十日間の戦い ‐1日目 前哨戦‐
大陸暦639年3月15日。
トルンに近づく大公派軍の軍勢を見た時、俺は確かこう言ったはずだ。
「……あ、これ負けたわ」
そこには、王女派軍全ての戦力を投入しても戦力劣勢になるとわかるくらいの人の群れがあった。
「第71偵察騎兵隊の報告によれば、敵の総数は概算で7個師団で7万。ここ、トルンに向けて街道上を北進している模様です」
「予想外とはまさにこのことかな」
偵察隊からの嘘偽りないその報告に、ヨギヘス中将は嘆息するしかなかった。
トルンに立て籠もる我らが王女派の戦力は4個師団、4万人。対する敵は7万人。
当初想定では、ヨギヘス中将率いる師団が敵を有利地点にまで引き摺りだし、ローゼンシュトック大将が率いる別働隊が敵の側面を討つ作戦だったのだが……。
「無理ですね、これ。事前の作戦計画が全て台無しです」
「そうだな。無理という言葉は使いたくないが、今日限りは使おう。これは無理だ」
ヨギヘス中将がそんなことを言ってしまうくらいには、戦力差は絶望的。ほぼ倍違うのだから当然だ。これだと、多少の戦術的工夫は何の意味もない。
しかも敵の指揮官は、王国軍総司令官ジグムント・ラクス元帥だという。絶望的なシレジア=カールスバート戦争でも戦線を支え続けた良将だ、戦力的に優勢なのに半包囲されただけで瓦解するような指揮は取らないだろう。
「……閣下、ここは大人しく後退すべきです」
「それは言うまでもないだろう。ローゼンシュトック閣下にもそれを伝える……が、問題は既に敵の目の前だと言うことだ。ここで普通に後退すれば敵の追撃を受けて、乱戦状態のままトルン市街に攻め込まれるだろう」
「市街南側外縁の市民には避難をさせていますが、それでも市街戦は避けたいですね。市街戦ではなく、防城戦であれば地の利を生かせます」
この戦力差だ。敵の攻撃を躱すには撤退をするか都市に立て籠もって籠城するしかない。
不幸中の幸いだがトルンはヴィストゥラ川沿いの町。季節が春だから川は増水している。渡河にはかなり手間取るから、完全包囲はしにくい地形だ。
「我々に有利な防城戦に引き摺り込むべく、秩序を以って後退するとしよう。ローゼンシュトック司令に連絡して、呼吸を合わせて後退するんだ。上手くいけば、功を焦って突出する敵部隊を叩けるかもしれない」
「はい」
これが、トルン攻防戦最初の命令。最初から逃げ腰というわけだ。格好がつかないが、やるしかない。
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「敵軍、後退の兆しを見せています」
その時、ラクス元帥率いる大公派軍7万は、確実にトルンに近づいていた。端々まで統率のとれた軍勢は、烏合の衆ではなく完全なる軍隊で隙がない。これはラクス元帥の実力や人望もさることながら、彼の部下や大公派に居残った優秀な士官らのおかげでもある。
「――閣下、これは絶好の機会です。突撃を具申いたします」
「いや、敵は逃げているのではなく整然と秩序だって後退しているのだ。敵も余力を残しているだろうから、無闇な突撃は敵の罠にはまることになるだろう。それに敵の前衛は、この絶望的な戦力差にも関わらず機動力を生かしてよく守っている。余程の指揮官が率いているのだろう」
そして彼の慎重な指揮は、その人望差も相まって功を焦って突撃するような輩を完全に封じ込めている。
「しかし敵を整然と市街地に逃げ込ませてしまえば、長期戦を覚悟せねばなりません。野戦となっている今こそ敵の戦力を可能な限り叩くべきでは」
「……そうだな、そうしよう。しかしそのまま叩くのでは芸がないし、敵も何か策を練っているだろう。彼奴らは戦力劣勢下で戦うことを知っているのだからな」
ラクス元帥は本来、防御戦を得意とする将官である。
彼が近年立てた武勲も、そのほとんどが防御戦。だが防御に秀でるということは、どう攻められたら困るというのも熟知しているということに他ならない。攻勢時における指揮と作戦に覇はなくとも、彼の部下はそれを持ち合わせていた。
12時30分。
参謀の意見を採用したラクス元帥が手を打った。
麾下の戦力を二分したのである。
別働隊は、ラクス元帥の部下のライゼルスキ少将が率いる軍団である。
「我が軍団はこれより反時計回りに戦場を機動、敵別働隊を牽制しつつ敵前衛の左側背を討つ。急げ!」
この軍団は機動力に優れていた。ラクス元帥が直接率いる軍団は無理をせず敵を圧迫しつつその場に釘付けにしている。その隙に、ライゼルスキ軍団はその機動力を生かして敵前衛、王女派ヨギヘス師団を討とうとする。
この動きは自然、王女派軍の別動隊、トルン防衛軍団率いるローゼンシュトック大将に察知される。
「させるな! 敵別働隊のさらに側面を攻撃して、奴らの行動を阻止する!」
ローゼンシュトック大将はすぐにそう判断したものの、彼の参謀は指揮官の判断に疑問を持った。
「しかし閣下、ここで飛び出せば我々も敵の攻撃にさらされることになります。危険です!」
「だがここでじっとしていればヨギヘス師団は全滅だ。たとえこれが罠だとしても、見捨てるわけにはいかん! 前進しろ!」
ローゼンシュトックのその声と共に、軍団は当初予定を変更して敵別働隊の側面を討つべく機動を開始する。しかし大公派軍の方が機動力が上であり、ローゼンシュトック軍団が敵を攻撃の射程内におさめた時にはさらなる危機が襲い掛かっていた。
参謀が案じた、ラクス元帥の罠にはまったのである。
「よし。このまま敵前衛に攻勢を仕掛けて一気に押し戻させろ。その後、時間差で以って敵別働隊を討つ!」
王女派前衛の側面を討つと見せかけて機動するライゼルスキ軍団は見せ餌だった。しかも簡単に討ち取れる餌ではなく、そうしないと味方が壊滅してしまうという性質の悪い餌だった。
ローゼンシュトック軍団は突出する。そしてそのタイミングで、ラクス元帥は目の前にいるヨギヘス師団に攻勢を仕掛けたのである。
当然、ヨギヘス中将は後退の命令を出す。
「ダメだ。ここではもう戦えない! 後退しろ!」
「おいヨギヘス。それだとローゼンシュトック閣下の軍団が――」
「わかってるよタルノ! わかってる!」
ヨギヘスは、焦りを見せた。いつも飄々として戦場を見る指揮官が、焦っていた。それは劣勢下にあってなお敵に何らかの一撃を加えたいと考えてしまったヨギヘスのミスでもあった。
「ヨギヘス、落ち着け。お前らしくもないぞ」
「……そうだな。俺らしくなかった」
悪化する戦場において、ヨギヘスは深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻す。数秒して、彼はいつもの彼に戻る。
「……ふぅ。すまなかったな。それで、この状況どうすればいいと思う?」
「まずは突出する形となるローゼンシュトック閣下の軍団を何とかするしかない。でも、こちらも無理は出来ない。身代わりになるのは最善策じゃないぞ」
「そうだな……。君はどうだ? なんか良い案があるかい?」
そこでヨギヘスは、師団の参謀の中で一番若い人物に意見を求めた。
「……敵が目標をローゼンシュトック閣下の軍団に切り替えたところで此方の後退を止め、敵に対して上級魔術や弓矢による遠距離射撃をして、ローゼンシュトック軍団の撤退を支援すべきかと思います」
「なるほど。だとすると、今はまだその時ではないか」
「はい。敵はまだ、こちらに注意力を割いています」
ヨギヘス師団が完全に撤退したと敵が判断するまで、ローゼンシュトック軍団に無理をさせるというのが最善手だった。
ヨギヘスは麾下の部隊を「混乱して逃亡し統制を失ったように見せかける」という難易度の高い演劇を敵の猛火が降り注ぐ中でする羽目になったのである。
14時20分。
ローゼンシュトック軍団が大公派軍ライゼルスキ軍団とラクス軍団の十字砲火の中に閉じ込められかけ、少なからぬ損害を受けていた。
「敵前衛、統制を失ってトルン方面に逃走する模様」
「わかった。そちらはもう無視して、敵別働隊に向け一気に畳み掛ける。全面攻勢だ」
ラクス元帥麾下、5万の軍勢が一斉に方向を転換したその瞬間こそが、ヨギヘスの努力が報われた瞬間である。
「ようやく、だな。全魔術兵隊、弓兵隊攻撃開始。敵の指揮系統を出来るだけ掻き乱せ!」
混乱の中にあって統制を失い逃亡すると思われていたヨギヘス師団からの、秩序だった攻撃に、さしものラクス元帥は動揺した。その動揺は麾下の部隊にも広がり、一瞬、その動きが鈍る。
しかしすぐに、ラクス元帥は正気を取り戻した。そしてついでに、笑みも浮かべた。
理由は単純。
「なるほど。あんな詐欺まがいの手を打てるのはヨギヘスの若造だろう。通りで手間取るはずだ」
自他ともに認める、王国軍の若きホープであるヨギヘス中将。
内戦とは言え、そんな良将と戦えるというのは武人の誉れである。
そして同様のことは、ヨギヘス中将も考えていた。
「……やっぱり気に食わない爺さんだ。ここまでしないと罠にはまってくれないなんてな。おかげでかなり被害が出てしまったよ」
内戦だというのに、彼らは笑みを浮かべていた。
16時45分。
ローゼンシュトック軍団はライゼルスキ軍団を手早く後退させた後、ヨギヘス師団の支援攻撃を受けてトルン市街への後退に成功。ヨギヘス師団もそれに合わせて秩序を以って後退した。
対する大公派軍は、野戦において王女派軍の戦力を大幅に削ぐことに失敗したが、トルンの南側にまで接近して半包囲する事には成功した。
張り巡らされた知略の数に比べれば、一日目の両軍の戦果は僅少だった。
王女派軍の損失は、死傷3000。対する大公派軍のそれは1400。
つまり、僅かに彼我の戦力差が広がった形となる。戦術的にも戦略的にも、王女派軍はラクス元帥の慎重な指揮の前に敗れた。
そして元帥は、その職責に相応しい大胆さも当然持ち得る。
「明日、敵が態勢を整える前にトルンに対して攻勢を仕掛ける。準備せよ!」
こうして、1日目が終わった。




