大陸暦637年
大陸暦637年は絶望と共に幕を開けた。
1月3日、未だ新年会の酒に酔っていたシレジア上層部の耳に東大陸帝国の帝位継承規則改訂の問題が入った。それによると、現皇帝イヴァンⅦ世は女児にも帝位を継承する気があり、イヴァンⅦ世の曾孫から適用される、とのことだった。
多くの貴族は単に驚き「西大陸帝国との関係性がどうなるか」という一点に話題が絞られた。だが、その話題は上層部に行くほど薄らいでいき、別の問題が浮上していた。即ち、皇帝イヴァンⅦ世によるシレジア征服意志である。
カロル大公はこの情報を宰相府の執務室で聞いた。
「……」
大公はその情報を副官から聞いても、別段感想らしいものを零さなかった。
「殿下、その……」
「聞いている。下がっていい」
「ハッ、失礼します」
だがその時の大公の表情はとても険しく、副官の背筋を凍らせていた。
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一方、王女殿下は意外と冷静だった。理由は、先月オストマルク帝国大使館から連絡があったためである。
「ユゼフさんがオストマルクとの協力に賛成したのは、こういうことなのでしょうね」
「えぇ。ですが彼もここまで早く事態が動くとは予想しなかったのではないですかな」
オストマルク大使館から寄せられた文書には、在オストマルク帝国シレジア王国大使館の駐在武官ユゼフ・ワレサからの伝言があった。曰く「このまま行けばシレジアは1年以内に滅亡する」とのことだった。
「マヤ。帝国が軍事行動を取るとしたら、いつになると思いますか?」
「イヴァンⅦ世の本気度によりますが……普通に考えれば4月でしょう」
「理由は?」
「まず東大陸帝国も我が国も、2月までは涙も凍るほどの厳寒期です。その時期に部隊を動かすのは、兵の士気にかかわります。行軍してる間に凍傷になる者もいるかもしれません」
「なるほど。では4月に限定した理由は? マヤの理屈で言えば凍土が完全に融け、泥も完全に乾く5月以降の方が良いと思いますが」
シレジアは国土が全体的に平坦であるため雪はあまり降らない。唯一豪雪地帯と呼べるのはカールスバート国境付近、ズデーテン山脈の麓である。そのため殆どの地域では少量の雪が降り、土が凍るだけだ。その土が融け始めるのは、気温が上昇し氷点下になることが少なくなってくる3月以降。
だがこのままでは地面は泥の状態である。泥に足を取られ、行軍に必要な体力は倍になる。そして泥となった土が完全に乾くのは、春を迎えた5月以降となる。
「5月まで待ってしまっては子が生まれてしまいますよ」
「つまり?」
「イヴァンⅦ世は子が生まれる前に決着をつけたいのでしょう。女児が生まれてしまえば反発を招くのは必至。しかし支持を得た状態で女児が生まれれば、多少はマシとなるでしょう。皇太曾孫の身の安全のためには、これが最適というものです」
「なるほど。どうやらマヤの意見はおそらく正しいでしょう。問題は……」
「問題は?」
「我々がどう動くか、ですよ」
エミリア王女は行儀悪く机に肘を付き、思考し始めた。
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この問題は、当の東大陸帝国内部でも混乱を招いていた。特に、セルゲイ派貴族の慌てようは喜劇に類するものと言っても過言ではなかった。
「陛下は何を考えているのか! この時期に外征をするなど、正気の沙汰ではない!」
「それに女児に帝位継承だと!? 女が国を治めることができるとお思いか! これだから老人の考えは度し難いのだ!」
彼らは公然と皇帝批判をしていた。彼らが伯爵以下の中小貴族であれば不敬罪で捕まるところだ。
そんな中、セルゲイ派貴族筆頭の軍事大臣レディゲル侯爵は冷静だった。
「想定内だ」
彼は大臣執務室で皇帝官房長官ベンケンドルフ伯爵と会談していた。
「本当に?」
「あぁ。まぁ、予想より少し早かったのは認めよう。だが、それでもシレジアに対する軍事行動の日程は変わらない」
「軍事的な観点で言えば、4月以降が理想、ということですな?」
ベンケンドルフの言葉に、レディゲルは首肯する。
「うむ。問題は誰が実戦部隊の指揮をするか、だ」
皇帝イヴァンⅦ世が自らの支持を得るために外征をするのであれば、人選も自然と決まってくる。つまり自分に対して支持を表明している貴族の将校に指揮させるのが良い。開戦までおそらく3ヶ月、その間に立場を決めかねている有象無象の帝国貴族がどう出るかによって、この戦争の趨勢が決まる。
「宮廷内で流れる噂によると、皇帝陛下自らが指揮をするとのことですが」
「どこのバカだそんな噂を流したのは。あり得ん話だ」
「さてね。で、当事者である軍事大臣としては、誰が適任かと思われますかな?」
「そうは言っても、師団長以上の人事権は皇帝陛下が決めるだろう。勅命だしな」
「つまり、旅団長以下の中級指揮官の人事権はあるわけですね?」
「……まぁな」
つまり、軍事大臣は懇意にしている中級指揮官に武勲が立てやすい師団に配置したり、逆に気に食わない者を無能の師団長の下に置くことができると言うことである。
「そういえば、先のラスキノ戦争で大失態をしたサディリン少将が赦しを請うていますね」
「そうだな。伯爵家の人間と言うことで4ヶ月の減俸処分としたが、本家では肩身が狭い思いをしていることだろう」
軍人にとって、減俸処分というのは単に給料が減るだけの話ではない。減俸処分を受けた者は、ある一定期間昇進が見送られる。サディリン少将の場合、伯爵家の人間であることから昇進も早く何もなければ今夏には中将に昇進されることになっていた。しかし今回の処分によって昇進が少なくとも3年は遅れ、さらには家名が傷つき伯爵家自体にも迷惑が掛かっているようだ。
「サディリン伯爵は立場を決め兼ねていたようですが、どうですかな? この際、戦争に負けても武勲を捏造しやすい部隊に配置してみては。息子はともかく、伯爵は使える人間です」
「そうだな。検討しよう。ただ、皇帝陛下がどういう人事をするか次第だ。場合によっては、サディリンの息子には名誉の戦死を遂げてもらうしかない」
「ですな。戦死となれば彼も大将。伯爵も無駄飯ぐらいの息子を切り離せて、なおかつ帝国に殉じた英雄を手に入れて満足するでしょう」
人の生き死にをまるで玩具のように弄ぶのは、権力を握ったものだけが許される特権のようなものである。
その後もレディゲルとベンケンドルフは暫く中級指揮官の選定に入っていた。誰を英雄にし、誰に恩を売るかを決めていた。
暫くした後、大臣執務室の戸がノックされた。
「誰だ」
「エル・シャクラ少尉であります」
「入れ」
シャクラは、レディゲルの次席副官である。まだ若いが気遣いが利く有能な副官で、レディゲルが最も信頼する人間の一人である。
「大臣閣下、私はこれで失礼します」
「あぁ、伯爵。ご苦労だった。また次の機会に」
ベンケンドルフは、入室してきたシャクラと入れ替わりに退出した。シャクラはベンケンドルフ、次いでレディゲルに敬礼する。
「で、何があった?」
「はい。皇帝陛下が御呼びです。至急宮殿に来てほしい、と。おそらく、今度の作戦の事かと思われます」
「……わかった。支度する。手伝ってくれ」
「ハッ」
津田先生にTwitterで紹介されて家の中で滅茶苦茶雨乞いしました




