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✳︎前作『合鍵』の主人公・葵の姉の薫のお話です。
「薫ちゃん、いい加減告白の返事くれない?」
そうニコニコとした笑顔で言ってきた藍川 透に、高坂 薫は、いつものようにため息をついて返事をした。
「いや、藍川先輩こそ、いい加減からかうのやめてください。そろそろ女性陣の目が怖いので。」
「えー、本気なんだけどな。まぁいいや、これ入力お願いね。」
告白を軽く流されたというのに、笑顔を崩さず飄々とした態度の透は、書類を渡すと自分のデスクに戻っていった。
渡された書類を見つめながら、薫はまたため息をついた。
(…一体どういうつもりなのかしら。)
四月に入社して以来、何度も先ほどのように告白まがいのことをしてくる透の真意が掴めない薫は、困り果てていた。
どう考えてもただの戯れであることは、あの態度から明白であるのに、この一連のやりとりはあの夜から毎日続けられている。
どうして自分にだけこんなことをされるのか、薫にはまったく心当たりがなかった。
(…けど、今日もあの顔してた。)
そして、不本意にも何度もこのやりとりをしているうちに、薫はあることに気付いてしまったのだ。
まるで合図かのように、透が一瞬切なそうな表情を浮かべてから、このやりとりが始まることに。
その合図に気付いてしまったことで、まるで自分のせいでそんな表情をさせている気がしてしまい、薫はさらに頭を悩ませることなってしまったのだ。
(…ダメダメ、仕事しよ。)
わかるはずのないことで悩むよりも、まずは目の前の仕事を片付けようと、薫は渡された書類に目を通し始めた。
――――――――――
薫は、今年の三月に専門学校を卒業し、四月からこのモリヤ製菓株式会社に勤めている。
ずっと憧れていた会社に入社出来た上に、希望していた販売促進部に配属になったときは、薫は天にも昇る心地だった。
(…努力してきた甲斐があったわ!!これで、一歩近づける!)
そんなことを考えながら、薫は入社式の後に挨拶のため配属先の販売促進部に向かっていた。
この会社では販売促進部に力を入れていて、各部署で功績をあげたような優秀な社員が集まっている。
新入社員で配属されるためには、入社前に出題される課題で優秀な成績を収めたものだけだとの噂を聞いていたので、薫は自分を褒め称えたい気持ちになった。
「今日から、この販売促進部で一緒に働いてもらうことになった高坂 薫さんです。じゃあ本人から挨拶してもらおうかな?」
柔和な笑みを浮かべた部長に促されて、薫は口を開いた。
「今日からこの部署に配属になりました、高坂 薫です。まだまだ至らない点ばかりだとは思いますが、やる気だけは負けない自信があるので、どうぞよろしくお願いします!」
そうハキハキとした物言いで新入社員にしては少し強気な物言いをした薫に、まわりは少しクスッとなったが、温かい拍手で歓迎してくれた。
「じゃあ、指導担当は篠原さんにお願いしようかな。他のみんなは仕事に戻っていいよ。」
部長が名指しした女性社員が了承の返事をすると、薫の方に歩いてきた。
「私、篠原 梓っていいます。これから、高坂さんの指導係になるから何でも聞いてね。」
茶色のボブヘアを携え、優しそうな笑顔を見せた梓にどこかホッとした薫は、自分が緊張していたことに気付いた。
「はい、これからご指導よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくね。薫ちゃんって呼んでもいい?その、うちの課長も香坂だから、混同しちゃいそうで。私のことも名前でいいから。」
「はい!もちろんです。梓先輩、よろしくお願いします。」
「じゃあ、俺も薫ちゃんって呼ぼうかな?」
突然横から男性の声がして、薫は振り返った。
そこには、整った顔の男性社員がニコニコとした笑顔で立っていた。
「なんだ、藍川くんか。急に話に入ってきたから誰かと思っちゃった。」
「ごめん、ごめん。なんか女の子二人で楽しそうにしてたから、つい混ざりたくなって。」
「あっ、彼は私の同期で同じ販売促進部の藍川 透くん。うちのエースなの。」
「そんな言い方されると恥ずかしいんだけど。どうぞよろしくね。」
まったく恥ずかしそうな素振りなど見せず、ニコニコとしたままの笑顔で答えた透を見て、掴めないタイプだなと印象を得た薫は、軽く会釈するにとどめておいた。
「じゃあね、薫ちゃん。今日から頑張ってね。」
そう言って去っていった透には、先ほどの会釈を了承の意味だと捉えられてしまったようで、薫は下手に会釈した自分を少し後悔した。
「藍川くんが、自ら女の子に絡みにくるのなんて初めて見たわ。」
「え?」
驚いた様子の梓を見て、薫は理由がわからずつい促すような返事をしてしまった。
「ほら、藍川くんって、あの見た目で仕事も出来るし、おまけに愛想もいいもんだから、それはそれはモテるのよ。
だから、自分から話しかけると勘違いしちゃう女の子多いみたいで、極力自分から話しかけないようにしてるみたいなの。」
「ああ、なるほど。」
流れで聞いてしまったものの、さほど興味のなかった薫は適度な相槌を返した。
「この部署に新入社員で入ってくるの、藍川くん以来だから期待されてるのかもね。」
梓は、頑張れっと薫に向かって激励をとばすと、部署内の案内を始めた。
―――――
一通りの案内が終わると、梓に簡単な雑務を任された薫は、与えられた新品のデスクで黙々と作業をしていた。
「薫ちゃん、ありがとうね。もう今日はいいわよ。」
梓に話しかけられて、薫は顔を上げると時計は定時の5分前を指していた。
「でもあと少しなので、終わらせます!」
「初日からそんなに気張らなくていいのよ。」
そう言った梓は、笑顔で薫の前から書類を取り上げた。
「あっ、そういえば、薫ちゃん今週の金曜日の夜は空いてる?」
「はい、特に予定はないです。」
「薫ちゃんの歓迎会やろうかと思ってるんだけど、どうかな?」
「ありがとうございます。嬉しいです。」
「じゃあ決まり。今日は疲れたと思うからゆっくり休んでね、また明日。」
そう言われてみると、薫は自分がどっと疲れているのを感じた。
(…希望通りとは言え、初めてのことだらけだものね。)
梓の言う通りにゆっくり休もうと思った薫は、まだ残っている人々に挨拶を済ませ、会社から歩いて15分ほどの社員寮に帰っていった。
―――――
薫の住む社員寮は、新入社員に試用期間中に与えられるもので、食堂や風呂は共用で平日の門限も決められていた。
数ヶ月の我慢ではあるが、薫にはあまり居心地のいい場所ではなかった。
「高坂さん、お疲れ様。」
「おつかれ。」
食堂へ向かっていると、名前も知らない男子社員に話しかけられた。
「配属、販売促進部だったんだって?」
「うん、そうだけど。」
薫は、一切その男子社員の方は見ずに、話しかけられた内容に適当な相槌をしながら食堂のメニューを見ていた。
気のない素ぶりがわかったのか、その男子社員はいつの間にか他の社員の元へと行ったようだ。
それを見ていた他の女子社員たちは、コソコソ何かを話している。
(あー、本当に面倒くさい。)
薫は昔から何かと目立つタイプだった。
顔立ちは昔から美人と称されることが多かったし、大抵のことはそれなりに卒なくこなせる器用さも持ち合わせていた。
そんな自分に対する自信は性格にも現れていて、ハキハキと勝気な物言いをしていた。
それゆえ、異性には興味の対象となりやすかったし、同性にはやっかみや妬みの対象となることが多かった。
(…別に、本当に私のことわかってくれている人がいればいいんだから。)
大切な家族や学生時代の友人を思い浮かべながら端の席に座った薫は、早くたくさんの視線から解放されたくて、急いで天ぷらうどんをすすりはじめた。
食事が終わると、まだ人が少ないうちに早めの風呂を済ませた薫は、自分の部屋に入るとやっと一息ついた。
おもむろに机の上に置いてあった箱を開けると、薫は中身のものをギュッと握りしめて目を瞑る。
(…やっと、同じところに来れました。)
まるで誰かに報告するかのように、薫の手の中には、もう使い古されてはいるが綺麗な藍色の塗装がされたボールペンが握られていた。
(…あなたはきっと忘れてるだろうけど、それでもいいの。)
薫はそのボールペンを会社用の鞄に入れると、ベッドに寝転がった。
横になると今日一日の疲労が一気に流れ込んできて、薫はその眠気に抗うことなく目を閉じた。