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合図  作者: 望美
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(……藍川先輩に失望された…)





透の声色からそう悟ると、薫の頬にもう完全に抑えることができなくなってしまった一筋の涙が零れ落ちた。



それを見た透はつい動いてしまいそうになった自分の手を止めて、同じ口調で言葉を続けた。





「俺たちの仕事はね、会社の商品の売上をあげるための企画を考えることだけど、それを実行するためには社内外問わずたくさんの人達の協力が必要なんだ。」




「…」




「だから責任者だと言う理由で一人で全て背負おうとするのは、一人だけで仕事を成功させたいっていう自己満足以外の何ものでもないんだよ。」






透の言葉で、結局自分のことだけしか考えていなかったことに気付いた薫は、自分の過ちにどうしようもなく居たたまれなくなり俯いて涙をボロボロ溢した。





「…すいま、せん……わたし…せっかく、任せてもらえたから…どうしても成功させたいって思って……なのに、私のせいで、みなさんに迷惑かけることになっちゃって…」







透は泣きながら謝る薫を見てその場にしゃがみこむと、先ほど伸ばし掛けた手を止めることなく、薫の頬の涙を拭った。







「…こういうときのために俺がいるんだから、忘れないでよ。」



伸ばされた手と先ほどとは違う優しい口調でそう言った透に驚いた薫は、透の方に顔を向けた。

下から見上げるような姿勢の透と目が合うと、口調と同じように優しい笑みを向けられていた。


そのことに、失望されていなかったと心から安堵した薫は、またボロボロと涙を流した。




「きっと君は、今まで何でも一人でやってこれたから上手な甘え方を知らないんだね。」




薫の瞳からどんどん溢れてくる涙を拭いながら、透は優しくそう呟いた。







「…ほら、もう泣かないで。もし、間違えた道を選んだとしても、またそこから最善の選択肢を選べばいいんだから。」







「…!?」






憧れの人に勇気付けられた台詞が目の前の透が口から発せられると、薫は驚きで涙も止まってしまい、そのままじっと透を見つめていた。





(…いま、藍川先輩がアイさんと同じこと言った…?)




突然、至近距離でじっと自分の顔を見つめ始めた薫に今度は透の方が居たたまれなくなり、顔をそらすとふっと立ち上がった。







「…それじゃあ、いま最善の選択肢は何だと思う?」




透の言葉にハッと我に帰った薫は、いま目の前の問題を解決することに専念しなければと頭を切り替えた。




「…課長と梓先輩に現状の報告をしてきます。」



「うん、正解。課長には俺から伝えるから、篠原さんに報告したら、一緒にそこの会議室に来て。」



「はい!よろしくお願いします。」




誰かに頼ることがこんなにも心強いことだと知らなかった薫は、それを教えてくれた透に心の中で感謝の言葉を述べた。

今度、きちんと本人に伝えようと心に決めて、梓の元へと向かった。






―――――





「状況は藍川から聞いたが、高坂から詳しい内容をもう一度報告してもらいたい。」



「はい。この度は私の軽率なミスで皆様にご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ありません。

私が例年の当選者数を勘違いしていたために、バウムクーヘンの発注が半分の100個しか確保出来ませんでした。他にも取り扱いのある洋菓子店に確認してみましたが、代替品も確保出来ませんでした。…すみません。」



「ミスは誰にでもある。大切なのは、もう一度同じミスをやらないことだ。それに、今回は新人のお前に丸投げしたまま、進捗を詳しく確認しなかった俺たちにも責任がある。」



「そうよ。新人のうちにミスして上の人に頼っておかないと、後々頼られる側になったとき大変よ。」



課長や梓にも優しい言葉をもらった薫は、この人たちと仕事が出来る自分がどれだけ幸せ者であるかを噛み締めた。



「当選者には、もう当選の旨と日時が記載された用紙が発送されている。だから、どうにか代替品を用意するしか方法はないな。」



「バウムクーヘン以外なら、形の似ているシフォンケーキはどうですか?」



「シフォンケーキは高さがあるし、バウムクーヘンに比べて柔らかいから、子どもにはデコレーションが難しいんじゃないかな?いっそスポンジケーキにするとか…」



「ただのスポンジだと取り扱いのある店は少ないな。あの店クラスの老舗洋菓子店じゃないと納得しない親御さんも居そうだしな。」




課長たちの議論が平行線をたどるなか、ずっと黙っていた薫は思い切って口を開いた。



「あっあの!」



薫が突然口を開いたことで、三人は議論をやめて薫の方に視線を向けた。



「高坂も何か意見があるなら言ってみろ。」



この自体を招いた自分が発言するのもおこがましいかと思った薫だったが、課長のひと押しに勇気をもらいおもむろに口を開いた。



「…パウンドケーキはどうでしょうか?」



形状の違うものを提案した薫に驚きつつ、一同は続きを促すように黙っていた。



「円状ではありませんが、逆に長方形の方が文字などのデコレーションはしやすいように感じます。当選者には男の子も多かったのでこどもの日に向けた鯉のぼりのデコレーションなども提案できます。

何より取り扱っている洋菓子店も有名な老舗店が多く、バウムクーヘンに匹敵するものが用意できるのではないかと思います。」



「…確かに、一理あるな。ちなみに、高坂はどこの菓子店をイメージしてる?」



「…難しいかもしれませんが、indigo blueのものとか…」



そう呟いた瞬間、一同の空気が止まるのを感じた。



薫が名前を出した洋菓子店は老舗中の老舗で、本店では何時間も並ばないと手に入らない菓子もざらにあるような人気店だった。

周りの空気が止まったことに、さすがに大きく出過ぎたと思った薫は先ほどの勢いを失って少しうなだれた。


少しの沈黙の後、課長は透の方にニヤリとイタズラな笑みを見せた。




「……だそうだ、藍川。どうだ?」



「何時になるかわからないので、今日は直帰でいいですか?」



「わかったよ。ほら、行ってこい。」



無理と言われるものだと思っていた薫は、思わぬ方向に話が進んでいることに驚き、立ち上がった透を見つめた。




「任せてよ、薫ちゃん。了承の返事もぎ取ってくるから。」



苦手だったはずの鉄壁の笑顔でそう言った透がとても頼もしく見えた薫は、よろしくお願いしますっと頭を下げて会議室を出ていく透を見送った。



「大丈夫よ。藍川くんは、あそこにとんでもないコネ持ってるから。」



梓は笑顔でそう言うと、薫に頭を上げるように促した。



「藍川なら必ず了承をとってくるから、俺たちはそれを前提に関連書類を洗い直すぞ。」



「はいっ!」



透に願いを託した三人は、透からの連絡を待ちながら仕事を進めることとなった。





―――――






時計が9時を回る頃、課長のデスクの電話が三人しか残っていないフロアに鳴り響いた。



「…ああ。よくやったな。お疲れ様。あいつらには伝えておくよ。」



少し電話口の相手と会話したあと、静かに受話器を置いた課長は、薫と梓に向かって声をかけた。




「藍川が了承とれたってよ。お前らもひと段落ついたらもう上がれ。」



「さすが、藍川くん。良かったわね、薫ちゃ…って、え!?大丈夫?」




ボロボロと涙を流している薫に驚いた梓は、ふっと息をつくと、薫の頭を撫でてぎゅっと抱き締めた。



「すごく不安だったわよね。よくここまで頑張ったわ。」



優しくそう言われた薫は、余計に涙が溢れてしまい梓の胸でまるで子どものように泣いてしまった。

今日一日で、普段はほとんど涙を見せないはずの薫の涙腺のダムは決壊してしまったようだった。






梓の胸で泣きながら、薫は自分のなかにずっとはびこっていた感情をいよいよ認めざるを得ないことに気付いてしまった。








――あんなふうに誰かに失望されるのを怖いと思ったことなんてなかった。




――あんなふうに自分を叱った上で、甘えていいと言ってくれる人はいなかった。




――あんなふうに誰かに絶対の信頼を寄せることなんて出来なかった。







――あんなふうに誰かの本心を知りたいと思うことなんてなかった。





(……私、藍川先輩のこと好きなんだわ。)





やっと素直な自分の気持ちを認めた薫は、梓の胸から顔を上げて涙を拭うと、その場にいた二人に改めてしっかりとお礼を告げた。





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