第一章・星空舞踏会
上官の無茶な突撃命令で戦友のオーウェンが死んだとき、プレヒズは軍を辞めようと思った。しかし、その前にやることがひとつ残っていた。
突撃命令を出した上官のカエルは無能の体現者のような一匹で、特注の小さくぴっちりとした軍服を着こなし、後方の安全な野営地に立てこもっていた。彼は兵士を盤上の駒としか考えておらず、しかもその駒は毎日、自動的に補充されるものと思い込んでいるようだった。
翌日、ガンドラ橋をめぐる攻防戦で珍しく上官が前線へ顔を覗かせていることに気づくと、プレヒズは小銃を手にそのカエルの後ろにまわり、背後から撃ち殺した。
「狙撃手! 狙撃手!」
プレヒズは叫ぶと、橋の向こうにある尖塔を指さした。自軍の一小隊がその尖塔へと執拗な掃射を加えると、塔は次第に削げていき、最後には骨組みだけが残った。
もちろん、狙撃手は見つからなかった。
その夜、プレヒズは野営地から抜け出すと、軍を無許可離隊した。近くの村で二階建てバスの定期便を拾い、首都へと逃げ帰ることにした。
戦争は彼から大切なものを根こそぎ奪いとり、その代わりに何一つ与えてよこさなかった。
「お客さん、ここまでですよ」
肩を叩かれた。バスは止まっており、プレヒズの傍らには思慮深そうな目をした幽霊の車掌が立っていた。
車窓から流れる景色を見ていたら、いつの間にか寝ていたらしい。
「ここは?」
プレヒズが尋ねると、ロッテンハウス近郊だと言われた。
「首都のすぐ近くの街です。歩いて行けますよ」
「そうか。ありがとう」
プレヒズは軍服のまま、小さなナップザックひとつを背負って道端に降り立った。深夜に抜け出してからどれほど時間が経っていたのか、時刻は昼過ぎだった。彼は舗装された道を二階建てバスが億劫そうに走り去るのを眺めた。
プレヒズはきょろきょろと辺りを見回すと、とりあえず町の栄えている方へと歩き出した。
べち、べちべちべち。
そんな音と共に、灰色の路面に黒い円が無数に広がってゆく。
通り雨だ。
濡れて凍えた身体を抱えて、プレヒズはとある店の軒先へと避難を余儀なくされた。店のショーウィンドウには大量のランタンが置いてあり、その優しい灯りが通りにまで逃げ出していた。目の前の看板には新発売の懐中時計の広告がのっている。貧乏な元・兵士には無用の代物だ。
「腹が減っているか、若いの」
ふと隣を見ると、銀色の髪をした青年が立っていた。美しい、中性的な顔立ちをしている。彼も十分に若く見えた。
「確かに腹は減ってるけど」
プレヒズはとりあえず答えた。過不足ない返答だと自分では思った。
「なら、星空舞踏会に行ってみるといいだろう。あそこに忍び込めば、ただで飲み食いし放題だ」
青年はそう言って、街の中心にある大きなドーム状の建物を指さした。
「ありがとう。でも招待状がないんだ」
プレヒズは肩をすくめた。すると、その青年は手持ちのカバンを探ると、ひとつの仮面を取り出した。鳥をかたどっているのか、鼻の部分がくちばしの様になっている。
「この仮面が招待状代わりだ。ドレスコードは気にしないでいい、そのままの恰好でも入れるだろう」
青年はプレヒズの手へ無理矢理に仮面をねじ込むと、そのまま雨の街へと小走りで消えていった。
確かに、昨日の夜から何も食べていない。
雨が小降りになってきたので、プレヒズはだめ元で星空舞踏会とやらへと行ってみることにした。
ドーム状の天井を持つ会場前に来ると、雨が止んだ。エントランス前の円形の車止めには、多くの車が停まっていた。すべて高級車だ。だがしかし、そのどれもなぜか埃をかぶり、値段の割にはみすぼらしく見えた。
大きなアーチをくぐり、中庭に入ると、途端にあたりが暗くなった。また雨でも降るのかとプレヒズが空を見上げると、そこには星空が広がっていた。無数のきらめきが妖しく瞬く。
――いつ間に夜になった?
そう思いつつ腕時計を見やると、電池が切れたのか、はたまた壊れたのか止まってしまっていた。軍用の耐久性の高い時計なのにな、と不審に思いつつ歩みを進める。遊歩道の上には、いくつものランタンがかかっていた。そのまま歩き続けると、虫の声に混ざって男女の楽しげな笑い声が聞こえてきた。
――ここだな。
会場入り口まで来ると、プレヒズはナップザックから取り出した仮面を着けた。改めて見てみると、カラスがモチーフであることがわかる。プレヒズは入り口の脇に立つ二人組の男に会釈をした。その二人はベストを着て昆虫のような仮面をつけていた。
「すいません。ゲスト以外の方は……。あ、失礼しました」
男の一人がプレヒズを止めようとしたが、仮面を見て口をつぐんだ。
プレヒズはボロを出さないために何も言わないでおこうと、もう一度だけ二人組に会釈すると入り口をくぐった。
中に入ると、そこはまさに豪華絢爛だった。
大きな円形ホールには温かい光が満ちて、天井から下がるシャンデリアがそれを増幅させていた。高級そうな服と仮面を着けた男女が談笑し、金色のテーブルの上にはおいしそうな料理が大量に盛り付けられている。抑えた控えめな笑い声と、食器が触れ合う上品なかちゃかちゃという音が重なり、耳に心地よかった。近郊で未だに戦争が繰り広げられていることを忘れてしまいそうだった。
プレヒズは自分が場違いな気がしたが、特にたしなめる者も嘲笑する者もいないようなので安心した。仮面が匿名性を高めているのだろうか。同じく仮面をつけた給仕が近づいてきてプレヒズに飲み物を勧めたが、丁重に断った。あまり酒を飲む気分ではなかったからだ。
腹は減っていたが、ここでがっつくのもふさわしくない気がしたので、食事は控えめにとった。そのまま舞踏会場を見て回る。ドーム型天井の真下では音楽が流れ、多くの男女が踊っていた。これを一晩中続けるつもりなのだろうか、とプレヒズは訝しんだ。
そこで、彼はひとりの少女に目を留めた。年の頃は二十代くらいだろうか。会場の端っこの窓際で、踊るわけでも誰かと話をするわけでもなく、ひとりぼっちで佇んでいる。仮面越しにもわかるその美しさに、プレヒズは束の間、見惚れてしまった。星でさえ、彼女の前では輝くのをやめてしまいそうだ。
「ロアル嬢ですな」
気づくと、隣に恰幅の良い男が立っていた。鳩の仮面をかぶっている。
「おっと、失礼。私はゲリオスと申します。爵位はいわゆる男爵ですな。ここの主催です」
手を出されたので、仕方なくプレヒズは握手した。その時、仮面越しに自分を値踏みするような目が覗いたのがプレヒズには気に入らなかった。だがしかし、この舞踏会の主催者であるからにはぞんざいな対応をするわけにもいかない。
「どうも。俺はプレヒズと言います。彼女はひとりみたいですね」
「みな、近寄りがたいのですよ。なんせ、エイシスの求婚を断って戦争を引き起こした張本人ですからな」
元兵士だがそれは初耳だった。
「戦争を? あれはオキシバラント鉱石を巡って起きたものとばかり」
「体面としてはそうですな。資源戦争と偽っていますが、実際は西の国の王であるエイシスが我が国の姫であるロアルに求婚を断られ、そのはらいせに起こした戦争ですぞ」
なんてことだ。一介の兵士には知る由もない情報だった。
プレヒズは、自分が参加していた東西戦争は東の国と西の国が中間地点にあるオキシバラント鉱石を巡って起きたものと思っていた。まさか、西の国の王の求婚を我が東の国の姫が断っていたからだったとは思いもよらなかった。
そんなくだらないことの為に何千もの兵士が死んだのか。真相を知ってプレヒズは怒るよりも先に呆れてしまった。力が抜ける。隣にゲリオス男爵がいなければ乾いた笑い声さえ出していたかもしれない。
もし二人が婚約をしていれば、この東西がひとつになった可能性もあったというのに。そうしたら、新たな発展もあっただろう。
「なるほど。彼女はここで何を?」
表面上は冷静を装って男爵との会話を続ける。
「クロック・マンをご存じですかな」
急に何なのだろう。プレヒズは黙って先を促した。
「時を自由に司る存在、伝承の類いと言われておりますが、実際には違う。実存する。我が東の国の王はロアルの意思を尊重し、結婚を断った後、エイシスの目を逸らすためこの場所に彼女を隠しておるのですよ」
クロック・マンの話はどこに行ったと言いたくなるが、骨子は理解できた。この上流階級向けのパーティーの中で、仮面という匿名性を纏わせ、彼女をエイシスから匿っているのだ。
「さて、私は別の場所を回ってきますので、ここで失礼しますぞ」
そういって懐中時計を見ると、男爵は去っていった。プレヒズはロアル姫とやらを近くで見たくなったので、会場の端をぐるりと回って彼女に近づいていった。
彼女は窓を開け、外のテラスに出て行った。プレヒズもそちらへ向かう。
外は涼しく、静かで、会場の喧騒も一枚の膜を隔てたところから聞こえてくるようだった。テラスの床に、会場から漏れた明かりが反射している。遠くには黒々とした山々が見え、その向こうでは今夜も砲火が上がっているのだろうと思わせた。
プレヒズはロアル姫に背後から近づいた。
「よぉ、アンタ。アンタのわがままで人がたくさん死んでるのは知ってるか?」
初対面の相手に、思わず語気荒く尋ねてしまう。
彼女が驚いたように振り向いた。仮面越しの目は戸惑いを映していた。
「エイシスとやらと結婚すればいいじゃねえか。そしたら戦争なんてしなくても済むんだ」
彼女は尚も驚いたように口を開けたまま、返事をしない。
「どうした。喋れないのか」
プレヒズが怪訝な目で尋ねると、ようやく彼女はか細い声で返事をする。
「いえ。ただ、人と話すのが久しぶりで……」
「そうか。で、俺の質問への答えは」
「え?」
「エイシスとやらと結婚してやれば、戦争は終わるんじゃねぇのかって話」
「あ、それは、うん……」
美しく威厳のある見た目とは裏腹に、話し方には妙に幼さを感じる。実際にはいくつなのだろうか。
「うんじゃなくてだな、答え」
「待って。そもそも、貴方の名は。先に名乗りなさいよ」
詰め寄るプレヒズに流石に苛立ちを感じたのか、ロアル姫はむすっとした様子で尋ねた。
「俺はプレヒズ、この国の元兵士だ」
「プレヒズ……。貴方は、好きでもない相手と結婚するの」
逆に彼女に詰め寄られる。よく見ると、まだ二十歳やそこらの小娘だった。
「そういう問題じゃねぇだろ。人の命が関わってるんだぞ」
「誰と結婚するかは個人の自由でしょ、王族だからって関係なく、憲章にも保証された権利のはずよ」
「そうかもだが、大局を見ろよ。王族は民に負う責任もまたあるはずだろ……」
お互いに一歩も退かずににらみ合う。そこで、彼女は何かに気づいたようにはっとした目をした。
「待って。貴方、兵士? 外から来たの……どうやって」
「は? それは変な男に仮面を貰ってだな」
そこで、ぱんぱんと手を叩く音がした。
二人して音のした方を向くと、そこにはいつの間にかゲリオス男爵がいた。その傍らには、入り口にいた男たち同様に昆虫の仮面をつけた屈強そうな男が四人。
「いやはや、思った通りだ。プレヒズ君、君はゲストではない! どうやって仮面を手に入れたかは知らないが……ここに相応しい人物ではないようだ。出て行ってもらおうか」
ばれたか、とプレヒズは思った。だが、腹も膨れたし、どちらにせよすぐにお暇しようと思っていたところだ。ロアル姫との話も途中だが、素直に出ていこう。
歩き出そうとしたら、何者かに袖を掴まれた。振り返ると、ロアルだった。
「私もここから出して」
小声でプレヒズに言う。
――なぜだ?
「さて、ロアル嬢、その男から手を離しなさい。彼は余所者ですぞ?」
「嫌よ。私は、この夜に永久に閉じ込められたままなんて」
何を言っているのだ、このふたりは。プレヒズは眉をひそめた。何か面倒ごとに自分が巻き込まれつつあるのを感じる。
「プレヒズ。このままこの場所にずっといたら、仮面が顔に張り付いて、自我が保てなくなるわ。私はそうはなりたくないの」
「そんな馬鹿な」
ことがあるか、と言おうとしたプレヒズは、実際に仮面が自分の顔から外せなくなっていることに気づいた。
なんだこれは。取ろうとすると痛い。
騒ぎを聞きつけたのか、好奇心をむき出しにした男女が踊りをやめてテラスに集まってきた。
「この会場は、永遠に夜のままなの。クロック・マンが時を止めているのよ。みんなは仮面に取りつかれて気づいてないけど」
必死な様子でロアルがプレヒズに説明する。
「貴方の腕時計も止まっているでしょ?」
――確かに。
そして、今思えば、会場前に停まっていた車。どれも埃をかぶっていた。あれは、いつからあそこに停められたままなのだろうか?
「残念だが、ロアル嬢。仮面には自我を失わせる効果などない。ここにいる皆は、自ら望んでこの夜に留まっているのだ」
男爵が言うと、聴衆は一斉に頷いた。
「この世は煩わしい。だが、仮面があれば世間のあれやこれやを無視して、匿名性を保ったまま真の自分自身でいられるのだ。こんな素晴らしいことがあるか? この仮面は、この会場にずっといたいと思った者の顔にのみ張り付く。プレヒズ君、君も居心地の良さを感じたのではないかな?」
否定はできないかもしれない。だが、こんな場所で余生を終えるのはごめんだった。プレヒズは無理矢理、痛みを我慢して仮面を引っぺがした。隣でロアルも難なく仮面を外す。
「おお、そうか。だが、この場所の真実を知ったからには、もう出ていかせる訳にはいかない。君をゲストとして正式に星空舞踏会に“招待”しよう。私たちと共に永遠の舞踏会を楽しむのだ」
「悪いけど、彼に代わってそのお誘いは丁重にお断りさせていただくわ」
ロアルが口を挟み、無理矢理にプレヒズの手をとった。
「ここから出ましょう」
ふたりはテラスから会場の中に戻ろうとした。だが、用心棒たちに道を塞がれてしまう。
用心棒が仮面越しにプレヒズを睨んでくる。
いくら俺が元は兵士だったとはいえ、四人を相手にするのは厳しいだろう。
そう考えたところで、プレヒズはあることを思い出し、閃いた。
「あ、そうだ。ひとつここにお集まりの紳士淑女の皆様に言いたい」
突然のスピーチに用心棒と男爵が首を傾げた。興味を惹かれたゲストの男女たちは耳を傾ける。
「皆様がこの会場で永遠の夜とやらを楽しんでいる間、このゲリオス男爵は外に出てるぞ」
それを聞いて男爵が青ざめた。
「何を根拠に!」
「男爵、さっきアンタは俺の前で懐中時計を見ただろう。時が止まっている会場の中で、何でそんなものを見る必要があるんだ? それは、アンタがたびたび用事で外に出ていて、その癖で見てしまったんだろう」
会場の男女が一斉に男爵の方を見た。
「……み、見たのは認めるが、外に出た証拠にはならないだろう」
「そうか」
そう言うとプレヒズは素早く男爵のジャケットから懐中時計を取り出して、聴衆に見せつけた。
「これは……ついこの前に新発売された懐中時計だな。外の看板で見たぞ。会場にいるならどうやって手に入れた?」
「そ、それは……」
男爵はだらだらと汗をかき始める。
「アンタは舞踏会の主催者として、ここにいる皆と永遠の夜を楽しんでいるふりをしているだけだ。本当はいつも外に出ている。王様に言われてロアル姫を匿い続けるために、ビジネスと王族とのコネのために、ここを存続させているだけだ。その証拠に」
プレヒズはさっと男爵の仮面を取った。いとも簡単に。
「彼はこの会場にずっといたいなどと微塵も思っていない」
ざわつく聴衆が用心棒とゲリオス男爵を取り囲み、じりじりと寄っていく。彼を問い詰める声が次第に増えていく。
「いや、違うんだ。主催がパーティーを抜け出すなど……まさかそんな無粋は……」
引きつった笑みを浮かべて弁解をする男爵だったが、やがてその姿は人だかりへ埋もれて見えなくなってしまった。用心棒たちもゲストに暴力を振るう訳にはいかないようで、そのままなすがままになっている。
「さぁ、行こう」
プレヒズが言うと、ロアル姫は感心したように彼の方を見た。
「やるわね……あの男爵を」
「俺が余所者で運が良かった」
プレヒズとロアルは2人で会場を抜け、出口へと向かおうとした。その時、2階の張り出しに誰かがいることに気づいた。
タキシードにマント、頭があるべき場所には時計がある。いや、時計を模したマスクだろうか。それが手すりに寄りかかって2人を見下ろしている。
「クロック・マンね……」
ロアルが呟いた。あれがそうなのか、とプレヒズは驚いた。やはり実在するのだ。
「さぁ、星空舞踏会は閉宴だ!」
クロック・マンが叫んだ。
はて、どこかで聞いたような声だった。なぜ聞き覚えがあるのか。
「見て」
そこでロアルが外を指さした。見ると、窓の向こう、山々の稜線から朝日が差し込んできたところだった。
会場を包んでいた永遠の夜が明けたのだ。
目を戻すと、もうそこにクロック・マンはいなかった。
(つづく)