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一度決めると突き進む性格の薫は、モリヤ製菓に入社するために一番良い方法を調べあげた。
連日遅くまで何かをしている薫が気になっていた両親だったが、受験勉強をしているものだと思っていた娘が、まさか急に指定校推薦をけって専門学校に行きたいと言い出したときは、驚いて言葉を失ってしまった。
反対する両親を説得するまでは願掛けも込めてあの店に顔を出さずにいた薫が、やっと店のドアをくぐれたのは一ヶ月後だった。
「まぁ、薫ちゃん!全然顔見ないから心配してたのよ!」
「すみません。ちょっと事情があって…」
奥さんには来店しなかった理由を曖昧に濁しながら、薫はいつものカウンター席に鞄を置いてショーケースの前へと向かう。
しかし、お目当てのスイーツを探しているのにどこにも見当たらなかった。
薫がキョロキョロしている様子を見ていた奥さんは、ハッとしたあと申し訳なさそうな顔をして口を開いた。
「ごめんね、あのコラボスイーツ終わっちゃったのよ…」
「えっ!?第2弾やるって話が進んでたんじゃないんですか!?」
「それがね…少し前からアイちゃんが他に大きい仕事に関わることになったみたいで、忙しくなっちゃって。それでも、この仕事だけはやりたいって数時間かけてうちまで通ってくれてたんだけど、日に日に疲弊してく様子が見てられなくてね。最後には、うちのお父さんが、俺が店をやり続けてるうちならいつでもいいから出直して来いって突っ返しちゃったのよ。」
「…」
「薫ちゃんあのスイーツ気に入ってたから残念がるだろうって思ってたんだけど、終わってから伝えることになっちゃってごめんね。」
「いえ!そんなっ!ずっと顔出さなかったのは私なので!」
明らかに沈んだ様子の薫を申し訳なさそうに見つめる奥さんに、慌ててそう返すと、薫は定番商品のチーズケーキを注文して席に戻った。
(…じゃあ、もうこれは渡せないわね。)
やっと両親を説得できた薫は、今日あのスイーツを食べて、アドバイスのお礼と進路を決めたと報告の手紙をアンケートに添えるつもりだった。
憧れの人との接点がなくなってしまった薫は、しょんぼりとしながらチーズケーキを口に運んだ。
いつもは蕩けるような濃厚な舌触りを味わいながら食べていたはずのチーズケーキが、今日は味がしないように感じてしまう。
ふーっと息を吐きながら紅茶を口に運ぶと、肘に何かが当たって、カランっと床に落ちた。
席を立って落ちたものを拾ってみると、綺麗な藍色のボールペンだった。
(…あっ、この色、この前のレターセットと同じ色だわ。)
よく見ると使い古したそれには、名前らしきものが印字されていた。
(…Ai…T…?擦れちゃって全部読めないけど、もしかして…)
持ち主に心当たりのあった薫は奥さんの元へと駆け寄り、手に持っていたボールペンを差し出した。
「奥さん!これ落ちてたんだけどっ!」
「えっ?…あっこれ、アイちゃんのだわ!」
想像通りの人物の名前が挙がったことに嬉しくなった薫は、思わずギュッとボールペンを握りしめてしまった。
「うーん…よく使ってるのは見てたけど、あれから特にボールペンを忘れたって連絡はなかったし、わざわざこれのために連絡するのもあれかしら。」
どうすべきか考えあぐねている奥さんを前に、薫はここぞとばかりに口を開いた。
「これっ!私に預けてもらえませんか!?必ずいつかアイさんにお返しするので!」
「えっ?薫ちゃんが?」
突然の突拍子もない提案に驚いた様子の奥さんに、薫はたたみかけるように口を動かした。
「私、モリヤ製菓に入りたいんです!だから、お守りがわりにしたくて!」
「あらっ!そうだったの!?そういうことなら薫ちゃんにお預けするわ。」
薫の勢いに押された奥さんは、いつもの笑顔になると優しくそう言った。
憧れの人との小さな繋がりを手に入れた薫は、それを大事に握りしめると、カウンター席に戻って残りのチーズケーキを食べ始めた。
いつもの濃厚な舌触りを感じられるようになった薫はペロリとそれを平らげると、もう一度ボールペンを見つめた。
(…いつか必ず直接会って、あの手紙のお礼を言おう。)
そう心に決めると、ボールペンを大切にハンカチに包んで鞄へとしまった。
――――――――――
(…まずは、せっかく任せてもらったこの仕事を成功させなくちゃ!)
薫は机の引き出しにボールペンをしまうと、先ほど透に渡された引き継ぎ書類に目を写した。
去年の計画書を見ていると、ところどころに付箋が貼ってあり、綺麗な文字で細かな指示が書かれている。
(藍川先輩って字が綺麗なのね…。)
まずは一通り目を通してみて、疑問に思うところを質問しておかねばと思っていた薫だったが、そう思うところには必ずその付箋が貼ってある。
あっという間に読み終えてしまえたことに、薫は驚いてしまった。
(…やり手っていうのは、本当なのね。)
新人の薫が一度で理解できてしまうほどにその計画書は丁寧に作られていて、さらに補足の付箋のおかげで、質問すべきことの回答も全てもらえてしまったのだ。
今後の流れとやるべきことをチェックしながら、ぼんやりと先ほどの透の告白を思い出してしまった。
(…なんで、藍川先輩は私のことを好きになってくれたんだろう。)
今までの冗談まじりの言い方とは明らかに違ったそれに、薫はますます透のことがわからなくなっていた。
(ああやって言われた以上は、真剣に考えなくちゃいけないわよね。)
そう思いながら薫は、チラリと透の席の方に視線を向けた。
今は真剣な顔で電話対応をしながら、パソコンに何かを打ち込んでいる。
(…まぁ…顔は、確かにいいわよね…)
一般的に女性受けする容姿は、薫にとっても同じように好ましいものではある。
(…仕事も出来るってのも嘘ではないみたいだし…)
今までの仕事ぶりや、引き継ぎ書類を見ていても、尊敬に値する先輩であることは確実であった。
(…別にモテるからって遊んでるわけでもなさそうよね…)
自ら女性との会話を避けていることから、手当たり次第にとっかえひっかえしている様子も伺えなかった。
一見お付き合いをする相手としては、申し分ないように思えた薫だったが、すぐに頭を振ってその考えを打ち消した。
(…でも、あの何も寄せ付けないような鉄壁の笑顔は苦手だわ。)
愛想がいいと言われるとそうなのかもしれないが、薫は何を考えているのかわからないあの透の笑顔が苦手だった。
まるで、笑顔の盾で入り込もうとするものを全て弾いてしまってるような感覚をおぼえる。
(…本心を見せてくれない人には、自分の心も見られたくないもの。)
しかし、薫にはどうしても気になることがあった。
(……なのに、どうして、いつもあんな顔するのかしら?)
先ほどの告白の前にも、合図のように透は一瞬いつもの切ない表情をみせていた。
あの表情だけは、透の本当の心を見せられているような気がして、薫はいつも落ち着かない気持ちにさせられてしまう。
(…やっぱり藍川先輩が何を考えているのかさっぱりわからない。)
よく考えてほしいと言われたが、透自体のことがまだわからない薫にとって、答えを出すのはまだまだ先になりそうだった。
一通りやるべきことの確認を終えた薫がふと時計を確認すると、もう社員寮の食堂は閉まっている時間であった。
(…帰りはどこかで食べて帰ろう。)
そう思って片付けを始めると、梓が薫の元へと駆け寄ってきた。
「薫ちゃん、もう確認終わったの?」
「はい。とりあえず最低限のものは確認しました。」
「さすがね。私ももうちょっとしたら終わるんだけど、良かったら今日飲みに行かない?」
「あっ、ぜひ!もう食堂閉まっててどこ行こうと思ってたところなんです。」
「ちょうど良かったわ。課長と藍川くんも行けるって言ってたから、もうちょっと待っててくれる?」
「…えっ!あっはい…。」
てっきり梓と二人だと思っていた薫は透の名前が出たことで少し躊躇したが、今さら後には引けなかったのでしぶしぶ了承の返事をした。
(…まぁ、二人っきりじゃないし、気まずくはならないわよね。)
職場の同僚としての付き合いの範囲内ならば仕方ないと諦めた薫は、片付け終わった梓と一緒に更衣室へと向かった。