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合図  作者: 望美
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※前作『合鍵』と少しリンクするシーンが含まれます。







翌日、薫は朝から販売促進部とは少し離れた社内キッチンにてパウンドケーキ作りに勤しんでいた。

久しぶりのお菓子作りに精を出しながらも、慣れた手つきで素早く動く身体とは裏腹に心はどこか上の空であった。



昨日きちんと自分の気持ちを認めたものの、まだ当の本人とあれから顔を合わせていないことが、その大きな原因だった。



材料をかき混ぜながらも、薫は自然と透のことを考えてしまっていた。



(…藍川先輩はもう出勤したのかしら…。)



まず透に会ったら、自分の気持ち云々はひとまず置いておいて、開口一番に昨日の件についてしっかり感謝の気持ちを伝えようと、薫は今朝から意気込んでいた。


それなのに透の出勤を確認する暇もなく、今日一日は社内キッチンにこもって、前例のないパウンドケーキのデコレーション案を作るようにと、課長からのお達しが出てしまったのだ。


言い出しっぺであり、製菓も一通り修得している自分が適任なのはよくわかっているが、せめてお礼を述べる時間が欲しかったと薫はため息をついた。



(…勢いのあるうちに伝えておかないと、ボロが出ちゃいそうなのに。)



誰かに恋愛感情を持つのが始めての薫は、想いを自覚した相手とどう接したらいいのか、わからなくなりそうだったのだ。

今まで透とどんなふうに話していたかすら、もう思い出せない。


顔を合わせるのが恐い反面、顔が見たいと思う気持ちもあり、自分の中の複雑な乙女心をもて余していた。


自分の中の女々しい部分がたまらなく恥ずかしくなった薫は、気が付けば材料を混ぜる手にどんどん力が入っていた。

ボールの中のパウンドケーキになる予定の生地が、激しく泡立っているのが目に入って、慌てて手を止めた。


少々混ぜすぎた生地を長方形の型に流し込み、軽く型を叩きつけて生地のなかの余分な空気を抜く。



その作業に集中していたせいで、薫はいつの間にか背後に立っていた人影に気付くことが出来なかった。







「…へぇ、手慣れたもんだね。」



急に先ほどから頭を占めている張本人の声が耳に入ってきた薫は、驚きすぎたせいで高い位置から生地の入った型を落としてしまった。



「あっ、藍川先輩!!」



幸いにも溢れることなく着地したその型がガチャっと調理台とぶつかる音が響いた。



「課長に様子見に行くように言われたんだ。…それにしても、すごいな。俺はこうゆうの才能なかったから、出来る人尊敬するよ。」



感心した様子で透は調理台に広がる道具や材料を見ている。

突然のことで、今朝から考えていた感謝の言葉もどこかへふっとんでしまった薫は、その間もあわあわと口をパクパクさせていた。



(…お礼を、とにかくお礼を言わなきゃっ!)



「あっあの、昨日はありがとうございました!」



「…結局は、君のアイディアのおかげで何とかなったんだよ。」



「いえ!…藍川先輩のおかげで、取り返しのつかないことになる前に自分の過ちに気付けました…。それに、突拍子もない提案を現実にしてくださったこともです。本当にありがとうございました。」



思っていたよりもすんなりと、伝えておきたかったことが口から出てきた薫は心のなかでふーっと胸を撫で下ろした。

その上、挙動不審になることなく透の顔を見て、自分の中の感謝を伝えられたことに薫は小さな達成感を覚えた。








「…なんだか、薫ちゃんに初めてちゃんと俺を見てもらえた気がするな。」




そう言って、急に穏やかな笑みを向けた透に、薫は自分の胸が高鳴ったのを感じた。





「ちょっとは、俺のこと考えてくれる気になったかな?」



今度はイタズラっぽくそう言った透に、薫は自分の顔が紅潮していくのを感じて、慌てて顔をそらした。

いつもの素っ気ない態度とは違う反応が返ってきたことに驚いた透も言葉を失ったようで、二人の間に沈黙が流れた。



(…どうしようっ!今の反応は絶対変に思われたわっ!)



今まで通りに出来ない薫はどうやってこの空気を変えればいいのか検討もつかず、黙ったまま時間が過ぎていった。





なんとも言いがたい空気になったところに、ふっと透の笑い声が聞こえた。





「…うーん、そっか。……本当に、君は可愛いね。」



「…っ!?」



「ごめん、ごめん。怒らないで。もう調子いいことは言わないよ。」



何かに納得したような相槌を打ったあと、さりげなく甘い言葉を続けたと思ったら、途端に冗談っぽく終わらせた透のおかげで、空気が変わったことに薫は安堵した。

しかし、どこかで物足りないような気持ちを持っている自分にも気付いていた。



「作業も順調そうだし、俺はそろそろ仕事に戻ろうかな。」



そう言った透は、機嫌が良さそうにヒラヒラと手を降りながらキッチンを後にした。



(…もしかしたら、今のは素直になるチャンスだったのかしら…)



今更ながらに先ほどの空気に身を任せて自分の気持ちを伝えてしまえば良かったかもしれないと思った薫だったが、後の祭りであった。

次にいつ訪れるかわからないチャンスまで、この気持ちをもて余したままでいるのが不安になったところで、オーブンのタイマーの音が鳴り響いた。

その音で我に帰った薫は、慣れた様子で先に焼いておいたものを取り出して、先ほど生地を流し込んだ型と入れ替える。

焼き上がったもののでき具合を確認するために、少し冷ましてから切ったケーキの切れ端を口にした。



(…んー、なんか違うわ。)



不味くはないが、自分の予定していた味と違うケーキに納得のいかない薫はすぐに手元のレシピを見直した。

分量や焼き時間も間違っていないはずなのに何故だろうと思った薫は、昼休憩の時間が近いことを確認すると、すぐに手元のスマホを取り出した。



(こういうときは、葵に聞くに限るわ。)



昔から薫の作ったお菓子を食べ続けていた妹の葵は、薫が理由がわからず上手くできないときにはいつも的確なアドバイスをくれるのだ。


薫の会社から数駅離れた大学に同じく四月から通い始めた葵に、今日の夜に試作品の感想を聞かせてほしい旨のメッセージを送った。ついでに、葵と同じアパートに住む幼馴染の誠にもメッセージを送っておく。



(誠のやつ、葵に強引に迫ってないといいんだけど…)



二人の関係が進展しているのかを気にしつつ、送信が完了したことを確認すると、薫は次のケーキが焼きあがるまでに食事を済ませようと食堂へと向かった。





―――――





無事に定時で上がれた薫は、待ち合わせ場所の駅で葵と落ち合うと、そのまま葵アパートへと向かった。


久しぶりに会えた可愛い妹と、新生活の近況を報告し合いながら会話に華を咲かせていると、いつの間にかアパートに着いていた。


二人で会社帰りに買ってきたデリバリーのお惣菜を平らげると、薫はおもむろに例のパウンドケーキを取り出した。



「…で、これなんだけど。」



一応企画の詳細はまだ社外秘のため、薫は葵にはそれらしい理由をでっち上げて感想を求めた。



「しっとりしてて、すごい美味しいよ。……でも、なんかお姉ちゃんのお菓子っぽくない、かな…。」



予想通りの反応に、やっぱりね、と呟いて、薫ははーっと深くため息をついた。

原因を考えてみるものの、薫には心当たりがなかった。




「…お姉ちゃん、なんか悩んでることあるんじゃないの?」



「えっ…!?どうしてわかったのよ!?」



突然、お菓子作りとは違うところで核心をついた一言を放った葵に驚いて、すぐに透の顔が浮かんでしまった薫は自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じた。



(まさか、悩んでるとお菓子作りに影響が出るのかしら!?)



確かに両親と進路の件で揉めてしまったときも、お菓子作りが上手くいかなくなった時があったことを薫は思い出した。



「…私で良かったら、話…聞くよ。」



相談に乗ってくれると言った葵の言葉に甘えて、薫は透とのことをぼんやりと話すことにした。



「うーんとね、なんていうか…ちょっと保留にして待っててもらってることがあって…結構時間が経っちゃってるから、もう意地になってるというか、素直になれないというか…」



先ほどの自分の表情から恋愛にまつわる悩みだとバレてしまっているだろうと思った薫は、気恥ずかしくなって言い淀むような話し方になってしまった。









「きっと、相手の人はずっと待ってるよ。早く答えを伝えた方がいいと思う。」



しばらく経ってはっきりとした声でそう言った葵に、薫はハッとさせられた。



(……確かに、グズグズしてるのは私の性に合わないわね。)



「…そうね、いつまでも逃げてちゃダメね。こんなことで、お菓子作りに影響でちゃうなんてバカらしいわよね。」



自分に言い聞かせるようにそう言った薫は、背中を押してくれた葵に礼を言うと、明日にでも透に自分の気持ちを伝えることを決意した。


一度心を決めてしまえば、どうして早く決断しなかったのかと思うほどに心が軽くなった薫は、今度は葵の番だとばかりに、誠との関係に探りを入れることにした。




久しぶりに会った妹と門限ギリギリまで会話を楽しんだ薫は、晴れやかな気持ちで社員寮へと向かったのだった。





やっと、前作『合鍵』と繋がる部分を書けました。

そちらも読んでいただけると、姉妹のすれ違い具合を楽しんでいただけるかと思います。

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