宣戦の儀式
大陸暦639年7月20日
東大陸帝国帝都ツァーリグラード 帝国軍軍令部特別大会議室
皇帝が出席することを前提に作られたその会議室は広大で、豪華な装飾と母なる祖国と皇帝に忠誠を誓った勇敢なる将軍たちによって構成されている。
しかしその中に、ただ一人場違いな人物がいた。
「――カロル・シレジア大公。貴殿の協力と勇気に感謝しよう」
その人物、後世「裏切り者」の代名詞となるカロル大公に、皇帝セルゲイ・ロマノフは本心から感謝の意を伝えた。
「勿体ないお言葉でございます、陛下」
「卑下することはない。貴殿の選択は、誰が見ても恥じるべき行為であるのにも拘わらず、それを知りつつなお私に助力を申し出たのだからな。感謝くらいはするさ」
皮肉のような、そんな言葉である。
カロル・シレジアはこの日、祖国を裏切った。
……いや、正確に言うのであれば、祖国を売った。
彼が大公から、文字通り売国奴へと転化したのは、そう複雑な理由があるわけでもない。
祖国で権力を握る兄フランツへの不信と、大局的な歴史の転換点を感じ取ったこと。そしてなにより、彼の目の前に立つ人物、第60代皇帝セルゲイ・ロマノフに対する忠誠心。
「大公、あの時の問い。まだ答えを聞いていなかったな」
それは彼らが初めて出会った時の質問。
国家が滅びを免れ得ぬ時、国家として選択すべき道は何か。
無論、国家としては「滅びを免れ得ぬ」状況を作るべきではない。だがシレジア王国にそれを求めるのは、大陸暦630年代は波乱に満ちていた。
救いがあるとすれば、エミリア王女派閥が国内外で力を示し始めたことだが、それでさえ、カロルには滅亡へと突き進む姿にしか見えなかっただろう。
カロル・シレジアの選択はあの時、セルゲイ・ロマノフと出会った時、あるいは兄フランツ・シレジアと決定的な破局を迎えた時に訪れたのかもしれない。
「――国家が滅びを免れ得ぬ時、やらねばならぬのは国民、臣民の安全を確保することです。そもそも国家とは、民衆を守る口実として生まれた組織なのでありますから」
カロルは明瞭に答える。
国家が民を守るためにあるのなら、民を守って滅びるべきである。単純にして明確な答えであり、ある種の言い訳であったかもしれない。
「我が国は、貴方が皇帝になると決まった時点で滅亡が決まっていました。陛下と出会い、私はそれを確信したのです」
「それ以外の道はなかったのかな? 他国の救援を求めるなり、自国の力を高めるなり、方法はあっただろう」
「無論、考えました。ですが、陛下の国に滅ぼされるのが最も幸運な道であると、私は理性的に判断したのです。陛下は、その技量と才覚がおありです」
出会った時、まだ子供だったセルゲイ・ロマノフに対してここまで忠誠を誓ったのはなぜだろうと、カロル自身が思うことである。
言ってしまえば、セルゲイには他人を引き付けるカリスマがあったのだろう。
そのカリスマの源泉は、偏に、彼の持つ広角的な視野と未来を見据える力と言うべきもの。
「些か買いかぶりすぎると思うがね。私が貴殿の期待を裏切り、蛮行の限りをシレジアに尽くすとは思わなかったのかね?」
「思いもよらぬことです。そのようなことをしても、陛下にとっては銅貨一枚の得にもならないことなど、陛下自身が思っている事では?」
その問いに、セルゲイは明確に答えず、ただ笑った。
それだけで、彼にその気がないことがありありと見える。少なくとも、カロルはそう感じた。
「だからこそ、私は陛下に忠誠を誓いました。シレジアの臣民を統べるのはシレジア王家ではなく、あなたであるべきと考えたのです」
「カロル大公自身が統べる、という方法もあったはずだが?」
「残念ながら、私にはその器量も、覚悟もありませんでしたので」
言って、カロルは俯き自嘲する。
兄フランツとの確執がある中でも破綻寸前の亡国の宰相として国家を支え続け、その最終段階になって屋台骨を引き抜いた男が何を言うか、とも、セルゲイは思うことでもある。
セルゲイにとってしてみれば、カロルの放つ言葉はわからない。
皇帝セルゲイは征服者である故に、カロルのような裏切り者の存在は、今後のシレジア統治に大いに役立つものであるからして、その行動を深く追及することはしない。
だからこの問答は単なる個人的興味であるのだが、問えば問う程、カロルの行動は理解できるものではない。
売国奴の精神とはこういうものなのかと、セルゲイの疑問が深まるだけの問答となる。
臣民を守るために、祖国を売る。
それを誰にも相談せず、ほぼ独断で行動する。盟友クラクフスキ公爵の力を借りて、共に裏切り者と罵倒されながら、彼はついに売国奴となり、今こうして皇帝と会っている。
カロルの器量と才覚を以ってすれば、他にも道があったのではないか。
後世の歴史家と同じように、セルゲイもまた考えざるを得なかった。しかし既に賽は投げられている。後戻りなど出来るはずもなく、セルゲイにとって後世の歴史家の評価など取るに値しない。
「……では大公。ここでもう一度、部屋の中にいる全ての者に聞こえるように宣言してくれ」
「畏まりました」
カロル・シレジアはそう言って、皇帝セルゲイ・ロマノフの面前にて跪く。
「私、シレジア王国大公にして国王の代理人たる宰相カロル・シレジアは、祖国を暴力的手段によって不当に占拠するフランツ・シレジア並びにエミリア・シレジアによって王位と祖国を奪われました。故に私は、陛下と、陛下の軍隊に、私の祖国復帰への助力を要請します」
と。
その言葉に、本心はなかった。
暴力的に奪ったのはカロル・シレジアである。――肯定。
これは、建前。
セルゲイ・ロマノフが、東大陸帝国がシレジア王国に対する軍事行動を正当化するための、ひとつの儀式なのである。
「――よろしい。卿の要請を受諾する」
カロルの要請に対する返答も、予め用意されていた茶番。
そして事前に準備されていた作戦に基づいて、彼の軍隊が動く。
「聞いての通りだ諸君。シレジア王国宰相カロル・シレジア大公の正式な要請によって、我々はシレジア王国に対して正当なる行動を起こす」
セルゲイは立ち上がり、集まった諸将に対して告げる。
「諸君。正当なるシレジア王国を救うべく、第330作戦計画に基づいて行動を開始せよ! ――尚、言うまでもないことだがこれは正義の戦争である。故に不正義な行動は許されない。良いな!?」
「「「ハッ!」」」
全員が一斉に声を挙げ、皇帝の言葉の意味するところを理解する。
その一方で、これまでの一連の「不正義」に関して、ささやかな皮肉な感情が心の中で渦巻いたことも確かである。
「よろしい。では――全軍、行動開始せよ!」
皇帝にして遠征軍総司令官セルゲイ・ロマノフが、声高らかに告げた。
それが、シレジア王国に捧げるレクイエム第一小節であった。




