮することは出来ないのだ。ならば智世が大切にしていた「あの子」の名前を、この魔法のメモ帳に書けば失してしまうことはなかったのだろうか。

 ジャラジャラと音を立て、黒い鎖がメファーナの胸を締め付ける。体が、重い。振り払いたいのに叶わない。

 苦しくなる胸が、思い至りたくなどなかった負の予感を絞り出す。ずっと「あの子」の為に艦に乗っていた智世は、「あの子」がいなくなった今、そのうちメファーナを置いてこの場所から去って行ってしまうかもしれない……。

 黒い鎖の輪がさらに太く、強靭になって締め上げてくる。

 また大切な人を失してしまう。

 腹の底が凍り付くような冷たい恐怖に自意識を侵され、ほとんど朦朧とした状態のまま、小刻みに震える利き手で魔法のメモ帳に智世の名前を書き込もうとした刹那――携帯端末のアラームとは比較にならないほど遥かに耳障りな艦内の緊急戦備警報が、両の鼓膜を激しく振るわせた。

 ハッと我に返ってボールペンをデスクに放り戻し、魔法のメモ帳をお尻のポケットにねじ込む。

 慌ててシャワーのスイッチを切りながら舌打ちを鳴らす智世の姿が脳裏を過ぎる。どうか母が風邪を引きませんようにと祈りつつ、メファーナは部屋を飛び出した。


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