第二章・仮面職人
プレヒズとロアルは会場の外に出た。
夜は明け、新たな朝が来ていた。会場前の埃をかぶった車の群れに、清潔で透明感のある光が降り注いでいる。やがてこの車たちも再び動き出すのだろう。
「なぁ、もう一度訊くけど、エイシスと結婚するわけにはいかないのか」
とりあえず会場から離れつつプレヒズは尋ねた。
「それは……」
ロアルは少し苦しそうな顔をした。彼女は自分のせいで戦争が起きてしまったことを、今まで悔いてきたのだろう。この一連の出来事は、少女の細い肩に背負わせるべき重みではなかったのではないか、とプレヒズはふと思った。
「そもそも、エイシスとはどこで知り合ったんだ」
プレヒズは話題を少し変えた。
「多分、三年前、北の国の避暑地で。たまたまお互いに滞在していた場所が近くて……。正確に言うと、お互いの馬車がすれ違った時が最初の対面だと思う。彼はそこで私の顔を見て覚えていたんだわ」
ロアルは歩きながら答えた。
「その一瞬でか。何てことだ、それさえ無かったら」
戦争はなかったのかも、と続けようとしてプレヒズは口をつぐんだ。これ以上、彼女に罪の意識を植え付けさせる必要はないと思ったからだ。
そこで、プレヒズにある考えが浮かんだ。
何の因果か隣を歩いている、東の国の姫に尋ねる。
「なぁ、もし過去が変えられたら? 馬車がすれ違うことがなかったら、どうなる」
突然の質問にロアルは立ち止まり、しばし考え込んだ。
「多分、エイシスは私の存在は知っていても、結婚を申し込むことはなかった……」
「ああ。で、この戦争は起きないだろう」
「でも、どうやって……」
そこまで言って、ロアルは今出てきたばかりの星空舞踏会の会場を振り返った。
どうやら、気づいたようだ。
プレヒズは彼女に向かって頷いた。
「時間を自由に行き来し操れる奴が、さっきそこの会場にいただろう」
「クロック・マン……」
「舞踏会はお開きになった。会場から奴が出てくるのを待とう」
しかし、クロック・マンは出てこなかった。
仮面を外し、くたびれた様子で去っていくゲストたちをプレヒズとロアルは噴水前に腰かけ見送っていたが、いつまで経っても当のクロック・マンは出てこなかった。
「会場に戻るか」
「そうね。もう男爵も諦めたでしょうし」
ふたりが会場に戻ると、給仕たちがテーブルを片付けているのが目に入った。音楽は止み、朝の陽ざしの中で豪華絢爛な照明やキャンドルは消されていた。
会場のど真ん中、シャンデリアの下にはワインを飲んでいるゲリオス男爵がいた。どうやら酔っているようだ。
「お前らのせいでなぁ、舞踏会はお開きだよ」
先ほどまでの慇懃な口調はどこへやら、呂律の回らない様子でふたりに声を荒げる。
「クロック・マンはどこに?」
プレヒズが尋ねると、何がおかしいのか男爵は鼻で笑う。
「去ったよ。あいつはな、時間を自由に行き来できるんだぞ? もうこの時間軸にはいないたぁ思わなかったのか」
言われてみればそうだ。クロック・マンが過去または未来に行ってしまっている可能性を考慮していなかった。
「どうすればアイツにまた会える?」
プレヒズが訊くと、男爵はワイングラスをいっきに空け、ロアルの方を向いた。
「それは知らねえが……。クロック・マンのあの仮面……懐中時計をかたどったヤツ。ああいう凝ったのを作れるのは、オットーのところだけじゃないかと踏んだがなぁ」
「確かにそうね」
ロアルが答える。
「だろ」
そう言うと、もう話すことはないと言わんばかりに、男爵は手でふたりを追い払う仕草をした。
「オットーって誰だ」
再び会場の外に出たプレヒズはロアルに尋ねた。
「一流の仮面職人よ。さっきの舞踏会の、顔から剥がれなくなるやつみたいな、特殊なものを専門に作ってる。確かに、クロック・マンのあの凝ったマスクは彼の作ったもので間違いないでしょうね。居場所を知っているかも」
「俺はてっきり、本当にアイツの顔は時計なのかと」
「そんな訳ないでしょ。人だもの」
「うーむ。ただの人間が時間を好きに操れるものなのか」
「確かにそれはそうね。彼の能力については分からないことが多いわ」
「果たして戦争を食い止めるのに協力してくれるのか、というのもな」
喋っていると、いつの間にかバス停前まで来ていた。昨日、プレヒズが降りてきたバス停だ。
一日で色々なことが起きるものだ、と改めてプレヒズは思った。
「私、バスに乗るのって初めてかも」ロアルが呟いた。
「かも、って何だ。初めてなんだろ」
プレヒズがそう返すと、ロアルは少しだけ顔を赤くしてひとつ頷いた。
「……別に世間知らずなのは恥ずかしいことじゃない。特に、お姫様とあればな」
「そういうものかしら」
「俺だって王族の社会については何も知らない。人生の領域の違いだ。それによって知っておくべきことと、そうでないことが違うんだよ。きっと、お前は俺が宮廷作法を知らないことで笑ったりはしないだろ」
「……ロアルで」
「は?」
「なんか、お前って呼ばれるのは嫌だわ。名前で呼んでよ」
「そうか。じゃあロアル、俺にもオットーがどこに住んでいるか教えてくれ」
「え。えーっと、ゾアニリスという村よ」
「ふむ。そこに行くバスが来るまで一時間以上はあるな」
プレヒズがバス停の時刻表を指さすと、ロアルは眉をひそめてそれを見つめた。見方がわからないようだ。
「……そうだな。知っておいて損はないだろうし」
そう言うと、プレヒズはロアルに時刻表の見方を教えた。一国の姫であるロアルが、今後バスを使う予定があるかは不明だが。
「……なるほど、意外と複雑なのね」
「路線によって停まる場所が違うから気をつけろよ」
その後、まだ時間があったので、ふたりは町の古着屋でロアルのための服を買った。彼女がまだ舞踏会用のドレスのままだったからだ。ロアルにはワンピースと、男物だがサイズがぴったりだったので軍の横流し品らしきミリタリー・ジャケットを買って着させた。お姫様が舞踏会場を抜け出したとなると捜索の手が伸びるかもしれないので、それを避けるための目くらましでもあった。
「勝手に会場を出てクロック・マンに会いに行くなんて知ったら、お父さんは怒るかもな」
バス停に戻ってきたプレヒズは言った。
「でも、戦争を止めるためだし……」
なぜか拗ねたようにロアルが答えると、丁度ふたりの目の前に二階建てバスが止まった。お目当ての路線のバスだ。行先を告げてふたりが乗り込むと、中はガラガラだった。
「私、一晩中あの舞踏会にいたから、疲れたわ……」
そう言ってロアルは席に着くとすぐに眠り始めてしまった。正確には一晩ではないのだが、あの会場にいた者にとっては一晩ぶんの疲れしかないのだろう。改めて、プレヒズはクロック・マンの能力の不思議さについて思いを馳せた。
そして、そのうちにプレヒズも眠り込んでしまった。
「お客さん、ゾアニリス東門ですよ」
プレヒズは車掌に肩を揺さぶられ、眠りから覚めた。バスは止まっていた。通路にはもうロアルが仁王立ちしている。窓の外は白かった。霧だ。
「いつまで寝てるの。行くわよ」
「俺だってあの舞踏会のせいで一晩中起きてたんだぞ」
プレヒズとロアルは料金を払うとバスを降りた。目の前には大きな門がある。その中がオットーの住む村なのだろうが、霧のせいでよく見えなかった。
「今、何時だ……?」
「多分、夕方くらいじゃない?」
時間の感覚も、霧のせいで方向感覚もないままにふたりは門を抜けて歩く。しばらくすると、何やら複数人が言い争いをしているような声が聞こえてきた。何となく、そちらへと向かう。
見ると、村の広場のようなところで、老人が柄の悪そうな若者たちに囲まれていた。
「だからぁ、防弾性の仮面が必要なんだよ。うちの賊長が作れって何回も頼み込んだよなぁ? それを無視か、え?」
そう言って男が老人の襟首を掴んでいる。老人は何事か弁明しているようだが、声はくぐもってよく聞こえない。
「ひでぇな。ロアル、ここで待ってろ」
プレヒズは大股で男に近づくと、無理矢理に老人から引きはがした。
「なんだ、てめぇ」
男が気色ばむ。霧のせいで遠くからだとよく見えなかったが、なかなかに強面だ。男からは汗の酸っぱい臭いがした。
「えーと、やめましょう」
プレヒズは穏便にことを済ますことに決めた。こんなところで揉めても良いことはない。
「うるせぇな」
そう言って男が拳を放ってきた。
プレヒズはそれを避け、右の手のひらを男の顎に打ち付けた。男が崩れ落ちる。
周りの若者はそれを見て後ずさりした。何が起きたのか分からなかったのだろう。
「やめよう」
プレヒズがもう一度言うと、若者たちは慌てたように気絶した男を抱えて走り去っていき、やがて霧の中へと消えた。
「すごいわね」
ロアルが近づいてきて呟いた。騒ぎの間、霧の中に隠れていたらしい。
「顎を強く打つと、梃子の原理で脳が揺れて失神するらしいんだ」
プレヒズは説明した。戦友だったオーウェンから聞いたことだ。
――オーウェン。
あいつも、戦争が起きなければ死なずに済むのだろう。
「君、助かったよ」
話しかけられ、意識を戻す。
恫喝されていた老人だった。近づいてきてプレヒズの手をとる。
「危ないところだったよ」
「大丈夫なのか」
プレヒズは老人に尋ねる。
「うむ、平気だ。ところで、恩人である君を家に招待したいのだが、ぜひ来てくれないか。美味しいお茶があって……」
「招待をお受けしたいが、申し訳ない。俺はオットーという仮面職人に会いに行かなくちゃならないんだ。彼女の都合であまり時間もないし」
プレヒズはロアルの方を指して言った。すると老人は目をぱちくりさせ、愉快そうに微笑んだ。
「ほほう、なんと奇遇なことだ。私がその仮面職人のオットーだよ」
オットーの家は居心地のよさそうな煉瓦造りで、村の外れにあった。軽い自己紹介を終えたふたりは家に隣接している工房を通り抜け、オットーに勧められるまま木製のテーブルについた。
「将来はこういう所に住みたいわね」
ロアルはそう言って、椅子に座りながら家の中を見まわした。
「霧が多いのが難点だがね」
そう答えながら、オットーが紅茶を乗せた盆を持って戻ってきた。それぞれの前に、カップが置かれていく。
「さて、君たちはなぜ私に会いに来たのかね?」
椅子に座ると、オットーはじっとプレヒズの方を見つめた。
「クロック・マンをご存じですか」
「もちろん。神はなぜあんな力を人に与えたのかと思うよ」
「俺たちはそのクロック・マンに会いたくて。で、彼の仮面を作ったアンタに訊けば分かるかと思ったんだ」
プレヒズが説明を終えると、オットーは持っていたカップを置いて眉をひそめた。
「いや……私はクロック・マンの仮面なんて作っていないが」
それを聞いて、今度はプレヒズとロアルが眉をひそめた。
「え。でも、あんな仮面を作れるのは貴方くらいしか思いつかないわ」
「ふむ。私もそう思う。ただ、私と同等の腕を持つ職人が他にいるのかもしれん」
「そう思いますか」
ロアルが訝るような目を向けると、オットーはにやりと得意げに笑った。
「いや、思わんな。私ほどの腕の者がいたら、私自身が知っておる」
では、一体クロック・マンはどこであの仮面を手に入れたのだろうか。プレヒズはお茶をすすりながら考えた。ここに来れば何か分かるかもと思っていたが、謎が増えてしまった。
「しかし、だ。クロック・マンの居場所は知っているぞ」
「え」
半ば諦観の境地にあったふたりは、思わぬ言葉を聞いて前に乗り出した。
「以前にゲリオス男爵の晩餐会に招かれた際、一度そこにいたクロック・マンと話をしたことがあるんだ。その時の奴は仮面など付けていなかったが、家が近いっていうんで何かあったらよろしくって話になった。確か、この村から少し行ったとこにあるリリー・グラウンドって辺鄙な場所にひとりで住んでいるはずだ。行ってもいるかは定かじゃないが」
「もしかしたら、別の時間軸にいるのかもしれないんですね」
ロアルが尋ねる。
「そうかもしれぬ。でも、この世界に自分の家に代わる場所はないだろう。待っていればそのうち帰って来たクロック・マンと会えるやもしれん」
ふたりはお茶を飲み干すとお礼を言って、オットーの家を去ることにした。
「お邪魔しました」
ふたりが言うと、玄関口でオットーがにこやかに手を振った。
「クロック・マンに会えるように願っているよ。そしてプレヒズとやら、君は恩人だ。もし作ってほしい仮面なんかがあればいつでも言いなさい」
「もし仮面が必要になるようなことがあれば、そうですね」
正直いってあの舞踏会でもう仮面はこりごりだったが、一応そう答えた。
そうして、プレヒズはロアルと共に霧に包まれた家を去った。
(つづく)