拝啓、尊敬する敵国へ
639年、ある夏の日。
東大陸帝国帝都ツァーリグラード行政地区の一角に軍令部がある。
その軍令部の中で最も広い会議室において、この日重要な会議が行われた。
皇帝セルゲイ・ロマノフが出席する御前会議。
議題は、新たなる戦争である。
新たな戦争と聞いて、会議に参加する高級将校はその全員が標的となる国を一致させていた。つまりそれは亡国間近のシレジア王国であり、世界新秩序確立に向けた皇帝の計画の第一歩であるとも理解していた。
だからこそ、セルゲイは多く語る必要はなかったと言える。
「――という次第だ。貴官らの忌憚のない意見を聞くべく、今回の会議を開くことになった」
この言葉を放った時の、セルゲイの心中は先帝イヴァンⅦ世の失態だった。
イヴァンⅦ世は、自分の下卑た計画のために急な出征を思いつき、そして碌に意見を聞かず無様に負け散った。
軍人としての武名もそこそこにあるセルゲイであるが、しかし自分がこの世で最も軍事的才覚に満ちた軍人であると事故を過大評価しているわけでもない。
故に、彼は周りに意見を求めることを恥としなかった。
そして誰かにとって不幸なことに、彼の周囲には優秀な軍人が集まっていたし、彼もまた彼らの意見が正しいかどうかを判断できるほどの知能を持っていた。
「貴官らの意見を聞く前に、まず私の考える戦略を述べよう」
セルゲイはまだ若い身である。だがそれを臆することなく、むしろ「教えてやろう」と言った態度まで取っている。
それはたぶん、「勝てるだろう」という慢心があるにはあるのだろう。
しかしそれでもまだ、彼は「絶対に勝てる」と慢心してはいなかった。戦場に絶対などないことは、戦争を直接見た彼はよく知っている。
「現在、我が帝国は豊かとはいえない。軍事改革に関してもその途上であることは、それを主導してきた私が一番よく知っている。だがこれ以上、隣国シレジアが力を持つ前に、あるいは復活する前にその息の根を止める必要があると私は判断した。そこで、今回の戦略である」
言って、彼は一同の目を見る。
半分は「若造」を見る目であり、もう半分は「皇帝」を見る目である。軍人としてのセルゲイを見るものはほぼ皆無であった。
故に、彼はその評価を覆さなければならない。
「最終的な目標はシレジア全土の制圧だが、それを実行するに当たりいくつかの戦略目標を掲げた。その第一次戦略目標は、シレジア王国唯一の軍港『グダンスク』である」
誰もが予想だにしていなかった言葉を、セルゲイは口にした。その時の帝国軍諸将の気持ちは計り知れない。
イヴァンⅦ世のシレジア出征、春戦争と呼ばれたそれにおいては、王都シロンスク、最大都市クラクフ、東部最大都市ヴィラヌフが重要目標とされていた。だからこそ今回も全部ないし一部が最優先目標たるだろうということは誰もが考えた。
しかし、グダンスクとは予想外である。
続く彼の言葉も、グダンスクを最優先とした理由、そしてその地を攻勢発起点としてかなり子細に戦略を語った。つまりそのことは本気と言うことである。
セルゲイは説明し、諸将は首を傾げながらも、その合理的な理由を見出した。
「――以上だ。なにか質問はあるか?」
聞き終わる頃には、納得した。
セルゲイ・ロマノフは、間違いなく帝国史上最も軍事的才覚に溢れた皇帝となるだろうと。
だが納得しない者も確かにいた。
「……よろしいですか」
その一人が、ウラジーミル・シロコフ大将であった。
シロコフ大将は、かつて少将としてラスキノ独立戦争に従軍し、そして戦後、敗戦の責によって左遷されていた軍人である。
勇猛というよりは慎重で、攻撃よりも防御を得意とし、地味で堅実な作戦を好むと言う、帝国軍の中にあっては奇抜な軍人である。
セルゲイはそんな彼の有能さに気づき、大将に昇進させた後自らの戦列に参加させた。
「シロコフ大将、なんだ?」
「はい。グダンスクを第一戦略目標とする、陛下の意見に異議はありません。確かにこれが成功すれば、戦争の趨勢は一気に決まるでしょう。しかし問題は、その過程にあります」
言って、シロコフは地図を眺めながら説明する。
「国境沿いにあるアリートゥスからグダンスクまでは、通常行軍で20日程度、強行軍で行っても14日の行程となります。戦力に絶大な差があるとは言え、これは無視できません。兵站上の問題は当然として、戦術的にもかなり損害が出ると思われますが……」
「貴官の意見に誤りはない。確かにその問題は余の考えていたことでもあるが、無用な問題でもある」
シロコフの意見が出ることを、セルゲイは始めから予想していた。
むしろその言葉を出させるために、彼はあえてそのことをぼかしたのである。諸将に、自分の能力を見せるために。
「――と、仰られますと?」
聞き返すシロコフの言葉を、セルゲイは短い言葉で黙らせた。
それを聞いたシロコフは――いや、そこにいた全ての人間が理解した。
その作戦であれば、間違いなく取れるだろうと。
そしてさらに、セルゲイは念を入れた作戦案も提示する。
「この作戦を確実に成功させるためには、シレジア王国軍に対してそれを察知させないようにすべきである。彼の国は衰えたりとは言え、戦争と言う際にあっては根こそぎの動員をしてきてもおかしくはないし、外交上の助力を各国に求めるかもしれない」
セルゲイのその不安は、的外れではない。そのどちらも、春戦争の時にシレジアが行ったことであるから。
特に他国の助力は、現在の東大陸帝国にとっては痛手だ。特にオストマルク帝国に対しては、その対策を考えなければならない。
既にこの時セルゲイは外交的な工作によってオストマルク内部を掻き乱していたものの、軍事面においても手を打とうとしていた。
「敵にグダンスク攻略を悟らせないために、私は愚鈍な皇帝として振る舞う必要がある。若さ故に調子に乗った、哀れな皇帝として。そこで私はあえてシレジアに時間的猶予を与え、かつ今回の作戦の一部を意図的に外部に漏らす」
そのセルゲイの言葉に、ロディオン・ガイダル少将が悲鳴に近い声で叫んだ。
「なっ……陛下、本気ですか?」
「本気さ。無論、グダンスクについては語らないがね。貴官らを信頼しているよ」
それは信頼ではなく、殆ど脅迫に近かった。
なにせ敵にグダンスク攻略がばれた時点で、裏切り者が会議参列者の中にいることがばれるのだから。それは本当に裏切り者となっている人物にとっては、このことを外部に漏らしにくくする予防的な効果がある。
「それはそれとして、だ。陽動作戦として、私自らが前線に立つ。そのことは私自らが公表する。そしてどこにいるかも、あえて情報を漏らす。そのことによって、一発逆転を目指すシレジア王国軍の衆目を私に集中させるのだ」
「陛下、それはあまりにも危険です!」
「勝つためだよ、ガイダル少将。危険は承知の上だ。しかし危険を恐れて後ろでふんぞり返るようなイヴァンのようなことはしたくないのでね」
「……」
セルゲイは本気だった。
自らの胸を敵に晒してまで、彼の国を、シレジアを滅ぼそうとしている。
そこまでする理由は、それほどまでにあの国を警戒しているから――ではない。
どちらかと言えば、尊敬しているからである。
イヴァンⅦ世の出征は確かに無謀な戦争だったが、かと言って勝てない戦争ではなかった。彼我の戦力差を考えればわかること。
それをたやすくひっくり返して見せたシレジア王国を、セルゲイは尊敬している。
だからこそ彼は、危険を冒してまで最善を尽くそうとしたのである。
「彼らは今度も、あらゆる手段を尽くすだろう。だから私も、あらゆる手段で以って彼らを出迎えなければならない」
そう、セルゲイは高らかに宣言した。
この会議の情報の一部が、皇帝官房治安維持局の手によって意図的に、且つ自然な形でシレジア王国側に漏らされたのは、6月13日のことである。




