第四章・北の国
まずは、吐く息が白いことに気づいた。
周囲を見渡す。雪化粧をした山々が連なっている。
「……北の国」
プレヒズは呟いた。北の国には生まれてはじめて来たのだ。
「少し場所がずれてるわね……。私がエイシスとすれ違ったのはもっと先よ。移動しましょう」
少しめまいがするのか、頭をとんとんと叩きながらロアルが言う。
「わかった」
ロアルに先導してもらい、プレヒズは針葉樹林を横目に馬車道を歩き出す。
「さて、どうやって出会いを妨げるか」
「私の方の馬車が来る道に、何か障害物でも置けないかしら。それを従者が片付けるうちに、エイシスは通り過ぎて二度と会うこともない、と……」
しばらくプレヒズは思案したが、結局ロアルのその案が簡潔で良い気がした。ここの馬車道は狭く、一台が通るのもやっとという幅しかない。
「そうしよう。あとは障害物をどうするかだが……」
そんなことを言っていると、目の前に十字路が見えてきた。その向こうから一台の馬車が走って来るのが見えた。
「なぁ、あれを借りるのはどうだ」
「見ず知らずの人に貸してくれる酔狂な人がいるとは思えないけれど」
――確かに、それはそうだ。自分ならしないだろう。
と思っていると、その馬車に近づく別の馬がいることに気づいた。
「騎兵隊か?」
見ていると、その二人乗りの馬は馬車の前に回り込み、止めさせた。
次に、乾いた破裂音が聞こえてきた。
――銃声だ。
戦場にいたプレヒズには嫌というほど聞き覚えのある音だった。距離が遠いので音が抜けるのだ。近いと、もう少し湿った音になる。
「えっ」
驚いて硬直してしまったロアルを抱え、プレヒズは近くの木の陰に身を隠した。
眺めていると、馬から降りた男のひとりが馬車の荷台から男を引きずり出し、銃床で殴りつけたのが見えた。
「やばいな」
あれは野党だ。金目のものを奪ったら、残りの目撃者を消すつもりだろう。死人に口なし、という言葉を強く信望している奴らだ。
野党は御者に銃を向けていた。
「ロアル、ここで待っていろ」
プレヒズは言うと、無策だったが木陰から出て馬車の方に走っていった。
「あそこに行くつもり?!」
声がしたので横を見ると、ロアルもプレヒズを追って隣まで走ってきていた。
「おい、俺は待っていろと」
言いかけて前に目を戻すと、野党たちもこちらに気づいたようだ。しかし、なぜか慌てたように馬に乗ると、そそくさとその場を離れていく。プレヒズとロアルが馬車のもとに着く頃には、もう影も見えなくなってしまっていた。
「……なんでだ」
プレヒズは呟きつつ、御者に近づいた。
「大丈夫か」
言うと、その男は目をぱちくりさせた。
「あれ……お二人は兵士じゃないのか」
プレヒズはそこで自分の恰好を見る。確かに、軍服は着ている。はっとしてロアルの方を見た。彼女も、町で買ったミリタリー・ジャケットを着ている。野党が逃げた理由がわかった。遠目からだと、巡回中の二人組の兵士が向かってきているように見えたのだろう。
「ねぇ、プレヒズ」
そこでロアルに声をかけられた。振り向くと、彼女は意味深な目線で止まった馬車を指した。
「そうか、障害物……」
ロアルの言わんとしていることがわかった。
「運転できるか」
「ええ」
プレヒズはまだぼんやりしている御者の肩を掴むと、声をかけた。
「なぁ、この馬車を借りてもいいか。いや、返せるかは保証できんのだが……」
「え? あ……もちろん。命の恩人ですし」
話が早い。しかし。
「ロアル……俺はもう一人の方の様子を見たい。ひとりで行けるか……?」
プレヒズは銃床で殴られて倒れ込んでいる男の方を指さして言った。
「ええ。後で合流しましょう」
「すまんな。あと、これも借りていいか」
プレヒズはそう言って御者の付けているマフラーを取ると、ロアルの方に投げた。
「これで顔を隠せ」
「ん。わかった」
ロアルが馬車を転回させる間、プレヒズは男のそばに行った。側頭部から出血しているが、それは問題ない。脳震とうか何かを起こしていなければいいが。
そんなことを考えつつ男を仰向けにしたプレヒズは、息を呑んだ。
思いがけぬ……そしてどこか予想していた顔に迎えられたからだ。
その衝撃で、ロアルの乗った馬車が走り去る音さえも聞こえなくなった。
その男は、先ほどまで話をしていた人物……“ベイル”だった。
“過去の”ベイルは、か細い息をしながらプレヒズの方を見た。正確に言うと……本人の口から聞いたように、見えてはいないのだろうが。
「……その者。よく聞け。お前に今からある力を渡す。驚かず聞いて欲しいのだが……」
もちろん、プレヒズは驚かなかった。
クロック・マンの能力も、それが譲渡可能なことも、これから何が起きるのかも、全て知っていたからだ。
ベイルに額に手を当てられ、何か温かいものが流れ込んでくるのを感じた時も、プレヒズは全くもって冷静だった。
考えているのはただひとつ、星空舞踏会で聞いたクロック・マンの声に聞き覚えがあったことだった。
その理由は至極簡単で、それが毎日のように聞いている自分の声に他ならなかったからだ。
その後も自分でも驚くほど平静を保ったまま、ベイルの応急処置を終え、ロアルの元へと向かった。しばらく歩いていくと、その先の十字路で立ち往生している馬車を見つけた。後ろの馬車から降りてきた小男が、何やら怒鳴っている。
「貴様! この馬車列の中央には東の国の姫、ロアル様が乗っておられるのだぞ! さっさとどかんか!」
“未来から来た方”のロアルはマフラーで目元まで隠し、言葉が通じないふりをしている。プレヒズは近づくと、その男に声をかけた。
「すいません、今どかしますんで」
「貴様……その軍服。我が国の兵士か。どこの部隊の者だ? もどったら首にしてやる」
――もう既に無許可離隊しているのだが。
内心で苦笑しつつ、頭を下げた。
「少しお待ちを」
その時、ロアルと目くばせをした。どうやら、もうとっくにエイシスの馬車列は行ってしまったらしい。頷くと、馬車に乗り込んだ。
「まったく」
小男はぼやきながらも自分の馬車の荷台に乗り込んだ。
プレヒズたちの馬車は先導するような形で道を先行し、十字路で脇に避けた。
“過去の”ロアルが乗った馬車列が通り過ぎていく。途中、小男がプレヒズたちの方を睨みつけてきたが、それもやがて見えなくなった。
「……変わったの、かしら」
御者台から降り、マフラーを外したロアルがぼそりと呟いた。
「ああ」
プレヒズはそうとだけ答えた。
しばらくすると、景色が歪みはじめた。プレヒズは時計を見る。もう三時間が経ったのだ。
――現在へ戻ろう。
そこで待ち受けているものが、なんであれ。
* * *
「おう、おかえり」
気づくと、またベイルの家だった。
お茶をいれたベイルが、カップを二人の前に置く。
「で……戦争はどうなったの」
ロアルが勢い込んで尋ねる。
「戦争……? はて、なんのことかな」
ベイルがウィンクした。
「なかったことに……なったのね」
それを聞いて、ロアルはへなへなと椅子に座り込んだ。彼女は少し震える手でカップを持ち、お茶を一口飲んだ。ようやく重荷から解放され、一息ついたのだろう。
「あなたは……改変後も連続した意識を保てるんですね」
プレヒズが言うと、ベイルは頷いた。
「クロック・マンに一度でもなればな」
「ちょっと訊きたいんですけど、その場合……。あなたがもしまだクロック・マンだとして、過去に戻ろうとした時、戦争が起きた世界と起きなかった世界のどちらの過去に行けるんですか?」
「あぁ、それはその両方だ。クロック・マンにとっては当人に意識や記憶があったり、一度でも行ったことのある世界へと行けるのさ。改変をやっぱりなかったことにしたくなった時なんかのために、神サンがそういう能力にしたんだろうよ」
「なるほど……」
「ところで俺からも訊きたいんだが、お前さん、やっぱり……」
プレヒズは首を振り、その先を遮った。
ベイルは不思議そうな顔をしたが、しばらくすると心得たのかプレヒズの肩を叩いた。
「これから大変だぞ」
「ええ」
(つづく)