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合図  作者: 望美
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8






結局あれから休みの間中考えてみたものの、一向に透と会ったときのことを思い出せない薫は、いつも通り出勤して自分のデスクへと向かった。



ずっとそのことを考えていたのが、透の思い通りになってしまったような気がして癪だった薫は、平常心を装って仕事に取り掛かった。



(そうよ!私には色恋沙汰に惑わされてる暇なんかないんだったわ。この仕事を必ず成功させなきゃ。)



薫はそう自分に気合を入れ直すと、去年の企画書をもとに今年のものを作り始めた。


行程を確認しながら作業していた薫は、洋菓子店にバウムクーヘンを発注しなければならない期限が迫っていることに気付いた。



(あそこの商品は早めに注文しておかないといけないって藍川先輩の付箋にも書いてあったわ。)



毎年恒例とはいえ、人気の老舗洋菓子店から大量に注文するためには早めに連絡を入れておいた方が良さそうだと判断した薫は、急いで電話をとった。



「お世話になっております。モリヤ製菓の高坂と申しますが、田中様はいらっしゃいますでしょうか?」



『申し訳ありません。担当の田中は本日は一日外出の予定で…』



透から引き継いだ名刺を元に電話をかけてが、どうやら本人は不在のようだ。

しかし、早めに確約をとっておきたいと思った薫は、他に担当できる者がいないか確認してみた。



「毎年恒例の企画の件なのですが、他にも対応できる方はいらっしゃいますでしょうか?」



『あの企画の件ですね。かしこまりました。対応できるものに代わりますので少々お待ちください。』



相手方の女性がそう言うと、すぐに他の男性社員が電話口に出た。



『お電話代わりました。バウムクーヘンの発注の件でお間違いなかったですか?』



どうやら話が通っているようで一安心した薫は、数の確認のためもう一度企画書に目を通しながら口を開いた。



「はい。今年も()()()()発注をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」



『…はい。…確認致しますので、少々お待ちください。』



いつもの担当じゃないためか歯切れの悪い返事をした男性は、そのまま保留音を流し始めた。



(担当の方じゃないと、スムーズにいかないものなのね。)



保留音を聞きながら待たされている間、ぼんやりとパソコンの画面を見ていた薫は、近くで男性二人の笑い声が聞こえて振り返った。




声の主は透と同僚の男性社員で、何か面白いことがあったのか珍しく声をあげて笑っていた。

それは、いつもの鉄壁の笑顔とは違って、少し幼い印象を与えるような屈託のない笑顔だった。




(…なんだ。ああいう笑い方も出来るんじゃない…)




あのいつもの笑顔以外の笑い方を知っているのは、この前のときに穏やかな笑みを見た自分だけかと思っていた薫は、少し面白くない気持ちになった自分に気が付いた。




(…やだ!なんかこれじゃあ、私ばっかり気にしてるみたいだわ!)




告白されたのは自分のはずなのに、まるで形勢逆転されているような気がした薫は、心の中で頭を振ってその考えを打ち消した。




気がつけばいつの間にか保留音は終わっており、電話口から男性の声が何か話しているのが聞こえた。




『……みたいですが、100個でよろしいですか?』



「…はい!よろしくお願い致します。」



前半がうまく聞き取れていなかったが、個数は間違っていなかったため、薫は改めて自分に喝を入れるためにも勢いよく返事をした。


無事に発注依頼が終わると受話器を置いた薫はふーっと息をついて、また企画書を作り始めた。





―――――





数日経ち、薫の作っている企画書もほぼ完成し始めたところで、梓が様子を確認しにきた。



「薫ちゃん、進捗どうかしら?」



「もうすぐ企画書が完成するので、出来たら一度見ていただきたいです。」



「さすがね!もう藍川くんの邪魔もなくなったし、捗ってるようで何よりだわ。」



「…ははっ、そうですね…」




薫は梓に乾いた笑いを返すと、ふぅと小さく息を吐いた。

先週の金曜以来、宣言通りすっかり返事の催促をやめた透に、薫以外の同僚はやっと透のタチの悪い冗談が終わったと胸をなでおろしていた。


しかし、薫だけは違った。

あの悪ふざけがないせいで、逆に透と関わるたびに、あのときのことを思い出してしまうのだ。

意識しないようにしようと思えば思うほど、透のことに頭を支配されてしまう。



(…ダメダメ。本当に集中しないとミスするわ。)



薫は気の緩みを正すように深呼吸をしていると、手元の書類を確認していた梓がその中から数枚を抜きとり薫に手渡した。



「はい、これ。あの企画の当選者名簿だから、渡しておくわね。」



「はい、確認しておきます。」



「じゃあ、何かあったらすぐに言ってね。」



薫が書類を受け取ると、梓は自分のデスクに戻っていった。

薫はすぐに受け取った当選者名簿をパラパラと確認し始めた。



(…女の子が多いかと思ってたけど、男の子も結構いるのね…)



ざっと確認してから、企画書作りに戻ろうと思っていた薫だったが、名簿が思っていた以上に多いことに気付いた。



(…あれ?これって、100組以上あるんじゃないかしら?)



嫌な予感がして、一番最後の当選者親子の隣の番号をみると『200』になっていた。



(…っ嘘!?…だって去年の通りって…)



もう一度、去年の企画書を見直してみると単位が『人』ではなく『組』になっていることに気が付いた。

その瞬間に、薫は自分からサーッと血の気が引くのを感じた。



(…っ!!バウムクーヘンの発注!)



もう一度発注書を確認すると、やはり『100』という数字が目に入った薫はすぐに電話をとった。



「…っお世話になります。モリヤ製菓の高坂ですが、田中様いらっしゃいますでしょうか?」



薫の勢いに驚いた様子の相手方は、すぐに担当に取り次いでくれた。



『もしもし、お世話になります。担当の田中ですが…』



「っ申し訳ございませんが、私の不手際で発注個数を誤ってお伝えしてしまったのですが、例年通り200個に変更をお願い出来ないでしょうか?」



一息でそういい終えた薫は、祈るような気持ちで相手方の言葉を待った。



『…そうでしたか。しかし、電話をとった者が昨年の個数と違うことを確認した上で、発注を受けたと報告を受けまして…その後他の取引先からの発注を受け付けてしまったんです。申し訳ありませんが、現状で200の発注にはお応えできかねます…』




「そうでしたか。…いえ、こちらの不手際ですので……無理を言って申し訳ありませんでした。」



力無く受話器を置くと、薫は途方に暮れた。



(…どうしよう。大変なことになったわ…)



せっかく自分の能力を評価されて任された仕事だったのに、とんだミスのせいで全てが台無しになってしまったことが、薫には耐えられなかった。



(…いや、まだ諦めちゃダメだわ。代替品を用意すれば良いのよ!)



責任者であるからには、自分のミスは自分で尻拭いをするべきだと考えた薫はバウムクーヘンの販売を行っている老舗洋菓子店に片っ端から電話をかけることにした。





―――――





薫が電話を手離すと、すっかり外は暗くなっていて、残っている社員もまばらになっていた。



(……どうしよう。どうしたらいいの……?)



結局どの洋菓子店も、急に大量の注文は受けることが出来ないという返答しかもらえなかった。


もう他に自分がどうするべきなのか路頭に迷ってしまった薫は、その場で呆然と宙を見つめていた。



(…せっかく、任せてもらえた仕事なのにっ!)



悔しくなった薫は涙が滲みそうになったことを感じて、バッと両手で顔を覆った。





(…いやだ。泣きたくないっ!)



ここで涙を見せてしまったら、薫は本当に挫けてしまうような気がして涙を流さないように必死にこらえた。


そのことに気をとられていた薫は、近づいてくる人の気配に気付くことが出来なかった。






「…薫ちゃん、どうかした?」



心配そうに話しかけた透にやっと気付いた薫は、驚いてつい潤んだ瞳のまま透の方に顔を見上げてしまった。







「…何かあったみたいだね。」



薫の顔を見た透はすぐに、机の上を見渡した。

誤りの数が記載されている発注書に、×印でいっぱいの老舗洋菓子店の一覧表が置いてあるのが目にはいった透は、おおむね何があったのかを察した。





「…っあの、これは私がどうにかしますからっ!」



全て悟られてしまったのがわかった薫は、透がどのような反応をするのか怖くなってしまい、そう口にすると急いで机の書類を片付けた。







「…薫ちゃん。君は大きな勘違いをしてる。」




普段は薫に向けられない類いの低めの声でそう言った透に、薫の身体はピタリと固まってしまった。




「仕事は君の自己満足のためだけにあるわけじゃないよ。」




冷静な口調で透にそう言われた薫は、まるで冷水を頭から浴びせられたかのように自分の心が冷えていくのを感じた。





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