売国奴
フィーネ・フォン・リンツはこの時を待っていた。
「閣下、先程シレジア王国が宣戦布告もなく我が国に侵略するとの情報が、シレジア王国軍の士官よりもたらされました」
「ほほう。その裏切り者の士官、もしかして私の知っている者か? ついでに、君の婚約者かな?」
「っ……あれはまだ、決まってない話で……」
「決まったような話だと思うが?」
自分の元いた居室よりは住み心地が悪いけれど、生活の不自由はなく内外との連絡も付きやすくなっている内務省地下牢獄に、フィーネは彼女の父と祖父に面会していた。
「コホン。話を戻しますが……依然として、シレジア王国は滅亡の危機に立たされているのは事実です。引き抜かれた部隊と交代でカールスバート王国軍の増援が入るようですが、練度の低下や指揮系統の混乱がありますので、どれほど持たせられるかがわかりません」
「とは言え、元オストマルクの一地方だったカールスバートの部隊によって我が国の危急が救われてしまった方が、こちらにとって政治的なダメージは計り知れない」
オストマルク帝国は、薄氷の上に立つ巨塔である。
各民族の独立志向が今現在のところ沈静化しているとは言え、政変による混乱と、元オストマルクのカールスバートの権威上昇は、独立運動の再燃につながりかねない。
そうなれば、オストマルクは助からない。
「外国軍に助けられるということ自体が、屈辱であることには違いありませんが」
「あぁ、だが国内軍が信用ならん上に私兵では圧倒的に不足している以上、外国軍に頼らざるを得ん。となれば、まだ首に輪を付けているシレジアのがマシだよ」
これは合理的な判断というよりは、単なる消去法に近い。
カールスバートは前述の通り。
リヴォニアは仮想敵国だ。
キリス第二帝国は陸で繋がっておらず、また地理的にも遠い。
ティレニア教皇国は――というより、その国家元首がイマイチ信用ならない。
東大陸帝国は論外。
となれば、選択肢はシレジア以外にはない。
シレジアであれば、小国故にこちらの融通が利くし、恫喝も効く。彼らにとってオストマルクは必要な存在だが、オストマルクにとってはシレジアはあったら便利程度にしか思っていない。
「一応、借りを作ることになりますが」
「その借りをどう返すかの選択権は、我らにある。問題はないさ」
元情報大臣の悪辣さは、底知れぬものがある。
我が父のことながら、フィーネは底なしの悪意に恐怖を抱く。こんなのとタメ張れるのは、あのどこか呑気で且つ悪いことを考える青年くらいしかいないだろう。
「それでお父様。今後の方針は如何しましょう」
「シレジアの動きに合わせ、帝都、及び帝国の権威を奪還する。これが第一目標だ」
「……それはわかりますが、具体的な策は?」
「そうだな、外から戦術的な手段を講じるのはフィーネの思い人の仕事だとして……」
「…………」
フィーネは白い眼を父に向ける。
いい加減そのネタを使って自分をいじるのはやめろ、という目でもある。もっとも、それが父の趣味でもあるのでやめることはない。
「内部からの工作活動については、まぁ我々の得意分野でもある。そうだろう?」
父がそう言うと、フィーネの背後にはいつの間にかもう一人の男がいた。
「……女性の後ろに立つときはせめて何かひとことあっていいと思いますが」
「おっと、これは失礼」
この変人ぶりは相変わらずか、と嘆息する。
ヘルベルト・リーバル、あるいはクルト・ヴェルスバッハ。
元カールスバートの軍人にして、現オストマルク情報省所属の諜報員。
「で、ヴェルスバッハ。首尾はどうなのです?」
「上々、と言ったところですよ。帝国軍内部にも今回の政変に不満を抱いている者は少なくないですからね。あとはタイミングの問題……それと」
「それと?」
フィーネは首を傾げる。
けれどそんな反応をしたのは自分だけだ。ヴェルスバッハは勿論、父ローマン・フォン・リンツも、祖父レオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデンホーフも、彼の言葉に微塵の疑問も口にしない。
「……フィーネ。君は少し、シレジアでの生活に慣れ過ぎたかな?」
「お祖父さま、いったい何を……?」
「まぁ、復習を兼ねて教えてやるとしようか」
クーデンホーフは、老いた唇を手元にあった水で潤せてから口を開く。
「フィーネ。我が情報省が最も優先すべき事柄はなんだね?」
「……それは無論、我が国の国益、帝室、臣民への利益です」
「そうだな。それを確保するためならば、どんなこともやってみせる。それが基本理念だ。たとえそれが達成できるのなら――あるいは達成できないと判断したら――弱小国の首をこの手で刈り取ることも視野に入れる」
「…………! しかし、それは」
「フィーネも、この状況で冷静な判断ができないような娘でもあるまい。でなければ、このバカ息子が君を情報省に招き入れることはないんだから」
「…………」
フィーネは眉間に皺を寄せる。
確かにそうだ。父は寛大なようで、その内ではとてつもなく冷徹だ。全ては自国の為に、人生の全てを捧げてきた。祖父にしても、それは同じ。
また、大嫌いな姉も彼らと同じ。リンツ家全員がそれを理解しているはずだ。
……私だけが、違うのだろうか。
そう、フィーネは考え込んでしまう。
現状、シレジアの敗北は必至だ。
オストマルクが政変を解決し、内政事情を落ち着かせたところで春先の東大陸帝国軍の一斉攻勢までには間に合わない。
いや、間に合ったところで、シレジアを救えるかは微妙だ。
ここに来てかなり分の悪いギャンブルをさせられている。シレジアは、生き延びる道がそこにしかないのだからその賭けに乗るしかないが、オストマルクにとってはその賭けに乗る理由はない。
なにせ賭けに失敗したら、オストマルクと東大陸帝国の仲は決定的に悪くなる。今も対して良いとは言えないけれど、それが一気に悪化するとなるのは国防上まずいのだ。
政変直後で事態の収拾が不完全なまま、あの帝国と戦えということになるのだから。
それなら、シレジアは滅んだ方がいい。
「……しかし事態はどう転ぶかは不明です。それに我らの政変を解決するもっとも効率的で早期な決着はシレジアと協力することは間違いありません。今はまだ、その時ではないかと思います」
「そうだな。今はまだ、その通りだ」
父は深く頷く。
意味ありげな動作だろう。さっさと決断しろという感じだ。
「一応言っておくが、この事情を彼らに話すというのはやめてくれよ?」
「……わかってます」
「なら結構。今後も対シレジア連絡士官としての活躍を期待しているよ、フィーネ」
「…………」
父の言葉に、はいともいいえとも言えない。
彼女は今、思いもよらない岐路に立たされているのだから。
内務省地下牢獄を出て、監視網を避けて帝都を出て、向かう先はこちらにやってくるシレジア王国軍。
「……私に、彼らを……ユゼフ大佐を売れるのでしょうか」
そんな問いに答えられる者は、今はまだいない。




