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大陸英雄戦記  作者: 悪一
オストマルク帝国
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大陸史 その4

 オストマルク帝国が独立したのはシレジア王国独立の約80年前、大陸暦373年の事である。初代皇帝の名はユーリ・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー、通称「ユーリ大帝」。ロマノフ=ヘルメスベルガーの名の通り、大陸帝国皇帝家であるロマノフ一族に縁のある人間がこの地に新たな国を作った。




 時は大陸暦350年。各地で巻き起こる反乱と戦争によって疲弊していた東大陸帝国で、ロマノフ家の次男としてこの世に生を受けたのがユーリ・ロマノフである。波乱万丈の世に生まれた皇子として、彼は父から経済を学び、10歳違いの兄から軍事を学び、母から社交を学んだ。ユーリは厳しいスケジュールに対し文句も言わず、与えられたことをそつなくこなした。また第32代皇帝の時と違い家族仲は良好で、ユーリ自身も「兄は皇帝に相応しい人物である」と評していた。周囲からは「兄が皇帝となり、弟は宰相となって大陸帝国に再び繁栄をもたらすことになるだろう」と期待されていた。兄弟はその期待に応えるかのように、日々研鑽に励んだ。


 だが、この兄弟の人生の歯車は少しづつ狂い始めていた。


 大陸暦367年。ユーリ・ロマノフは、現在のオストマルク帝国領となる地域であるハプスブルク皇帝直轄領にて皇帝代理総督に就任した。ハプスブルク皇帝直轄領は元々裕福とは言い難い土地であったが、ユーリは総督の任に就くと、今までに家族から学んだ知識を総動員してこの地を開拓した。


 ユーリの治世が安定しハプスブルク領が成長し始めた、大陸暦369年に最初の転機が訪れた。「皇帝不予」である。


 ユーリは皇帝不予の報に際し、帝都に戻ることはしなかった。無論父の事は心配だったが、ハプスブルク領から帝都までは些か遠かった。またハプスブルク領は成長し始めたとは言え、未だ不安定な土地でもある。領民の生活のためには今離れるわけにはいかない。それに、帝都には兄がいる。何も心配はいらないではないか、と。

 その判断が、兄弟の命運を分けた。


 第二の転機は皇帝不予の報から1年後、大陸暦370年の夏。皇帝一族が住む宮殿で火災が発生し、皇帝と皇妃、つまりユーリの両親がこの時死亡したのである。

 原因は「使用人の一人が料理中、魔術を失敗したために火災となった。財政圧縮のために宮殿内の近衛が少なくなっていたため消火と避難が遅れ、皇帝皇妃両陛下が死亡した」、つまりは「失火である」と公式には発表されている。

 当然、宮殿の警備担当が弾劾されることとなるのだが、その宮殿の最高警備責任者がユーリの兄だったのである。無論、第一皇子を糾弾できる者などいなかったが、誰よりも責任感が強かった兄は、両親を一度に失った悲しみとその罪悪感で自殺してしまったと言われている。


 この時点で、帝位継承権を持つ者はユーリ・ロマノフと、そして先々帝の弟の孫、つまりユーリから見て再従弟(またいとこ)にあたるジョハル・ロマノフだけになった。


 この時、ユーリは帝都で起きていることを正確に把握していた。宮殿の火災は失火ではなく放火であり、兄の死は自殺ではなく他殺だったことも。物証があったわけではない。だが彼は全てを察していた。魔術を暴発させるような人間を宮殿に雇うはずがない。それに何より兄は自殺するような人間ではない。そのことを彼は知っていた。もしかすると、父の病気も何者かの仕業ではないのかとも考えた。

 だがユーリには何もできなかった。

 もしこの一連の出来事が謀殺であったならば、次に狙われるのは自分で、そして帝都は死地であると悟ったからである。

 その後、家族の国葬が帝都で行われたが、ユーリは出席しなかった。ハプスブルク領に残り、総督としての仕事をこなし続けた。


 そして20日の空位の後、ジョハル・ロマノフが帝位に着いた。それと同時にユーリ・ロマノフは帝位継承権を剥奪されたが、総督職は解かれなかった。ハプスブルク領が第二の西大陸帝国とならないようにとの配慮だったとされる。


 第三の転機は、大陸暦372年末の事。ユーリ・ロマノフが、リヴォニアの大貴族のひとつ、ヘルメスベルガー公爵夫人と結婚したことである。

 ユーリは確かに帝位継承権を剥奪されたが「皇帝直轄領代理総督にしてロマノフの血筋の者が辺境の反乱軍の有力者と結婚した」という情報は人々に驚きを持って迎えられた。なぜならこの結婚は、間接的な「リヴォニア独立の承認」という意味を持つからだ。

 ジョハル・ロマノフは当然憤慨し、ユーリを総督職を解き帝都への召還命令を出した。が、ユーリはこれを拒否、オストマルク帝国の建国を宣言した。


 独立戦争は3か月も経たず終了した。ヘルメスベルガー家の強力な支援を得られたこと、東大陸帝国が弱体化していたことも原因だったが、なによりオストマルク帝国が「第二の西大陸帝国」と例えられるほどの国力と軍事力を持ち、そしてユーリ自身がその力を如何なく発揮できる能力を持っていたからである。

 ジョハルは3ヶ月という短期間で敗れたという事実を貴族らに非難され、皇帝の座を追われることになった。結局ジョハルは、帝位を生後7ヶ月の息子に譲る羽目になった。つまりユーリは家族から受け継いだ能力でもって、家族を亡き者にした皇帝ジョハルを打倒したのである。


 こうして、ユーリ・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガーはオストマルク帝国を作り、初代皇帝となったのである。

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