『見つけたお話』
「……わ、あ。丸い虹なんて、初めてです。」
……どうせ今は迷子なのです。
少々遊んでいても問題はないでしょう。
「綺麗……ああでも、これでは根元が掘れませんね。」
すうぅっと近付き、触れてみようと、手を伸ばします。
すると。
「えっ……」
手の平に、確かに冷たく固い感触が。
「まさか触れるとは……」
思っていませんでした。
幽霊だからでしょうか?
よく分かりません。
ですが、触れるのなら、座ることも出来そうですね……。
見れば、うっすらと厚みが存在している事が分かります。
「とてもファンシーですね。」
心が弾みます。
鼻歌でも歌ってみましょうか?
いえ、流石にそれは恥ずかしいので止めておきましょう。
自制心は大切です。
つぅ、と、虹の表面を撫でます。
すべすべとした手触りのそれは、予想に反してさらりとしていました。
少し冷たいのがとても気持ち良く、思わず擦り寄るように顔を近付けます。
その時。
「……?」
視界に、空でも虹でもない色が映り込みました。
虹の内側、空との境目に細く引かれた、暗い灰色。
……虹に灰色があるなんていう話は、聞いた事がありません。
指を伸ばし、その灰色をなぞってみると、どうやらそこは窪んでいるようです。
もしかしたら、隙間が空いているのかもしれません。
そんな馬鹿な事を考えて、覗き込むように顔を近付けると――
「えっ……」
灰の向こうの、深い藍に似た闇の中。
浮かび上がる、鮮やかな橙。
そこに、彼はいました。
『ん?』
外側に軽くはねた長い橙の髪を翻して、その人はこちらに振り返ります。
髪の隙間から覗く、少し尖った耳。
前髪から突き出た、人には無い、肌色とは少し違った色味の鋭く小さな突起。
しまった。
瞬間的にそう思い、体が強張ります。
やけに遅く時間が流れているような感覚の中。
とうとう、鋭く細められた、黄金の双眸と目が合い、思わず息が詰まりました。
一瞬の沈黙。
そのすぐ後、瞳から鋭さが消え、柔らかい雰囲気を纏い、その人は微かに破顔しました。
『おや、あんた、俺が見えるのかい。』
低めの、よく通る男声。
隙間の向こうの彼は、心なしか嬉しそうにこちらに近付いて、そう問います。
「あ、ええ、はい。」
それに対し、あまりの雰囲気の変わりように呆気にとられた私は、素直に答えました。
先程は少し失念していましたが、この隙間からでは何も出来ないでしょうし、なんだか悪い方には見えませんから、大丈夫……でしょうか。
『本当か! いやあ、良かった。ここ最近ずっと一人でな、退屈してたんだ。』
「そ、そうなのですか。」
随分とフレンドリーな方ですね……。
『ああ、そうなんだ。なあ、嬢ちゃん。見たところあんたは幽霊のようだが、急ぎの用事でもあるのかい?』
「いいえ、特には。ただ……」
『ただ?』
「どこへ行けば良いのか、分からなくて。迷子なんです。」
『……く、ははっ!』
こちらは困っているというのに、何故か笑われました。
心外です。
『そうかそうか、迷子か!』
“迷子”を何度も繰り返し、依然として、隙間の向こうの彼は楽しげに笑っています。
「……。……見たところ、貴方は鬼のようですが、何故そんな所に?」
『ん? ああ、いつだったか、随分と昔に、ちょっとばかり暴れていたところを巫女に封じられてなあ。』
ちょっとした仕返しのつもりでした問いは、笑いながらあっさりと返されました。
少し引きます。
「どんな暴れ方したんですか……。」
『さてなぁ。言っただろう? 随分と昔だって。何をしたかは覚えて無い。悪いな。』
「あ、いえ。」
封じられる程の悪さをしたというのに覚えていないとは、果たして本当なのか、そういう性格なのか。
どちらにせよ、今、私と会話をしている彼の柔らかな雰囲気からは、にわかに信じられません。
「あの、貴方は鬼……です、よね?」
もう一度、ちゃんと確認してみます。
『ああ、そうだ。』
「随分とあっさり認めるんですね。」
『まあなぁ。隠したところで意味は無いからな。見れば分かるだろう?』
「……そうですが、怖がって逃げてしまうかもしれませんよ。」
『そう言ってる時点で、それはもう有り得ねぇな。それとも何か、あんたは逃げたいのかい?』
「……いいえ。」
なんだか負けた気分です。
『まあ、そう膨れなさんな。』
「膨れてません。」
『そうかそうか。』
楽しげに笑う彼からは、こちらをおちょくっている様子がありありと窺えます。
『それで、なぁ、あんた。その度胸を見込んで、ちょいと頼みが有るんだが。』
「……なんですか。」
『そんなに怒るなって。何、簡単な事だ。しばらく俺の話し相手になっちゃくれないか。』
そう言えば、最初に、退屈していたとかなんとか言っていましたね……。
「……しばらくとは、いつまででしょう?」
『そうだなぁ、この虹が消えるまで、だな。』
「短いですね。」
『まあな。だが、あんたをこっちに連れ込む訳にも行かねえし、ちょっとでも話せたらそれで十分だ。』
「……私、あの世へ行きたいのですけど。」
『行き方くらいなら教えてやれるぞ?』
知っているのですね。
「話し相手になったら、教えていただけますか?」
『ああ、もちろん。』
「それでしたら、はい。」
それに、私も会話は二日振りですし、そろそろ誰かとお話したかったところです。
『そうか、やってくれるか。』
余程会話に飢えていらしたのでしょう。
彼は満面の笑みを浮かべました。
『さて、何から話そうか。時間は限られているからな。』
実際、いつまでこの虹が出ているのか分かりません。
中にいる彼なら分かるのでしょうか?
『あぁ、そうだ。』
「?」
比喩として首をひねっていると、思い付いたような声に遮られました。
そして、今度は本当に首を傾げた私に、彼は問います。
『あんたの名前は?』