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明けない夜明け(2)

「待てユイ早まるなっ。お前も知ってるだろう? 明美に辞書を持たせたら危険だ」

 健吾が危機迫る形相で説得に掛かるが、既にユイは戦術指南書なる分厚い書籍が数冊ほど重ねられたテント内の一角に人差し指を指し示した後だった。

「遅いっ」

「させるかぁっ」

 最終兵器妹の完成を全力で阻止するべく、最凶の武器をその手にしようと立ち上がる明美に向かって決死のダイブをぶちかます。

「きゃあ! 離してよこのヘンタイ」

 半ば押し倒す形になりつつ明美の両脚へしがみつき、健吾は懸命にこの暴君を抑え込む。

「それは出来ない相談だなっ。お前に辞書を持たせたら最後、ここは血染めの地獄と化す! 俺には兄としてそれを未然に食い止める義務があるっ」

「吹っかけてきたのはそっちのくせにぃぃ」

 ほふく体勢で戦術指南書の小山へと強張る腕を伸ばす明美。それを、彼女の体を上から羽交い締めにした健吾がガッシリと妨げる。わーわーきゃっきゃと奇声を上げながら享楽を貪る兄妹の姿を眺めてユイは、控えめに抱腹すると声を漏らして笑った。

 よしっ。我ながら上出来。

 健吾がゆっくりと体の力を抜いていく。すると明美もユイの笑顔を認め、表情を緩ませながらパタリと動きを止めた。

 明美、もしかしてお前もわざと……?

 もしそうだとするなら全くナイスな妹である。防衛省まで駆けつけてくれた件と併せて、明美に対する認識を改めてやらんでもない。

「楽しそうね二人とも」

 楽しくないっ、とまるで照らし合わせたかのようなタイミングで健吾と明美が同時に反論の意を示す。さすがは兄妹、息もピッタリだ。

 だが、ユイは美しい柳眉を微々と沈ませながら、やがてその微笑みを再び憂いの色に染めていく。健吾は目を疑った。

 また。何で。

 彼女の次のひと言が全てを物語る。

「家族っていいわね」

 さらに付け加えられた言葉は、

「私には――」

 消え入りそうな程に小さく、か細く、健吾にその先を聴き取る事は叶わなかった。

 意識に去来した問い掛け。

 ――ユイに家族はいないのか?

 言えるものか。

 言えるはずがない。

 不思議な直感があった。

 それはユイの、胸の奥底に巣くう未だ見ぬ禁忌に触れてしまうような気がした。いや、触れるなどと生易しい比喩では許されず、繊細な彼女の心に土足で踏み入ることになるかもしれない。恐らく明美も同じ懸念を思惑したのだろう、口をつぐんで視線を遁走させている。

 ユイは確かに強い女の子だ。一六歳という年齢がもつあらゆる常識と限界を、遥かに超越した意志の強さと覚悟の強さ。出逢ったときから肌に伝わってきた。まさに健吾の言葉を使うなら、それは自分たちとは理の質を決定的に違え、【蒼穹世界】のあるべき調律を討ち砕く「特別」という名の破調。この存在の強さこそユイだった。

 しかし健吾と明美は彼女と共有したこの一ヶ月余りの時間を通じ、その強さの向こうに隠された脆く儚い少女としての危うさを、僅かながらに感じ取れるようになっていた。

「ごめんなさい。何だか興を削いでしまったみたい」

「別にそんなんじゃ、」

「疲れたでしょ。今日はもう休みましょうか」

 健吾も明美も、それ以上は何も言えなかった。


 ミノムシになってしまった自分の身体を、もぞもぞと動かした。ダークグレーに彩られた分厚い表皮をもつ大きな大きなミノムシだ。

「んご」

 ミノムシをうごめかせ、頭を出す。ゆっくりとその瞼を押し上げた。

 ようは寝袋である。空間を支配する冷暗な静寂の中、テント内の床にゴロリと不精に転がる二つの寝袋。その片方が消灯時に与えられた健吾の臥所ふしどだ。

 それにしても、疲れているはずなのに変な時間に目を覚ましてしまった。夜明けなどまだ遥か遠い彼方だろう。

 掛けと敷きの隔たりが皆無に等しい二重の毛布が全身を抱擁し、素肌から蒸し上がる熱を外へ逃がさぬよう寝袋の内側に閉じ込める。健吾の躯幹には大量の汗霜が滲んでいた。就寝中の体温低下を防ぐ主旨ゆえの構造なのは承知しているが、大凡アウトドアに免疫のない人間からしてみればこれはかなりの苦行だ。

 うぅ、暑いのか寒いのかよく分からん。気持ち悪い。

 兎にも角にもまずは汗を拭き取るべきだと思い立ち、いそいそと寝袋から這い出る。ミノムシが脱皮した。入り口の隙間から微かに射し込む幽玄な月明かりが空気中に薄青色のヴェールを掛け、目前を遊泳する塵と埃を緻密に煌めかせる。月明かりと塵埃のカーテンを通過し、歯ブラシやタオルの入ったナップサックが放ってある一画に向かおうとして――方向転換。

 分かっている。覗き紛いな行為など褒められたものではない。しかし身の内から溢れ出るこの切望にはどうしても抗えなかった。

 ひと目でいい――、ユイの寝顔が見たい。

 音を立てぬよう如何にもな差し足忍び足でそっともう一匹のミノムシへ近寄って腰を落とす。

 長い睫毛。

 整った鼻筋

 小さな口許。

 そして透き通るような精白色の肌が、夜闇を纏わせて幻想的な麗貌を醸し出している。初めて視界に入れたユイの寝顔は、やはり年相応の幼さがあった。警戒心も敵愾心も全く存在しない彼女の無垢で健やかな表情。

 健吾は思わずふにゃあ、と顔を情けなく綻ばせた。

 やっぱすげぇ可愛いぃ。

 どんなに特別なことが出来たって、その前にユイは一人の女の子である。本来ならば、こんな表情をもっと見せてもいいはずだ。

“私は、確かに〈ジールヴェン〉でたくさん人を殺してきたけど”

 あの時の自分は頭に血が昇った状態で相手に気を回わす余裕などこれっぽっちもなかった。今思い起こしてみれば、この言葉を発した瞬間の彼女の表情は痛々しいほどに辛辣しんらつだった。強く握り込んだ拳を小刻みに震わせ、苦虫を噛みしめるようにぐっと何かに耐えていた。

 それは大きな罪の意識だったのだろうと漠然と悟る。

 街中に出現した〈ミシア〉のパイロットが死んだ時も。

 日本海の端で自衛隊ヘリが爆散し尊い命が消えた時も。

 未知なる力を発現し〈リンドエア〉を撃墜した時も。

 健吾たち兄妹を【暁世界】へ連れてきてしまった時も。

 ずっと彼女は悔いていた。それでも自らを省みず、兄妹の安否をいつだって気にかけてくれる。この事実を思えば思うほど、健吾の中でユイに対する慈しみと愛おしさがさらに大きく膨らんでいった。一六歳の少女が背負うには重すぎる。自分にその荷を少しでも分けてはくれないだろうか。

 自分が彼女の支えになってあげたい。

 ただひたすらに受け身を徹し、無償で与えられる愛情だけを求め、自分からは決して誰も愛そうとはしなかった滑稽で我が儘な青年の、それは確かな心証の変化であった。

 それにしても――。

 今から遡ること五時間飛んで一二分と三七秒。

「寝袋がこれと予備のもうひとつしかない。窮屈だけれど、片方は何とかして二人で使うことになるわ」

「何だって!」

「健吾。私と一緒は、いや?」

 むしろ大歓迎です。〈ジールヴェン〉のコックピットで身を寄せたあの感触を再び。

「ユイの躰、ぷにゅぷにゅしてとっても柔らかいよ」

「あぅふ。そこはダメだってばぁ」

 男の理性を揺さぶる甘い喘ぎを漏らした一六歳の少女が、躰を這う青年の指先に官能を覚えて妖艶な曲線をビクンと反らす。ひとつ寝袋の中で寄り添う健吾とユイ。

「声を上げると明美が起きちゃうだろ。でもホラ、風邪は引かないように、しないとな、んしょ」

 窮屈な中で健吾は体をくねらせると、辿々しく不器用な手つきでユイの肢体に触れて彼女の造形を確認する。

「ひゃぅ。もう、健吾のえっち」

 大きな瞳を涙で湿らせて、頬をもぎたての桃のように染め上げたユイが、健吾の躯幹に両腕を絡めてくる。思わず彼女の背筋に腕を回して強く抱き寄せた。

「ぁ……ん」

 異性とからだを絡め合う至上の快感。正気を狂わす喜悦が鋭敏な電撃となって全身を駆け巡り、あらゆる性感帯の感度を跳ね上げる。

「あっ……! ぅ」

「ユイぃ」

 お互いの姿を潤んだ両の瞳に映す。やがて腕の中でユイは健吾の胸板に顔を埋め、恋人と共にある幸福を微笑みに讃えながら上目遣いでこう囁くのだ。

「健吾の心臓の音が聴こえる。とくんとくん、て」

「か、可愛すぎるっ! もう我慢出来ん。俺はお前が――っ」

 脳が溶けてしまいそうなアホ妄想がいよいよ以てフルスロットルを掛けようかという時、憐れ健吾の意識はここでぶつ切りになった。いや正しくは“された”。鼻の穴を卑しく全開にした彼の顔面に、凶悪な殺傷兵器と化した戦術指南書の角がめり込んで来たからに他ならない。

「大丈夫だよユイ、あなたの貞操は私が必ず守ってみせるから」

「あ、ありがとう明美。言ってる意味がよく分からないけど……」

 どうか軽蔑しないでほしい。脳内でユイのキャラがやたら違う事にも突っ込みを入れてはいけない。下手なエロマンガみたいな、好きな女の子との甘くていやらしい妄想とは男なら誰だってするものなのである。

 妄想、もとい回想終了。

 寝袋の中、愛しの姫君であるユイの背中にその身を預けているのは、何を隠そう只今絶賛爆睡中の我が妹だ。ねっとりとした手つきで右頬に残る生々しい流血の痕を撫で回しながら、健悟は明美の寝顔に羨望の眼差しを注ぐ。

 何て羨ましいやつなんだ。

 お互いの体温が熱を保つ為、彼女達の入った寝袋の毛布は一重に設えてある。僅かに空いた隙間からちらりと覗くユイの蠱惑こわく的な鎖骨と、その先にあるほどよい膨らみに富んだ柔らかそうな胸元へ、健吾の視線は釘付けになった。そのとき、明美がユイの感触を堪能するかのようにその首筋に頬擦りを――、

「ん……ふ」

 明美の行為に反応してユイが艶っぽい吐息を漏らした。

 っ!

 健吾は勢い勇んでユイの口元へ身を乗り出し、彼女の吐息を残さず自らの体内へ取り込もうとすーはーすーはー深呼吸。あぁ彼女に触れたい。

 そんな健吾を尻目に、明美は人間湯たんぽにしたユイを背中からぎゅっと抱き締めると、それはそれは気持ちよさそうに身をよじって満足げな笑顔のまま快眠を貪っている。

 見せつけかっ。生殺しかそうかっ。

 これはおかしい。明らかにおかしい。こういうラブコメ路線のイベントでは、そこは本来主人公である自分のポジションではあるまいか。こうなったら願掛けだ。私めもユイの体に触れたいです、と切実な願いを込め、まるで盲目的な信仰者のように指を絡めて天を仰ぐ。誰か俺に主人公補正を下さい。

 お断りです。

 そんなお告げを聞いたような気がした。

 切なくなったので汗を拭いてテントを出る。明美の羨ましさとユイのエロさに悶え狂いそうな自分を夜風で冷まそう。とはいえ、それで風邪を引いてしまうのは望ましくない。手にした上着を恰幅に羽織る。それが就寝前までユイの着ていたシルクジャケットなのは、自分を冷遇した神への囁かな反抗のつもりだ。

 柔らかくていい匂いが健吾の鼻腔を仄かにくすぐる。

 くんくん。

「ユイの匂い」

 女の子ってどうしてこう柔らかくて甘い香りがするのだろう。鼻の下を伸ばして顔をへにゃりと崩す。

 気温は低いが風は思ったほど強くなかった。ビスケットの屑みたいに見える石の群小が無作為に敷かれた荒れ地を、ザクザク音を立てて踏みしめながら歩いて行く。殺風景という言葉すら今は豪奢ごうしゃに感じられてしまうくらい、ここは砂と石以外に何も無い場所だ。

「戦争のせいなのか」

 自然と洩れた自分のその言葉を受け、敵NFAの強襲により命を落としかけた昨日の記憶が、シナプスが結合し得る限りの鮮明な解像度とリアルな感覚を伴って全神経に再生される。頭上の爆発が空気を侵して汚染する感触。押し倒され、視界を回転する天空。静と動の絶望的な差をこの身に叩きつける激震と激動。恐怖の迫間に顕現する巨大な力の胎動、青い光。

 ほんの一瞬、体だけをここに残して心が時間を跳んだ。

「よく無事だったもんだよな、ホント」


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