『虹のお話』
「……あの、今更なのですが、貴方のお名前はなんですか?」
今までは、“鬼さん”や“お兄さん”と、随分とあやふやに呼んでいましたが、段々と気になってきました。
死神さんの名前は訊ねておいて、目の前の彼をスルーしていた私も私ですけれど、そもそも、何故私だけが名乗ったのでしょう。
未だに一度も名前を呼ばれていませんし、訊いた意味はあったのでしょうか。
呼ばれてこそ意味があるのですが。
『ん? ……あれ、名乗って無かったか?』
どうやら彼も気付いていなかったようです。
「はい。」
『そうかそうか、そりゃあすまねえな。久し振りの会話だってんで、すっかり忘れちまってた。』
忘れてしまう程会話に夢中になっていたのか、しなさすぎて忘れていたのか。
どちらも有り得ますね。
祖母の時も忘れていたのでしょうか。
『俺はコウ、ってんだ。』
「コウ、さん。」
『ああ。虹と書いてコウ。まぁ本名は別にあるんだが、あだ名を面白がった奴に定着させられてな。』
「あだ名を。」
本名じゃないんですね。
彼は少し困ったように笑って続けます。
『虹に居るからな。小せえ子が虹さんって呼んだのを、そのまま過ぎるってんで、そいつが読み方変えて、コウ。』
「安直ですね。」
大して変わらないじゃないですか。
『俺もそう思う。その定着させた本人はもうそう呼ばねぇんだが。』
「えぇえ……。」
『嫌がらせのつもりだったんだろう。あいつには毛嫌いされてるからなぁ。お陰で姫さんが俺を喚ばねぇ。』
「それは残念ですねぇ……。……、あの、“よぶ”ってどういう事ですか?」
名前のことにしては少しニュアンスが違うように感じたのですが。
というか、“姫さん” とは誰なのでしょう。
『巫女に封じられたって言っただろう?』
頷きます。
『そいつはただの巫女じゃなくてな。辺域の巫女っていう、世界を繋ぐ楔で、人柱みたいな存在だったんだ。』
「……はあ。」
『よく分からんだろうが、知らん方が良い事もある。詳しくは言わないが、それの何代か後の辺域の巫女が、姫さんだ。』
それなりに理解しておけば良い、と。
『簡単に言えば、俺は姫さんに使役されてる。長い間扱える奴が出なかったんだが、姫さんは久しぶりの栗樹の人間でな。俺達“鬼”を使うのに長けてんだ。』
言葉からは、姫さんとやらに好意的なのが窺えます。
「他にも鬼がいらっしゃるんですね。」
気になったのはそこです。
俺達、という事は、まだ居る、と。
『ああ。俺を封じた巫女はやけに精力的でな。今使役されてる奴の殆どがそいつに封じられてる。』
「そんなに多いんですか?」
『そうだな……俺を入れて十一くらいか。その内の八人はそいつだ。』
「頑張ってますね。」
『すげえよな。今思うと恐怖すら感じるよ。』
余程ですね。
『……他の奴らは、ちょくちょく喚ばれてるみたいなんだよなぁ。』
重いため息と共に、ぽつりと呟きます。
「なんでコウさんは喚ばれないんですか?」
『あだ名を定着させた奴に嫌われてる、って言っただろう。神格を持った樫の木の精なんだが、姫さんの守り役なんだよ。』
「なるほど。」
嫌いな人は近付かせたくない、という事ですか。
『因みに、最初虹さんって呼んだ小せえ子は姫さんな。』
それでは、少しいじったからと言って、あだ名を嫌がる訳にもいきませんね。
『なんで嫌われてんのか、全く分かんねえんだよな。』
「それは困りますね。」
仮に駄目な所があったとしても、分からなければ直しようがありません。
『別に何した覚えもないのにな。』
本当に弱っているようです。
喚ばれないと言う事は、会話の機会が少なくなると言う事を意味しますから、コウさんにとっては一番辛い事なのでしょう。
「……元気を出してください。ほら、今は私が居るじゃありませんか。」
虹が出ている間だけ、という約束ではありますが。
……そう考えると、随分と無責任な事を言ってしまいました。
他にもう少し良い慰め方があったでしょうに、よりにもよってこれとは。
激しく後悔します。
『……そうだな。』
その思いとは裏腹に、コウさんは笑みを浮かべました。
『今はあんたと話が出来てる。封じられてなきゃ、会う事も無かったはずだからな。』
「……」
気を遣われたのでしょうか。
窺うように、コウさんの目を見つめます。
『あんたは、そうは思わないか?』
静かに発せられた問いは、とても穏やかな響きを持っていました。
「……思います。」
何故だか急に恥ずかしくなって、目を逸らして答えます。
『だろう? だからほら。もっと話そう。俺は話し好きなんだ。』
「知ってます。」
くすりと笑みが零れます。
「さて、何の話をしましょう?」
私はどちらかと言えば聞く側なのですが、コウさんが望むのなら、少しは頑張ってみたいと思います。
『そうだなぁ、何でも良いぜ。好きな物でも、苦手な事でも、何でも。』
だったら。
「それでは、私の家族の話なんかはどうでしょう?」
『ああ、是非聞かせてくれ。』
コウさんはつたない私の話を、優しく笑って聞いてくれました。
丁度良いタイミングで笑ったり、相槌を打ったり。
とても話しやすいです。
楽しい。
会話する事をそう感じたのは、初めてかもしれません。
続けば良い。
この楽しい時間が、もっともっと続けば良いと。
そう思います。
だけれど。
楽しい時間というものは、あっという間に過ぎ去るもので。
話に一段落がついた頃。
――コウさんの瞳が、微かに揺れました。