旅立つ君へ
ある秋の日。
戦禍迫るシレジア王国の一画にて、出征する夫を見送る妻の姿があった。
「――それと、あぁ、これも必要ですね」
「いやそれは良いんじゃないか? 別に現地で調達できるものだし……」
「何を言っているんですか。補給士官たるラデックさんが忘れ物をしたら大変でしょう?」
「そりゃリゼルの言う通りかもしれないが……」
ラデックと、リゼルである。
既に双子の女児を儲けているこの夫婦もまた、今回の戦争とは無縁ではいられなかった。
エミリア王女の働きかけもあり、ラデックはユゼフやサラと同じヨギヘス大将率いる軍団に所属することにはなったが、それでも絶望的な戦争の前には果たして生き残れることができるのか。
ラデックは目の前に立つ、よくできた嫁と、そして可愛い子供を見て逡巡する。
「……なぁ、リゼル。俺、本当に行ってもいいのか?」
だからこそ、というわけだろうか。
らしくもなく彼は弱気になってリゼルに問いかけた。彼は本心のどこかで、妻に行かないでほしいと言われたい。そんな欲求があったのかもしれない。
シレジア内戦時にもそんなこと言わなかったのに、とリゼルは一瞬驚いた。だがラデックの求めに応じて、リゼルは単純明瞭にして本音を言った。
「ラデックさん。もしあなたが今ここで『やっぱり行かない』なんて言い出したら、私あなたのこと嫌いになります」
「…………」
とびっきりの笑顔で、愛する妻はそう言ったのだ。
それを見たラデックは驚くよりも安心した。
よかった。後ろは任せても大丈夫そうだと。
後方を預かる身である補給士官ラスドワフ・ノヴァク少佐は、そう思って笑い、
「だよな」
と短く答えた。
その言葉を聞いたリゼルも、また安心して笑った。これなら大丈夫、と。
「ふふっ。じゃ、帰ってきたらとびきりの御馳走、作ってあげますね。なにかリクエストはありますか?」
「んー、そうだな。鶏肉のトマト煮がいい。リゼルの作ってくれたあれ、美味しいから」
「麦酒と葡萄酒、どちらになさいます?」
「葡萄酒。ガスート587年度産の赤がいい」
「あら、無茶な注文つけるんですね?」
「無理なのか?」
「まさか」
言って、リゼルは今日一番の笑顔を見せて答えた。
「我がグリルパルツァー商会に揃えられない品はありませんから」
「……なら、楽しみに待ってるよ」
ラデックもその返答に満足して、そしてリゼルと抱き合ってキスをした。
新婚の若夫婦によくある、ごくごく短いキスを終えて、リゼルは愛する夫を送り出す。
「じゃあ、今日もお仕事頑張ってくださいね」
「あぁ。リゼルも、二人の事頼むな」
「はい!」
ラデックは、笑顔を見せるリゼルに後ろ髪を引かれることなく、いつも通り、平和なときのままのように、やや豪華な家を出たのである。
「……さて、愛するラデックさんの為にも、私は今から生活戦争の戦士になります!」
グッと両手で意気込むリゼル。
その後ろで、影の如く控えていたメイドがやや慌てた様子で答える。
「奥様。そのようなことは私たちがやりますので――」
「いいじゃないですか。私もやりたいんです。ロミー、ちょっとやり方教えてくれますか?」
「はぁ……」
この戦争、どちらが勝つのか見物である。
そう内心思わざるを得ないロミーであったという。
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「――というわけだ。ユゼフ、お前もそろそろ結婚しろ」
「なんでそうなる」
ヨギヘス大将の軍団と合流すべく王都を経った俺とサラ以下近衛師団第3騎兵連隊は、途中で補給士官たるラデックとも合流し随伴することになった。
奇しくも、というべきではない。エミリア殿下が超個人的な理由で、こうやって手を回した結果である。
そして合流早々、嫁自慢を聞かされたわけだ。リア充爆発しろ、と言える立場でなくなったことがなんとも妬ましい事か。
「いやな。少し早いがお前も嫁一人を楽させるくらいの稼ぎは十分にあるはずだと思ってな。ま、どちらを嫁にするにせよ、ウチの家内よりは嫁力に劣るだろうが」
「さいで」
結婚、結婚ね。
前世でも結婚には至らなかったと言うかそれを考える相手もいなかった身からすれば、どうしてこうなったのかと己の運命に疑問を感じる訳である。
しかし現状、結婚を考える情勢でもないだろう。
しかも今は戦争真っ只中なんだぞ?
「そんなこと言ってると、一生結婚できんぞ? まぁ結婚だなんて所詮は書類上の形式だから結婚しないで二人とずるずるの内縁関係というのもアリかもしれんがな」
「怖い事言うな、ありえそうだから」
重婚罪なるものがシレジアの法律にはあるし、オストマルクにもある。よって結婚相手は一人しかいないが別に愛人を作ったとしても二股しても罰する法はない。
それに貴族や富裕層では愛人・愛妾・情婦を作ることが半ば公然と行われていることも知っているが……。
いや、そんなゲスの極み男子みたいなことはできない――と言いたいのだがなぁ。
だがそんな俺の漠然とした不安などどこ吹く風のラデックはお構いなしに話を続ける。戦争前にこんな話なんて余程死にたいのか貴様は。しかもこいつ子持ちだし。
「個人的にはマリノフスカ嬢を押したいね。確かにリンツ嬢も女性としては魅力的だけれども、付き合いの方はマリノフスカ嬢の方が長いし、何より年上だ」
「年上って何か関係あるの」
「あるに決まってんだろ。マリノフスカ嬢はもう20超えてるんだから」
日本基準だと30超えてもギリギリセーフだったが……この国でそれを当てはめるのは酷なのか。
「でもフィーネさんは伯爵令嬢だよ。それ無視したら、リンツ伯あたりに何を言われるやら……」
なにせあのリンツ伯である。権謀術数神算鬼謀、謀略と情報戦の専門家にしてオストマルク帝国諜報機関の長たるリンツ伯を敵に回したくはない。
「じゃあリンツ嬢と?」
「それはそれでサラから渾身の一撃が……」
「どちらにせよ地獄みたいだな。難儀な事で」
とか言いつつ、ラデックはニヤニヤとこの状況を楽しんでいる。幸せ一抜けは余裕そうですね……。
そんなことを思いつつ、かなり前で連隊を先導しているサラと目があった。一応手を振ったら「フンッ」と言いたげな顔をしてそっぽを向かれてしまったが。
「……まさかマリノフスカ嬢、この距離でこの会話が聞こえてた、ってことはないよな?」
「サラの地獄耳ならあり得る」
「だとしたら、地獄はすぐ近くにあるみたいだな」
ハッハッハ、と笑ってごまかすラデック。でも残念だな。こんな会話をしている時点で君も処刑対象だと思うよ。
「ま、そんなことになったのはお前の責任だ。早い所マリノフスカ嬢とくっつくなり、リンツ嬢と婚約決めちまえば後は面倒がなかったのに、同時に好きになったと本人たちに伝えるんだからな。まったく罪作りな男だねぇ……」
「仕方ないだろ、本当のことなんだから……」
そんなくだらない、久しぶりの会話をしながら、第3騎兵連隊は東へ進む。
だがこの時すでに、戦争の第一幕が既に上がっている事を知ることになるのは、だいぶ先のこととなる。




