『始まりのお話』
『……あぁ、もうそろそろだな。』
「そろそろ?」
何がでしょうか。
『ああ。そろそろだ。もうすぐ虹が消える。……この隙間も、閉じちまう。』
そう言ったコウさんの声は、どこか寂しげに聞こえました。
手元を見ると、確かに虹は、最初と比べてだいぶ淡くなっています。
「……あの。隙間が、閉じたら。もう、お会い出来ないのでしょうか。」
『多分な。』
寂しい。
そう思ってしまう位には、私はコウさんと仲良くなったつもりになっているようです。
「……残念です。」
『俺もだ。……ありがとな、付き合ってくれて。』
「いえ。私も楽しかったですから。」
これは本当の事です。
私の知らない色んな事を知っていて、それを惜しみなく教えてくださるのです。
好意しか湧きません。
『“袖触り合うも多生の縁”って言うしなぁ。もしかしたら、ずっとずっと昔に、何かの縁があったのかも知れねぇな。』
そう言うコウさんの声は、徐々に色が抜けて固くなっていくようでした。
不安がわいてきます。
「コウさ」
『上谷神社へ行け。』
「……え?」
呼びかけようとした言葉は遮られ、尚も固い口調で言われたのは、そんな言葉でした。
『冥界への行き方だ。約束しただろう?』
「……はい。」
それは、そうなのですけど。
『あそこは辺域との繋がりが一番強いからな。神主に事情を説明して、樫の木か姫さんに取り次いでもらえ。そうすれば、冥界に行ける。』
音が遠くなるような感覚。
『桜が咲いてたら、そっちでも良かったんだが。もう散っちまってるだろうから、』
「コウさん」
思わず、言葉を遮ってしまいました。
宙に浮いているのに、足元がふらつくような、そんな感覚に不安を感じます。
「コウさんは、」
縋るように口を開いて、けれどもすぐに躊躇い、閉じます。
言ってしまっても良いのか。
ただの通りすがりで、顔見知り程度の関係にしかなれていないだろう私なんかが、そんな。
コウさんの心に、土足で踏み込むような事を。
「~~っ。」
だけど。
でも。
このまま、離れてしまうのは。
「っ、コウさんは、それで良いんですか……?」
ついに言ってしまいました。
こうなったらもう、開き直って、ずかずかと踏み荒らしてやるしかありません。
『仕方ない。仕方ないんだ。』
コウさんは目を合わさず、それだけを繰り返します。
「仕方なくなんてないです。」
根拠なんてありません。
ただの私の希望、願望です。
『いや。仕方ねぇんだよ。いつ、どこに、どれ位居られるか。俺にも分からないんだから。……望んだって、叶うはずが無い。』
『だから、仕方ないんだ。』
“仕方がない。”
その言葉は、確かにその通りなのでしょう。
コウさんの言う通りです。
封じられて、喚ばれる事もなく、自分から接触をはかる事も出来ないのですから。
何度も何度も、私に、そしてコウさん自身に。
言い聞かせるように繰り返されるそれに、ふいに気付かされます。
守り神様程ではないにしろ、この鬼も、寂しがりなのだと。
……ああ。
だったら。
「……あの。私も、そっちへ行って良いですか?」
ぽつり。
自然に零れた言葉は、すぅっと心に馴染んで、そうして、私はやっと自分の気持ちに気付きました。
寂しがりなこの鬼を、一人にしたくない。
「私は、コウさんを一人にしたくないのです。」
そう告げると、コウさんは信じられないものを見るような目で、こちらを見返しました。
『冥界へ行きたいんじゃなかったのか。』
「予定変更です。」
『楽しみも何もない、寂しい所だぜ?』
「寂しくなくなりますね。二人なら、お話が出来ますから。」
『時間なんて流れない。停滞したままだ。』
「私、死んでますし。多分、今と大して変わりません。」
コウさんの、綺麗な黄金の瞳が揺れています。
『……出て行きてぇって言っても、きっと、出してやれねぇ。』
「望むところです。」
『…………』
あと少し、でしょうか。
「……コウさんは、私が話し相手では不満ですか?」
コウさんは答えません。
その代わり、瞳には先程まで無かった、躊躇うような色が浮かんでいる気がします。
「長い時の中で、停滞したままでも。何も残せなくても。」
別に、かまわない。
そう思うのは、いけない事なのでしょうか。
「貴方になら、食べられても良いとさえ思っています。だって――独りは、寂しいでしょう?」
口にしてしまえば、それはあまりにも当たり前の事で、今までの自分は恵まれていたのだと実感します。
だから今度は、私が、コウさんに。
『…………ああ。』
「私も、独りは寂しいです。だから。」
手を伸ばします。
虹の固い感触に阻まれて、この狭い隙間から先に。
コウさんに、届きません。
虹の牢獄。
小さな小さな隙間から、外を覗く事しか出来ない。
独りで居る事に、気付いても貰えない。
これほど綺麗な虹も、今は少しばかり恨めしく思います。
『……』
コウさんの手が重ねられ、その表情は半分程隠れてしまいました。
どんな顔をしているのか。
それは分かりませんが、きっと、まだ迷っているのでしょう。
虹越しの触れ合わない手は、それでも空気を伝ってくる熱で、微かに温かく感じます。
「……料理が得意です。」
「掃除は上手とは言えませんけど、好きです。」
「コウさんのお話ならいつまでだって付き合えますし、苦手ですけど、色々な事、お話したいです。」
「あとは、えーっと……うー……とにかく、今ならお買い得ですよ!」
もう、自分でも何を言っているのかよく分かりません。
『……っ、何言ってんだよ……』
呆れたような、困ったような笑い声が聞こえます。
「私にも分かりません。……必死なんです。本気なんです。冗談なんかじゃない、生温い気持ちでもない。だから、ねぇ、コウさん。」
とにかく、言いたい事は、これです。
「私が幸せにしてあげます。だから、一緒にいましょうよ。」
コウさんは、一瞬、驚いたように目を見開いて、今度はちゃんと、笑ってくれました。
『本当に良いのか?』
「当たり前です。」
苦笑気味に問われたそれに、食い気味に答えます。
これは了承という事ですよね。
それにしても。
「……どう入れば良いんでしょう。」
考えていませんでした。
『大丈夫だ。……了承は取ったからな。』
きょとんと、コウさんの声に顔をあげた時。
『……おいで。《彩月》。』
その言葉と同時に視界が途切れ、次の瞬間には、目の前に困ったように微笑うコウさんの姿が。
コウさんが私の名前を呼ばなかった理由が、ようやく分かりました。
「……やっと呼んでくれましたね!」
薄暗い空間の中。
笑いかけた鮮やかな彼の笑顔は、とても温かなものでした。
* * *
空と虹の隙間には、一人の鬼と、一人の幽霊が棲んでいる。
停滞したまま、ひっそりと。
きっと、殆どの人間に知られる事無く。
暗くて寂しい空間に、居るのは一人ではなく二人。
ほら、もう寂しくないでしょう?
独りぼっちはもういない。
空と虹の隙間 《了》