理性の底なし沼
私は、祖国を愛している。
そう言うと、私が愛国心に溢れた人間であると思うかもしれない。でもそれを自称することは少しためらいがあるし、他人からそう言われるのはあまりしっくりこない。
私は祖国というよりも、故郷、あるいはそこに住む人たちのことが好きなのかもしれない。
だから私は、国を守っているのだ。
「どうして、お姉様がそこにいるのですか」
故に、私は戸惑ったのだ。
姉、クラウディア・フォン・リンツの行動に。
帝国で大規模な内戦が起きる中、私は皇帝陛下を保護するために宮殿へと侵入した。目的はほぼ達成できたのだが、そこには、そこにいるはずのない人間が2人いた。
ひとりはお姉様。
そしてもうひとりは――、
「この国では客人に剣先を向ける文化があるのかね?」
「申し訳ありません。どうやら妹の教育が不十分だったようです」
お姉様は私に静かに目線を向ける。その無言の圧に、私は剣を下ろすしかなかった。
「――失礼しました、レディゲル侯爵閣下……」
「なに、気にすることはない。むしろこの戦の中、急な来客に丁寧に対応してくれることを願うこと自体が間違っているというものだからね」
その人物は、自慢の髭をさすりながら静かに笑みを浮かべた。
そこにいるはずのない人間、どこからかやってきた「観光客」の正体。それは、東大陸帝国軍事大臣にして元帥のアレクセイ・レディゲル侯爵である。
それほどまでの大物が、なぜここにいるのか。
……いや、決まっている。この人物が、もっと言えばこの人物が仕えている人間が何をしようとしているのかを考えれば、それは自明の理である。
「フィーネ。貴女は帝国8000万の民の血を、生贄の祭壇に捧げる覚悟はあるのかしら?」
「――ッ」
姉のその言葉は、あまりにも強烈だった。
そしてそれは、もはや事態が私たちの手を離れていていることの証明でもあった。
私は今、どうしようもない歴史の大河に呑み込まれようとしているのではないか。
「外の戦も、そろそろ佳境かな」
「えぇ。フィーネがここにいるということは、そういうことなのでしょう」
「それが王国最後の輝きとなることを、奴らは知っているのかな?」
「ふふっ。どうでしょうね?」
お姉様と侯爵は、談笑を続ける。私はその会話の意味を、十分に理解できている。理解できてしまうのが、とてつもなく辛かった。
私は、故郷が好きだ。このオストマルクを守るために生きてきた。
もし故郷が滅びを迎えようとするのならば、私はそれに全力で抗うだろう。たとえそれが無意味なことであっても、犠牲を増やす行為であったとしても。
そのために、他国を犠牲にすることになったとしても、私はそれをするだろう。
だから私は軍に入り、そして情報省の人間として諜報活動に身を捧げている。
……そのはずなのに。
私はお姉様の言葉に抗おうとしている。
胸の奥底で、何かが蠢いている。その正体を知ってはならないと感情を抑えようとするたびに、苦しくて、息が詰まりそうになる。
私は変わってしまったのだろうか――、いや、そんなことはあってはならない。
国家の安全保障を前にして、私情は厳禁だ。国家間に跨るあらゆる関係、策謀は、ほぼ全てが合理の上に成り立っている。倫理や感情なんてものは、強大な力によってただ押しつぶされるのみ。
故に軍は、国家は、理性の化け物となってその力に抗う。
――だから。だから私も抗わなければならない。
「お姉様。このことは、お父様たちも了承済みなのでしょうか?」
「無論よ、フィーネ。というか、他国の大臣とこういう席を設けた時点で、より大きな存在がこの状況を認めているということなのよ」
「…………一応、確認しただけです」
感情はいらない。
この世界は、全て「合理」の上に成り立っている。
――それを頭に叩き込んでもなお、私の胸の痛みは治まることはなく、私は逃げるようにその場から立ち去る。
「フィーネ、このことは他言無用よ」
「…………」
お姉様の言葉に、私は何も返すことが出来なかった。
戦いが終結を迎えたのは、その2月26日のことである。
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内戦が終わった後、私はユゼフ大佐とあまり話すことはなかった。
多忙だった、というのは表向きの理由だ。心の中では、早く会いたいという気持ちが攻め上がってくる。けれど、私の中の冷静な部分がそれを拒んでいる。
私は、彼の前では正気でいられなくなる節がある。恥ずかしい話だが、概ね事実だ。そして今は、彼が怖かった。私が私でいられなくなるような、そんな気持ちになっている。
――月並みな話だ。
悩みに悩んで、ふとそんな感想が浮かんだ。
私の愛する国か、愛する人の国か。
これが英雄物語ならば、ありきたりな展開だ。悪の親玉に選ばされ、主人公がそれを跳ね除けて、希望ある未来へと突き進む。
私はそんな選択を、歴史という大河に選ばされている。――選ばされていると言っても、選択肢はあってないようなものだ。
後者を選んだとしても、どう転んだところで未来は変えることは出来ない。私が英雄物語の主人公ならば、どちらも華麗に救ってみせただろう。
けれど現実には、奇跡も希望もない。
理性と感情と、進むべき未来と進むべきではない未来、希望と絶望の間に挟まれながら私の心はグチャグチャに乱されていた。
忙しさで紛らわそうとしても、まったく仕事に手がつかない。
私は気分転換に、と少し散歩することにした。それが間違いだったと気付いたのはそのすぐ後のこと。
「――あっ」
見つけてしまった。
今までの間で、最も嬉しくない再会になってしまった。
私を見つけたユゼフ大佐が、笑みを浮かべながら近づいてくる。
「フィーネさん、今回の作戦、ありがとうございます」
「……いえ」
私は、つい目をそらしてしまった。
ユゼフ大佐と、目を合わせるのが怖い。私はもう、シレジアにとって――あなたにとって、裏切り者になろうとしている。その事実から、私は目をそらそうとした。
そんな私を見て、彼は突拍子もなくこんなことを言ってきた。
「……フィーネさん。もしあなたが敵から名誉ある死と、屈辱的な生、その二択を迫られたらどうしますか?」
「えっ? それは、その、どういう……?」
どこからか、情報が漏れていたのか?
それとも知らぬうちに声に出してしまったのか。私は暫し混乱した。
「まぁ、答えなんてありませんよ。ちょっとした知的好奇心と言う奴です」
「はぁ……」
ユゼフ大佐の意図を図りかねながらも、私は考える――ふりをしていた。私はもう、この答えに辿り着かされているのだから。
「……名誉ある死、でしょうか。屈辱に塗れて生き永らえる、そんな私の姿は想像できません」
「なるほど。確かに、私にもフィーネさんがそうなる姿は想像できません。逆に私は、名誉ある死を受け入れる自分なんて想像が出来ないので、屈辱的な生を受け入れますね」
確かに、ユゼフ大佐が殉教者として命を捧げる姿が想像できない。
「ユゼフ大佐らしいです」
「えぇ。私たちは、生まれた場所、生きていた場所、背負うべき責務も、何もかも違いますので」
「…………」
その言葉が、胸に突き刺さる。
詰まる息が、思いが、溢れ出そうになってくる。
「ではフィーネさん、あなたの『国家』は、どちらを選択すべきだと思いますか?」
「……それは」
何も言えない。
言ったらもう、私は決断が出来なくなりそうだったから。進むべき道を、見ることが出来なくなりそうだから。
「私は殉教者にはなれません。けれど私は為すべきを為します。フィーネさんも、きっと同じだと思いますよ」
違う。違うんです。ユゼフさん。
「…………はい。大丈夫です」
違う。
違うの。
大丈夫なんかじゃない。
喉から、伝えたい言葉が溢れそうになる。言いたいこと、言わなきゃならないこと――。
でもそうする前に、クラウディアお姉様の言葉が脳内で反響する。
『貴女は帝国8000万の民の血を、生贄の祭壇に捧げる覚悟はあるのかしら?』
その言葉が、私を理性の沼に引き摺り込む。
「大佐――いえ、私のユゼフさん。どうかご無事で」
胸の痛みを抑えながら、ようやく絞り出した言葉はこんな月並みな言葉でしかなくて。
「えぇ。お互いに」
去り行くあなたの背中に、私は押しつぶされそうになる。
誰か。誰か、助けて。
お願いだから、私に選ばさせないで。
――シレジア王国の西隣、リヴォニア貴族連合がシレジア王国に対して宣戦を布告したのは、その1ヶ月後のことだった。




