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次の日、薫は就業時間よりも早めに出勤していた。
昨日の葵の助言を聞いて、今日にでも透に自分の気持ちを伝えることを決めた薫は、そのためにもまずは仕事をきちんとこなそうと思ったのだ。
薫はチラリと社員の予定を確認するホワイトボードを見ると、透の所は『1日外出』になっていた。
『直帰』の文字は見当たらないことから、用事が済んだら一度社内に戻ってくるだろうと思った薫は、ホッと安堵した。
(藍川先輩が外出から帰ってくるまでに仕事を終わらせて、その後に時間をもらえばいいわ。)
そのためにも、溜まっている事務処理を片付けてしまおうと、薫は今は仕事にだけ集中することにした。
仕事を始める前に、薫はデスクの引き出しからあの藍色のボールペンを取り出した。
(…ちょっとだけ、力を貸してください。)
薫はボールペンを握りしめて、そう心の中でお願いすると、それをジャケットの胸ポケットへと入れた。
いつか返すべきものだとはわかっているが、薫は勇気をもらいたいときや、自分の節目のときには、お守りのようにこのボールペンを身に付けて、時々拝借していた。
もちろん、憧れのその人と対面することになったら芯も新品に交換して返すつもりであったが、相手の見当もついていない今は、まだまだしばらくはお守りがわりにしようと思っていた。
気持ちを落ち着けた薫は、まだ誰もいないオフィスで仕事を始めた。
―――――
都合よく透が外出していたこともあり、余計なことを考えることなく予想以上に仕事の捗った薫は、キリがついたところで時計を確認すると定時を少し過ぎたところだった。
透のデスクを確認するが、朝のままの机を見る限りまだ帰社はしていないようだ。
(…キリもついたし、今日はもう終わりにして、社内のどこかで待ってようかしら。)
定時も過ぎたため、透ももうすぐ帰ってくるだろうと思った薫は、自分の仕事に区切りがついたことから退勤の手続きをして、日報を書いていた。
胸ポケットのボールペンを取り出すと、薫は簡単に今日済ませたことを書いていた。
「薫ちゃん、もう溜まってた事務処理全部やってくれたの?」
「あっ、はい。今日は少し早めに出勤したので。」
「ありがとう!本当助かるわ!…あれ?」
他愛ない会話をしていると、梓が何かに気付いたような声を出した。
「そのボールペン、薫ちゃんも持ってるのね!」
「え!?他にも持ってる方ご存知なんですかっ!?」
唐突に憧れの人に関する手がかりを手に入れられそうになった薫は、前のめりで梓に詰め寄った。
「ほら、それ珍しい色じゃない?だから印象に残ってたんだけど…えーっと、誰が使ってるの見たんだったかしら…」
同じものを持っているなんて、きっとその人が憧れのその人に違いないと思った薫は、梓の答えを興奮して待つあまり、手元の大事な手がかりを床に落としてしまった。
「あっ!」
薫はすぐに拾おうと立ち上がったが、ボールペンはカランカランと転がって、立っていた誰かの革靴に当たって動きを止めた。
「これ、落ちたよ………えっ?」
ボールペンを拾ったのは、外出から帰ってきたばかりの、薫の待ち焦がれていた透その人だった。
しかし、透は何故かそのボールペンを見た途端に動きを止めてしまった。
それを不思議に思いつつも、薫はボールペンを受け取りに透の元へと向かおうとした。
「……あっ!そうよ!藍川くんよね?それと同じボールペン使ってるの!!」
「…あ、うん。」
透の顔を見てやっと思い出したらしい梓が、透に向かって声を掛けると、透はどこか気まずそうに返事をした。
薫はボールペンの持ち主として目の前の人物の名前が出たことに混乱して、再度その事実を確認する。
(………藍川先輩がアイさんと同じボールペンを、持ってる…?)
(…どういうこと?……え、あいかわ…)
――あいかわ…
――アイ、カワ……トオル
――Ai……T
(…っ!!!……やだ、嘘でしょっ!)
今までの記憶を辿っていくと、突如として導き出された答えに薫はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
「……っありがとうございますっ、お疲れ様でしたっ!」
薫はその場で叫ぶようにそう言うと、透の手からからボールペンを奪う形で取り去って、販売促進部の部屋を出た。
「ちょっ、薫ちゃん!?」
薫は梓が驚いていたのがわかったが、とてもじゃないがそのままあの場にいられなかった。
いつまでたっても収まらない動悸でどうにかなってしまいそうだった薫は、近くにあった誰もいない応接室へと飛び込んだ。
(…嘘、嘘っ!?そんな、だってアイさんは女の人だとばかり…)
ずっと追いかけていた人が、まさかこんなに近くにいたことに薫は混乱して動揺が隠せなくなっていた。
内側から応接室のドアにもたれかかると、自分で支えられそうにない全体重をドアに預ける。
(……でも、よくよく考えると共通点がいくつもある…)
この前手紙と同じ台詞を口にしていたことも、昨日お菓子作りの才能がないと言っていたことも、新人の頃から販売促進部に在籍していたことも、同一人物であるという事実を裏付けしていた。
(…えっ?…でも、先輩、昔私と会ったことあるって言ってた…)
ということは、知らず知らずのうちに薫は憧れの人と対面していたということになる。
当時、あの店であった出来事を思い出していると、普段は見かけない整った顔立ちのスーツ姿の男性と少し話をしたことを思い出した。
(……もしかして、あの時の人が、アイさんであり藍川先輩だったの!?)
次々と明るみになっていく事実に、薫の頭はパンクする寸前だった。
(…追いかけ続けていたくせに、まさか知らず知らずのうちに出会ってて、憧れの人とは知らないまま、好きになってたなんて…)
薫は、妹の葵のことをもう鈍感だと言えないくらいに、自分も同じ血を引いていることを心底実感した。
もう今日は想いを伝えるどころではなくなってしまったことに、ふーっと深いため息をついたところで、応接室のドアが小さくノックされた。
この後使用予定があったのかもしれないと思った薫は、すぐに返事をしてドアを開けようとしたところで、相手方が声を掛けてきた。
「…薫ちゃんだよね?…開けてくれない?」
今まさに自分を混乱させている張本人の声に動揺した薫は、開けようとしていたドアノブを思わず反対に引っ張った。
「…えっと、今、ちょっと立て込んでて…」
自分でもよくわからない言い訳をしてしまった薫は、それでも今は透とどんな風に顔を合わせればいいのかわからず、そのまま黙ってしまった。
「……その様子だと、やっと気付いてくれたんでしょ?」
透の確信をつく一言に、薫は本気でどうしたらいいのか混乱して何も口から出てこない。
沈黙をイエスと受け取った様子の透は、そのまま話を続けた。
「…もう少し、あたふたする薫ちゃん見るのも楽しそうだと思ってたけど、こうなっちゃったらそうも言ってられないかな。」
「…えっ!?」
何だか意地悪な物言いをした透に驚いて、薫は思わず声を出してしまった。
薫の驚いた声も受け流した透は、淡々と話を続ける。
「……もし話をしてくれる気があるなら、明日の休み一日、俺に時間をくれないかな?」
一晩もらえれば心の整理が出来る気がして、薫は口を開いて、小さく答えた。
「…わかりました。」
やっとまともな返答をした薫に、安堵した様子の透はふぅと息をついた。
「…じゃあ、明日朝9時に社員寮の前に迎えに行くから。」
気をつけて帰るんだよ、と優しく言い残して透の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
何だか一気にどっと疲れがやってきた薫は、身体の力が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。
ぼんやりとした頭でも、つい透のことを考えてしまう。
最後の優しい声にあの穏やかな笑顔が思い浮かんで、薫の胸は今度は動揺とは違う高鳴り方を始めた。
そのおかげで、衝撃の事実が発覚しても、この胸に芽生えた恋心は揺らがないのだと実感した。
薫は自分が伝えるべきことを一晩で整理して、透に自分の想いを余すことなく伝えようと思った。
抜けていた力を全身に入れ直して立ち上がると、応接室を後にした。
次で完結となります。
予想以上に長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。