欺瞞
「前方、敵陣地を確認しました」
「兵力は?」
ユゼフ・ワレサの予想通り、あるいは期待通り、東大陸帝国軍の先鋒偵察部隊が彼の構築した陣地を発見したのは、10月2日のことである。
この時、未だ付近の疎開作戦はその途上にあり、当地に居座る王国軍には彼らを守るための殿として奮戦しなければならない状況にあるのは、帝国軍も承知の上だった。
「少し遠く不鮮明ですが……連隊旗の数から言えば1万以上は確実にいるでしょう。あるいは2万を超えるかもしれません」
「ううむ……厄介だな。奴らが殿だとすれば死ぬ気でここを守るだろう。我々先鋒部隊だけでは分が悪い」
この先鋒偵察部隊の所属は、東大陸帝国軍主力にして皇帝セルゲイ・ロマノフ率いる第Ⅰ軍ではない。決戦を終え休息に入っていた第Ⅰ軍に追いつき、そのまま追い抜いて先鋒の役目を仰せつかったウラジミール・シロコフ大将率いる第Ⅳ軍所属の偵察騎兵隊である。
彼らはセルゲイ・ロマノフより、先行して敵の敗残部隊の追撃及び偵察を命ぜられたのだが、この思ってもいなかった敵の存在には狼狽えた。
なぜならば、第三次ガドネ=ドルギエ会戦によって、シレジア王国軍主力を壊滅させたのだと信じ切っていたからである。
故に偵察部隊からもたらされたこの情報は、第Ⅳ軍司令部に少なからぬ混乱を生じさせたのはある意味においては致し方ないのである。
「バカな、奴らがこんなにも早く態勢を立て直すなんて……いくらなんでも早すぎる」
「敵の数を過小評価していたのかもしれん。こんな迅速に部隊を展開できるわけはない。先の会戦の敗残部隊と、これから動員される兵を考慮すれば、まだ王国には10万以上の余力があると考えるべきではないのか?」
こうして、第Ⅳ軍司令部の面々はまんまと疑心暗鬼に陥る。
東大陸帝国はかつて春戦争において、国力差から言ってまず負けるはずのないシレジア王国に完敗している。その時の記憶が未だに多くの将兵の脳内にこびりついている現状において「敵を過小評価してはならぬ」という戦訓が積もり積もって、敵を過大評価するに至っているのだ。
それに加え、戦場付近では「シレジア王国軍が反攻の準備段階に入っている」という噂がまことしやかに湧き出ていた。所詮は噂にすぎないが、その噂でさえ、第Ⅳ軍司令部の混乱を加速させるには十分すぎる威力を持っていたのは間違いない。
ユゼフ・ワレサが仕組んだ罠には兵力僅か5000しかいないのにも拘らず、その欺瞞工作と内々に秘める猜疑心と王国に対する「恐怖」が、実態以上の幻影を彼らに見せたとしてもおかしな話ではない。
間抜けな話ではあっただろうが。
「全体的な戦略は陛下の御心次第だが……ここは索敵と情報収集に専念して急進は避けるべきだろう。我が軍は兵力に余裕はあるが兵站は心許ない。敵は焦土作戦を行うだろうし、ここで無理強いして突撃し損害を増やすのは陛下の御意ではないだろう」
シロコフ大将はそう判断すると、この「兵力1万以上を有する王国軍陣地」に対して警戒はするものの、攻勢を仕掛けることは一度としてなかった。
こうしてユゼフの思惑通り、兵力に絶対的な差があるのにも拘らず、戦線は一度膠着した。
しかし陣地の前に居座る第Ⅳ軍は兵力10万と圧倒しており、王国軍陣地がハリボテであることを看破された場合、瞬く間に全滅の憂き目に遭うのは自明の理である。
たとえユゼフが陰湿で狡猾で罠を張り巡らせることに快感を得る人物であろうとも、5000で10万を相手取るのは不可能である。
「だからこそ、サラの出番ってわけだよ」
そんな状況にあって、彼はのほほんと友人ラデックに告げる。
サラ・マリノフスカという戦友が彼の思案した作戦に従えば成功間違いなしと信じているからこそだが、それにしても緊張感がないとラデックは思うのであった。
その一方で、問題のサラ・マリノフスカと言えば、彼女は既に陣地にはいなかった。
精鋭第3騎兵連隊は戦場を大きく迂回しており、身を隠していたのである。
そして彼女の目の前には、多くの馬車が闊歩している。この戦場において、こんなにも多くの馬車が闊歩する理由等、ひとつしかない。
これこそ、サラに与えられたユゼフの作戦、騎兵隊の基本戦術である「機動力を生かしたゲリラ戦、通商破壊戦」である。
「――行くわよ、吶喊!」
サラの、あるいはサラの部隊が鬨声を上げる時、それは既に勝利が確定した瞬間である。
精鋭騎兵連隊3000の突撃に耐えられる輸送部隊などどこに居ようものか。
ユゼフから欺瞞作戦と、それに伴う通商破壊作戦の実行が行われた期間は約2週間。その間、サラ・マリノフスカ率いる第3騎兵連隊は陣地と戦場を幾度も往来し、敵の輸送隊列を襲撃する事都合17回。
損害はすべて合わせて103騎のみであったのに対し、帝国軍の輸送路はところどころで寸断される。
途中、護衛の騎兵隊と遭遇した時でさえ、
「敵はのろまよ! 機動力を生かして分断、各個撃破を狙うわよ! 無理はしないでね!」
と、ユゼフから教わった指示を飛ばしてはいの一番に吶喊し、裂帛の気合で以って敵を粉砕したことが1度だけではなかった。
一連の戦いによって、帝国軍第Ⅳ軍が受けた損害は、荷馬車1594台、軍馬1086頭、護衛の騎兵も800騎以上を失うという大損害を受け、襲われた輸送隊の物資の五割は焼かれ、三割はサラに略奪され、残りの二割は現地住民に回収されるありさまだった。
第Ⅳ軍も護衛を増やすなどして対応したものの、神出鬼没のマリノフスカ騎兵連隊を前に有効な打開策をついに打つことはできず、日々増大する輸送隊の被害と、戦力を護衛と警戒に割かれたために正面戦力が希薄になったことで、目の前に敵の反攻部隊が迫っていると信じ込んでいた第Ⅳ軍司令部は大規模な後退を余儀なくされたのである。
またこのとき、第Ⅳ軍の兵站士官が13名が輸送隊の損耗に胃を消耗し卒倒、その内の数名が戦闘不能となり後送されたという。
そして17回目の襲撃を終えて戻ってきたサラがユゼフに対して言った言葉は、
「どうしてあんな雑魚にみんな負けるのかしら?」
だったという。
サラ・マリノフスカが強すぎるだけだ、とは誰も言えなかった。




