第三章・クロックマン
リリー・グラウンドまではバスもないようだった。ふたりは村の商店で気だるそうにしている店主から周辺の地図を買った。村からそれなりに距離がありそうだった。
「ロアル、歩けるか」
「もちろん。余裕よ」
「駄目そうなら遠慮なく言えよ」
プレヒズはロアルの強さに甘えてリリー・グラウンドまで歩くことにした。先ほどバスで仮眠をとったとはいえ、一日中動いているのだ。彼女が疲れていないはずがない。車か、せめて馬車でもあればいいのだが。
ふたりは東門を抜け、先ほど降りたバス停の傍らを通り、クロック・マンの家を目指す。しばらく行くと、家もまばらになり、ついに舗装された道もなくなった。地平線までつづく草原の、道なき道を歩いていく。空には奇妙な雲が浮かび、その合間から何筋もの光が挿し込んでくる。プレヒズが時計を見ると、午後だった。一日が長く感じ、時間の感覚を失いつつあるような気がした。
「王様は今頃、怒ってるか」
プレヒズは地平線まで続く草原を歩きながらロアルに問う。
「かもね。ゲリオス男爵が言いつけてれば」
さくさくと青い草を踏みつけ、何事でもないかのように彼女は答えた。
「俺はともかく、ロアルはまずいことになるかな」
「私はきっと平気。だってお姫様だもの」
プレヒズはロアルのその言い方に何か引っかかるものを感じた。
「どうした」
プレヒズは立ち止まってロアルの方を見る。彼女も立ち止まった。ふたりの間の青草が風に揺られて、さらさらと音を立てた。
「もちろん王様はね、国のお姫様としての私は大好きよ。でも、娘としてはどうでもいいのよ」
「そんなことない、と言いたいところだが、実際のところは知らないしな」
「娘のことを考えたら、あんな舞踏会に閉じ込めないわ」
「君のためを思ってかもしれない」
「だとしたら、私のことを知らなさすぎね。私はあんな場所で閉じ込められているよりも、今みたいに外で冒険している方が……」
その先に何を言おうとしていたかはわからないが、そこでロアルは俯き、口をつぐんでしまった。
「そうか」
プレヒズがそれだけ言うと、ロアルは顔を上げ、さっきとは打って変わった様子で
「さ、行きましょ」
とだけ明るく告げた。
ふたりは雲まで届きそうな巨大な風車が立ち並ぶ草原を歩く。風車の羽根車は動いていなかった。大きすぎて、少しの風では動かないのだろう。こんな辺鄙なところにあるのを誰が管理しているのだろうか、とプレヒズは思った。
しばらく行くと、だだっ広い草原の真ん中に、赤い屋根の小さな家があるのが見えた。
「あれがリリー・グラウンドね」ロアルが呟いた。
「住むのには向かないな」
プレヒズはそう言うと、家に近づいていった。
ペンキの禿げた木製の扉をノックする。
「入れ」
中からくぐもった声が聞こえた。
拍子抜けするほどあっさり出迎えられたことで、プレヒズは一瞬、家を間違えたかと思った。しかし、そんなはずはない。付近に他に家はないのだ。
「お邪魔しまーす」
躊躇している間にロアルが中に入っていく。慌ててプレヒズは後を追った。
家の中は質素で、物は多いが整頓されていた。壁には農具が掛けられている。そして見渡す限り、時計は一個も置いていなかった。
「クロック・マンさん?」
椅子に座っている男にロアルが訊く。
男は五十代ほどで、髭面だが整った顔立ちをしていた。手元で何かの種の選別をしている。
「そう呼ばれていた時期もあったな。正確に言うと、俺は元クロック・マンだ」
「元?」
意外な言葉だった。思わずプレヒズは訊き返した。
「ああ。時を操る能力を持っていても、人は人だ。やがては老いて死ぬ。神は――そんなものがいればの話だが――この能力を絶やしたくはないらしい。だから、人から人へと受け継ぐことができるようにした。俺はもう能力を別の奴に譲った。今はただの人間だ」
「クロック・マンというのは一人じゃなくて……今まで何人もがその役割を受け継いできたのか」
プレヒズは驚くと同時に、失望していた。
目の前の男は、自分たちが求めていた“時を操る能力”を既に持っていない。
「待って、貴方……」
ロアルが何かを言おうとしたが、男に遮られた。
「ベイルだ」
「え?」
「俺の名だ。元クロック・マンでも、名前くらいはある」
「ベイル。私たちはクロック・マンを探しているの。彼に会って時を戻してもらって、戦争を止めなくてはならない。居場所は知ってる?」
ベイルは首を横に振った。
「いや。数年前、俺の乗った馬車が野党に遭って死にかけていた時、助けてくれた男がいた。俺はそいつが善の心を持っていると直感で確信し、そいつにクロック・マンの能力をその場で伝承した。だから名も、もっと言えば、ろくに顔も見ていない。血が目に入っていたんでな。居場所なんてもってのほかだ」
――つまり、ここまでクロック・マンを追ってきたのは無駄足だったということか。
プレヒズとロアルは肩を落とした。
「だが、な」
そこでさらにベイルが続けた。二人は顔を上げた。
「俺にはあと一回だけ、時を操る力が残っている。能力の残り香のようなもので、一回使えばそれっきりだ。お前らが戦争を止めるというのなら、過去に遡らせてやろう」
「本当か」
プレヒズは身を乗り出した。
「ああ。一回きり、それも三時間だけ。それに俺は錨としてこの時間に留まらなければならないが」
三時間。果たして、それだけの時間でエイシスの馬車がロアルの馬車のそばを通るのを阻止できるのだろうか。
「やるわ」
思案していると、ロアルが既に手を上げてしまっていた。
「確かに……やるしかないな」
そこでプレヒズは疑問をひとつ口にした。
「ベイルさん。時間は移動できても……場所は移動できるのか?」
「は。当たり前だろう。もし過去や未来への時間移動の際に場所そのものの移動を伴わないのであれば、この星の公転とずれてクロック・マンは宇宙に放り出されちまうからな。坊主、天文学は習わなかったのか?」
――いち兵士にはよくわからないが、そういうものなのだろう。
「つまり、貴方は私たちを北の国へと、距離を越えて移動させることもできるのね」
ロアルが問うと、ベイルはひとつ頷いた。
「そうだ。準備はできたか?」
どうやら彼の方はとっくに時間移動させる準備ができているらしい。
プレヒズの方はというと、あまり心の準備はできていないが。
「ええ。やって」
ロアルが言うので、プレヒズも頷いた。
「よし。正確な時間と場所を教えてくれ」
ロアルが送ってほしい日時を伝え、場所も指定すると、ベイルは意外そうな顔をした。
「それは。なるほど……」
「どうした」
プレヒズが尋ねると、ベイルはにやりと笑い、その首を振った。
「いや、何でもない。全く、この世は面白いよな」
そう言い終わると、彼は深呼吸をした。
「さて、久しぶりだからな。いくぞ。覚えておけ、三時間だからな。それを越えたら俺という錨がお前らを係留し、そのまま引っ張り上げる。時計ではかっておけ」
プレヒズは軍用の腕時計で三時間のタイマーをセットした。
「手をつなげ」
ベイルに言われ、プレヒズとロアルは顔を見合わせた。
「その方が確実に時間差なく送れるんだ。だから、恥ずかしがってないで手をつなげ」
言われ、プレヒズは彼女の手を握った。
「ちょっと。……汗ばんでるんだけど」
「仕方ないだろ、これから過去に行くんだぞ」
ロアルに言われ、プレヒズは言い返した。
「じゃあな、気張ってこいよ」
ベイルのその声が聞こえたと思ったら、プレヒズは周囲の風景がゆがみ、気が遠くなっていくのを感じた。
次に目覚めると、そこは過去だった。
(つづく)