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もうひとつの朝(1)




 メファーナの胸を締め付ける黒い鎖は、強靱さを緩める気配など一切ない。苦しみから解放されるには一体どうすればいいのだろう。考えれば考えるほど、小さなケージに囲われた箱庭を右往左往するノイローゼのモルモットのように、この苦痛が出口のない心の檻なのだという事実に絶望した。

 ――苦しい。

 ――ここから抜け出したい。

 このひと月で何十回、何百回と擦り重ねてきた後悔と哀しみが、悪夢の如き世界が夢ではない現実をメファーナに糾弾する。だから、望んでしまう。こんな世界を生きていくくらいなら、いっそ朝など来なければいい――と。

 意識の端で音が蘇る。規則的で色気のない二拍子の電子音。徐々に間隔を詰め、やがてそれが耳障りな機械仕掛けの叫喚へ成り変わった時、蘇ったのは音ではなく意識の方なのだと気づく。

 力を入れる。脳が起きているのに体が眠っている状態を「金縛り」だとする説があるが、どうやら脳からの命令は無事に右腕へ伝わったようだ。伸ばす手の指先が枕許を探り、ひんやりとした機械の虫を捕らえるとその腹を掻いて五月蝿うるさい鳴き声を黙らせた。

 視界に光が溢れる。瞳が光量を調整し、ぼやけた視界を練成する。灰色の低い天井が圧迫感を煽るが、そんなものはとっくに慣れっこだ。腰を曲げて体を起こす。体が、重い。神経が完全な覚醒を遂げていないせいも無論ある。しかしメファーナにとって、この「重さ」には拭いようのない苦しみが込められていた。

「朝が、来ちゃいました」

 などとはやし立ててはみるものの、これが例えば不治の病による余命幾許かの朝だとか、あるいは決して揺るぐことなき死刑執行日の朝だとか、はたまた神の予言に約束された世界終焉の朝だとか、そういう訳では特にない。

 ここは二段ベッドの下段。上段の底である天井に頭をぶつけないよう気を払いながら寝台を降りる。寝起きでふらつくのか危なっかしい足取りでベッドの向かえに佇む簡素なデスクまで辿り着くと、その上に置かれた薄い銀縁眼鏡を手に取った。

 メファーナの美しく澄んだ碧眼を、眼鏡のレンズが覆う。視界が更に洗練されて景色を本来あるべき姿に映し出す。先程まで視認出来なかったデスクの上の、香水の小瓶に塗装されたラベルの配色や、アクセサリーボックスに印字されたメーカー名や、ドックタグに降り積もった細かい埃が、当たり前のように浮き彫りになった。

 さらに注意深く観察すると、この状況なら机上にあって然るべきものがひとつ欠けている。眼鏡ケースだ。

 メファーナはよくものを失す。

 極度な天然という訳ではないにしろ、これを可愛い個性なのだと許せるほどメファーナも自分に甘くはない。

 昨日は下ろしたばかりの靴下を片っぽ失し、一昨日は愛用していたシャープペンを失し、一週間前はお気に入りのリップクリームを失し、二週間前は三九ドルと二五三六円の入った財布を失し、

 一ヶ月前は、大切な友人をひとり失した。

 振り返る。二段ベッドの上段は、シーツも枕も毛布もなく、申し訳程度の薄皮を被ったスプリングが朝の冷気に晒されている。

 苦い過去とは精神に穿たれた窪みだ。いけないと分かっていても、つい覗きこんで底の深さを確かめようとしてしまう。すると心ごと窪みへ引っ張り込まれ、そこから抜け出せなくなる。

 体が、重い。

 メファーナは生まれてからの一七年間、失したものをその手に取り戻したことが一度としてない。

 気怠い身をベッドに乗り出し、放られていた機械の虫――携帯端末を取り上げると目前にかざす。表示されているのは、6:08。

「やっぱり、朝ですよね」

 幾ら確かめてみても、それは疑いようのない、一日の始まりだった。


 桐島時雨きりしましぐれは艦のキャプテンだ。彼の存在をひとことで表すなら、ずばり「変な人」である。いや、もはや縮めて「変人」でいい。

「おお。おはよう、メファ」

「おはようございますキャプテン」

 馬鹿と天才は紙一重、とはよく云ったもの。時雨は割り箸を如何に美しく割るかという儀式において、己の全身全霊を賭けているのだと豪語する。

 よって、ここ食堂に朝食を摂るべく集結した艦のクルー達が一斉にスプーンと皿底の演奏を弾き始める中、彼ひとりだけ割り箸を睨みつけたまま「ふぬぬはぅぁ」と意味の分からないテンションで唸り声を上げているこの奇妙なシチュエーションに対して、メファーナはこれといって訝しむ様子を見せない。

 ただ内心、彼の隣しか席が空いていなかった事に対して嘆息はしているが。

 パッチン。

「ひゃっほーい! 見てくれみんなっ」

 興奮気味に立ち上がった時雨が見事に割れた箸を頭よりも高く掲げ、初めて鉄棒の逆上がりに成功した少年のようなオーラを周囲に振りまいた。

「この美しい割り筋、まさにアートだと思わないかっ。そして迷いの感じられないこの肌触りっ。全てはライトとレフトのフォーエバーグッバイが可能にする奇跡の神技!」

 食堂に響いていた演奏が止まり、様々な視線が自分の隣に集まってきた。

 流れる沈黙。

 メファーナには分かる。

 オペレーター、菊岡愛子きくおかあいこは視線でこう訴えている。

「いい加減にしてよ、ウザいんだけど」

 兵器管理主任、宮野隆みやのたかしは視線でこう訴えている。

「うわ、また始まった。視線逸らさないと」

 パイロット、倉木克典くらきかつのりは視線でこう訴えている。

「あんた今年で三四だろ。少しは艦長らしくしろ」

 操舵手、前川志乃まえかわしのは視線でこう訴えている。

「この人、黙ってればいい男なのに……」

 機関士、黒井慶太郎くろいけいたろうは視線でこう訴えている。

「いっぺん炉心に叩き込んだろかこいつ」

 料理長、坂城稔さかしろみのるは視線でこう訴えている。

「そんなことより食え、早く食え、料理が冷める」

 ……。

「あ、すまん。食事を続けてくれ」

 咄嗟に空気を読んだ時雨が、残念そうな表情を作ってこの沈黙を破った。

 スプーンと皿底の演奏が再開される中、彼はしょんぼり椅子に腰を下ろす。何ともシュールな情景である。落ち込む彼の姿を盗み見て少し気の毒だな、と思った。

 確かに時雨の割り箸熱はありがた迷惑――いや、はっきり言って迷惑だ。しかし彼の底抜けた明るさには何故か憎みきれないものがある。

 大切なものを失ったのは自分だけではない。戦争で疲弊した精神は肉体を蝕んでいき、やがて自分が自分で無くなってしまう。その先に待っているのは死だ。生と死が限りなく等しい領域に同居する戦場で、自我を維持し続けなければならないという行為には、想像を絶する程の苦痛が伴う。一瞬でいい。その苦痛を一瞬だけでも忘れることが出来る「何か」がなければ、この世界では生きていけない。

 もしかすると時雨は、艦のキャプテンとして自分こそがこの「何か」を担わなければ、と考えているのではないだろうか。何と思いやりのあるリーダーなんだ、と先程とは別の意味でメファーナは嘆息する。

「メファ」

「は、はい……?」

 気がついたら時雨と目が合っていた。浅黒く男勝りな彼の肌は、白い壁に囲まれたこの食堂では妙に浮いて見える。

 じーっと視線を逸らさない。これは流石に緊張する。

 刈り上げられた短髪が彫りの深い顔になかなか栄える時雨。そんな彼は周りに聞こえないようボリュームを絞った声で、

「この割筋、どう思う? 近年でも稀に見る傑作だと自負してるんだが」

 握った割り箸を提示して訊ねてきた。顔にさぁ褒めてくれと書いてある。どうしよう。お箸の割り筋の良し悪しなど検討もつかない。きっと深く考えたら負けなんだと思い、努めて明るい笑顔を讃えてこう言った。

「良いんじゃないでしょうか。綺麗に割れたんなら気持ちいいですし」

 そうかそうか、分かってくれるか、やっぱりメファはいい子だなぁ。だらしない笑みを浮かべながら割り箸でコーンスープをすくうという猛者ぶりを発揮する時雨を眺め、メファーナはさっきの感心を静かに撤回した。


 フランツ・リールズは艦に所属するパイロットのひとりだ。彼の存在をひとことで表すなら、ずばり「クールガイ」である。

 リフレッシュルームへと続く廊下の途中で、涙を溜めて走り去る女性士官とすれ違う瞬間、メファーナはこの先にいる彼の存在を察知した。

「フランツ、おはようございます。今日も朝ごはん食べないんですか?」

「おはよう。食べないよ、朝は」

 朝食を抜くのは衛生上良くないことだと思う。だが他人のライフサイクルに意見を挿めるほどの人徳は生憎と持ち合わせていない。それに好奇心はやっぱり違うところへ向かう。

 フリードリンクのボタンを二三選択し、落ちてきた紙コップに注がれるメロンソーダを透明のプレート越しに観察しながら隣に声を掛ける。

「さっきの女の人……」

「ああ。そうだよ」

 言い終える前に答えが返ってきた。何を訊かれるのか重々承知していたらしい。それならば、とメファーナは若干語調を強めてこう続ける。

「また断ったんですか?」

「当然。というか今そんな余裕ないし」

 フランツは驚異的にモテる。時雨もそれなりに男前の部類に入るのだが、ひとたびフランツが舞台に上がればそれなりなんて端役はすぐに霞んでいってしまう。

 流麗な眉と均整のとれた目、筋の通った鼻立ち、形の絞まった口許。それぞれのパーツが絶妙なバランスを成す美しい顔の造形に加え、身長も自分より一〇センチ以上高い。もし戦争が始まらずにハリウッド映画が現在も製作され続けていたとしたら、彼は一躍スターダムに登り詰めることが出来た逸材ではないかとメファーナは勝手に思い込んでいる。

 メロンソーダを注ぎ終えた紙コップを受け取る。そのままフランツが寄りかかっている壁の、向かいに設えられたソファーに座った。背もたれがないのでちょっと不便だがメロンソーダがあれば気にならない。

 上目遣いに正面を窺う。女性の心を惹き付ける、垂れ具合が特徴的なライトグリーンの甘い瞳――メロンソーダの色に少し似てなくもないと思う――が宙を仰ぎ、フランツは言い訳のようにこう呟く。

「明日はもうこの世にいないかもしれないのに、恋愛なんて何の意味があるのさ」

 それはきっと逆なんだと思います。

 メロンソーダをちびちび喉に流し込みながら心の中で反論してみたものの、声には出さなかった。真偽のほどは定かでないが「フランツの恋人は戦争で死んだ」という話を人伝に聞いたことがある。真実を知りたくないと言えば嘘になる。でも彼の胸に刻まれているかもしれない心の傷に塩を刷り込むような真似をしてまで、それを確かめるつもりはない。

 フランツがアッシュブロンドの長髪を掻き上げた。そんな仕草を見てメファーナは、肩から下がる自分の髪の端にそっと触れてみる。金色をしたこの髪の毛は、クルーの大半を日系人が占めるこの艦ではやはり異質なのか。主観だが人目を引いているような気配がある。

 逆にこうしてフランツと一緒にいる自分に何となく落ち着きを感じるのは、彼が同じ欧米の出身だという事実が理由のひとつだろう。

 ひとつ……。ならば他の理由は? と訊かれたら、メファーナは迷うことなくこう答える。「彼は私の命を預けるに足る、極めて優秀な兵士だからです」と。

 フランツとの関係について、若い女性のクルーたちが根掘り葉掘り自分に探りを入れてくることがよくある。ときには好奇心に満ちるキラキラした瞳で。ときには嫉妬心に満ちるギラギラした瞳で。彼女たちから見れば、今のように一緒しているメファーナとフランツの姿は確かに仲のいい男女に映るのかもしれない。

 だが誓って言おう。少なくても現時点において、フランツに対して恋愛感情とされる類のときめきを、自分の胸中に見つけることは出来ない。

 フランツに対してかなり失礼なことを言っているが、それは彼にとってもきっと同じことだ。この瞬間だって、自分が日課にしている食後のメロンソーダと、彼が日課にしている朝のナルシズムタイムが、リフレッシュルームという場所でたまたま重なったに過ぎない。


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