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「えっ!?」
課長の思ってもみない発言に、薫は思わず声を上げてしまった。
「もちろん、一人でじゃないぞ。去年のリーダーだった藍川と、指導係の篠原もサポートに入ってもらうが、責任者はお前だ。」
あまりにも予想外のことに、薫は先ほどのことなど頭の隅へと追いやってしまうほどの喜びを感じてしまった。
「ありがとうございます!精一杯頑張ります!」
「やる気があるようで、安心したよ。この企画は毎年恒例のものなんだが、簡単に説明すると、有名老舗洋菓子店のバームクーヘンにうちの主力商品を使って親子でデコレーションを楽しんでもらうっていうものだ。」
薫もその企画のことは知っていて、並ばないと手に入らないと有名なバームクーヘンを使うことから、毎年人気でなかなか抽選に当たらないと聞いたことがあった。
「うちでは何年も行っている企画だし、高坂にうちの仕事を覚えてもらうための取っ掛かりとしては最適だと思う。お前の仕事ぶりは一週間と少し見させてもらったが、十分任せられるレベルだと俺と篠原で判断した。」
自分のことを認めてもらえた上に、期待されていることがわかり、薫の心は完全に浮き足立っていた。
「はいっ!絶対にやり遂げて見せます!」
「いい心意気だ。じゃあ後は、藍川から詳しく聞いてくれ。」
それだけ言うと、課長と梓はさっさと会議室から出て行ってしまった。
また透と二人きりにされてしまった薫だったが、喜びと興奮からすっかり告白のことは二の次となっていた。
その様子を見ていた透はふーっとため息をつくと、薫に向かって口を開いた。
「俺と一緒に仕事するってこと忘れないでね。…まぁ、とりあえず引き継ぎするから付いてきて。」
透の言葉で薫はまた先ほどのことを思い出してしまったが、すぐに返事が欲しいわけではないようだったので保留にしたまま、今は与えられた仕事にだけ集中することにした。
「…はい。藍川先輩、よろしくお願いします。」
薫は元気よく返事をすると、透の後を追いかけた。
透からの引き継ぎを終えた後、自分のデスクに戻ってきた薫は一番上の引き出しを開けた。
大事そうに藍色のボールペンを取り出すと、ギュッと握って目を瞑った。
(…アイさん、少しずつだけどあなたに近づけてる気がします。)
そう心の中で報告しながら、薫は三年前の春のことを思い出していた。
――――――――――
薫には小さい頃から大好きな場所があった。
薫が住んでいた街にある小さな洋菓子店であるそこは、職人気質の旦那さんと笑顔が素敵な奥さんによって営まれていた。
小さな頃は何か特別な日には必ず家族と一緒に大好きなケーキを買いに行き、お小遣いがもらえるようになってからは一人で焼き菓子を買いに行くこともあった。
その洋菓子店には小さなイートインスペースもあって、高校生になってからも放課後によく一人でふらりと立ち寄っていた。
「あら、薫ちゃん。いらっしゃい。」
「こんにちは。」
もう15年来の常連客として、すっかりその夫婦と顔馴染みの薫は、いつものようにカウンター席に腰を掛けた。
「今日も何か食べて行く?」
「はい、もちろん!もう三年生になった途端に進路の話題ばっかりでストレス溜まってるんです。何か美味しいもの食べなきゃやってられない。」
「あら、薫ちゃんですら悩むものなのね。」
薫は席にカバンを置くと、ショーケースを覗きながら季節のスイーツを吟味する。
「あれ?こんなの前からありましたっけ?」
ふと、見慣れないスイーツが目に入った薫は指をさしながら奥さんに尋ねた。
「ああ!それっ!アイちゃんのやつ。」
「アイちゃん?」
聞き覚えのない名前を耳にした薫は、奥さんに話の続きを促した。
「ほらっ!うちの店、この前ちょっとだけ雑誌に取り上げられたじゃない?」
少し都心から外れた場所にあるこの店は、昔から美味しいと評判であり、長い間地域の人々に親しまれていた。
それに目をつけた大手グルメ雑誌の美味しい洋菓子店を発掘するコーナーに、この店が先日取り上げられたのだ。
「ああっ!私、嬉しくてあの雑誌買っちゃいました。
…で、それと何か関係あるんですか?」
「それを見てくれたモリヤ製菓の方がね、うちの店のお菓子気に入ってくれたみたいで、コラボ商品出してくれないかって頼まれたのよ。」
モリヤ製菓といえば製菓会社のなかでは最大手であり、お菓子好きの薫も気に入っている商品がいくつかある。
「えっ!すごい!」
「うちのお父さん、最初はそういうミーハーなのは嫌だったみたいなんだけど、そのモリヤ製菓の担当のアイちゃんがそれはそれは熱心でね。お菓子のことよくわかってるし、人柄も良かったもんだから、最後にはお父さんの根負け。
それで、そのコラボスイーツがこれってわけ。」
説明された上でよくよく見てみると、見覚えのあるチョコレート菓子が添えられている。
普段スーパーやコンビニで買えるお菓子がどんなふうに使われているのか興味の湧いた薫は、今日のおやつにその商品を選ぶことにした。
「薫ちゃん、お待たせ。」
奥さんが先ほどのスイーツに紅茶を添えて持ってくると、薫の前にそっと置いた。
小さな円柱型のベリームースをミルクチョコレートでコーティングした上に、ちょこんっと見覚えのある正方形のチョコレート菓子が乗っている。
フォークで一口分すくうと、中心からもチョコレートが溢れ出してきた。
フォークを口に入れた薫は、口の中で広がる酸味と絶妙なバランスの甘みに頬が落ちそうになってしまった。
「…っおいしいっ!」
「でしょ?アイちゃんとお父さんの努力の賜物だからね。」
「これに使われてるチョコレートって全部、あのモリヤ製菓のやつですか!?」
「そうなのよ。いつも食べてるものと同じとは思えないわよね。」
薫も何度か口にしたことのあるお菓子だったが、こんなに濃厚な風味を出せることに驚いてしまった。
小さな頃からお菓子作りも得意だった薫にとって、市販のお菓子をここまで最大限に生かす方法があったことが衝撃だった。
あっという間に食べ終わってしまった薫は、まだその場で余韻に浸っていた。
「もし気に入ったんだったら、これ書いてあげて。」
奥さんに渡された紙は簡単なアンケート用紙のようで、スイーツの感想など、いくつかの質問項目が書かれていた。
「アイちゃん、まだ新人さんみたいでね。今後の参考にしたいんだって。評判良ければ、第2弾やる可能性もあるみたいだしね。」
「本当!?書くっ!書きますっ!!」
また新たな感動を味わえるかもしれないと聞いた薫は、アンケート用紙にびっしりと感想を書き込み、ついでにこんなコラボ商品をつくってほしいというリクエストまで添えておいた。
「えっ!もうこんな時間?今日、お父さん早く帰ってくるのにっ!」
夢中で書いていたら、いつの間にか日も落ちてきていることに気付いた薫は真っ黒になったアンケート用紙を奥さんに渡すと、家路を急いだ。
(…今日はいいものに出会えたわ!)
薫は上機嫌のまま家に帰るとすでに夕飯の準備が出来ていて、父親もすっかり寛いでいた。
急いで制服を着替えてリビングに降りてくると、妹の葵が話しかけてきた。
「おかえり。今日もケーキ食べてきたの?」
「うん!今日のは凄かったの!」
薫はいかに素晴らしいスイーツだったかを葵に語りながら、夕飯の準備の手伝いを始めた。準備が整うと、久しぶりに家族みんなで食卓をかこみ夕飯を食べ始めた。
「そういえば、今日進路相談の日だったんでしょ?指定校推薦もらえそうだって?」
母親から進路の話題を出された薫は、内心どきりとしながらもいつもの調子で口を開いた。
「うん。この成績キープすれば、問題ないって言われたわ。」
「じゃあ、薫もあの大学に通うことになるんだな。」
父親は嬉しそうにそう言うと、おかずを口に入れて頬張った。
薫は勉強も難なく出来るタイプだったため、家から近い進学校に通っていたが、その中でも成績はいい方であった。
前々から両親は自分たちの出身校でもある大学の指定校推薦を勧めていて、前回の三者面談で進路指導の教師ともその方向で話が進んでいた。
「そうね、このまま行けばだけど。」
「お姉ちゃんなら大丈夫でしょ。」
葵は昔から何でもできる美人の姉が大好きで、心から尊敬し憧れていた。薫も純粋に慕ってくれる葵を大切に思っていて、自他共に認める仲良し姉妹であった。
薫は笑顔で話を続ける家族たちに曖昧に微笑むと、食べ終えた食器を持って席を立った。
「私、ちょっとやりたいことあるから先に部屋に行くわね。」
「勉強もほどほどにね。」
母親の助言には言葉を返さず、食器を流し台に運ぶと、薫は足早に二階の自室へと向かった。
薫は部屋に入るとベッドに腰を掛けて、そのままバタッと体を倒した。
(…このままで、いいのかしら。)
薫はここ数ヶ月、自分の進路に漠然とした不安を感じていた。
何でも卒なくこなせる薫は、自ら何かを得るために努力をしたことがあまりなかった。
大好きな両親が期待してくれる通りに勉強を頑張って、愛しい妹が憧れてくれる姉でいようと振る舞うことが、これまでの薫を形成していたと言っても過言ではない。
昔から好きだったお菓子に関わる仕事が出来ればいいと思ってはいたが、パティシエのような厳しい世界で生きて行く覚悟は持ち合わせていなかった。
(…なんか、私って空っぽだわ。)
周りから羨望の眼差しで見られたり、妬みの対象になることもあるのに、実際の自分は取るに足らないつまらない人間だと思い知らされた気がした。
(…今日のスイーツ美味しかったな。)
ふと放課後に食べたあのスイーツを思い出すと、先ほどの悩みが少し霞んだ。
(…あんなに素敵なものを作れる人は、一体どんな人なのかしら。)
(…自分の会社の商品が本当に好きで、美味しいものを作りたいって情熱も持っていて、…それが実現できる人。)
(…きっと、私みたいに空っぽなんかじゃないんだわ。)
また自己嫌悪に陥りそうになってしまった自分に気付いた薫は、ガバッとベッドから起き上がると、今夜は早く寝ようと、風呂へと急ぐことにした。