転換期
大陸暦638年に始まり、翌639年まで続いたシレジアの内戦。
その「転換期」となったのはどの時点なのかというのは、長年シレジア史研究家にとって格好の研究材料となってきた。
無論、シレジア史の中ではこのシレジア内戦こそが転換期とも言えるのだが、その転換期の中の転換期にロマンを求める者は多い。どの戦いで内戦の趨勢が決まったのか、あるいはどこの国の意志によって決まったのか。当事者でさえわからないであろう「転換期」を、研究者たちは追い求める。
そのことについて一昨年、国立ブウィスカヴィッツァ大学国際政治史研究院のアレルド・アザーロフ教授の学説が注目を浴びた。
学説では、それは旧来の様に、転換期を「戦い」や「外国勢力」に求めなかった。
では何に重きを置いたのか。
それは大陸暦639年1月3日、シレジア王女派が前年末に奪取したトルンで行われた、第一王女エミリア・シレジアによる演説である。
後世、演説が行われた小さな教会の名を取って「バシリカ演説」と呼ばれているソレ。
齢17のエミリア王女が、公衆の面前で初めて行った公的な演説として知名度はあるものの、それがシレジア内戦において重要なファクターではないと考えられていた。
しかし近年、焼失したと思われたバシリカ演説の当時の様子を記した教会日誌の原本の一部が発見されたのである。その原本の中には、従来シレジア史研究において参考にされた教会日誌の写本にはない描写がいくつかあった。日誌を書いた牧師曰く、
『王女殿下の演説に立ち会った人の数は、多すぎて数えられるものはなかった。トルンの市民だけではなく貴族や王国軍の軍人、外国からの使節、さらには叛乱軍の捕虜でさえ、初めて聞く王女の声を求めて集まった。
教会の中は勿論、教会周辺の街路や広場にまで人が集まった。
そして集まった者に対して逞しく商売をする女性や、王女の言葉を教会の外にまで伝える役目を買って出た軍人の姿も見た。
王女の言葉は一言一句違わずトルン市内を駆け巡り、翌日には市中のあらゆるところに演説の全文が掲載された壁新聞を見ることが出来た。
演説は、私も教会を管理する牧師として参加した。
殿下に祈りを捧げ、笑みを浮かべる殿下の御姿を拝見することが出来たのは、私の人生の中で最も素晴らしい瞬間だったと思う。』
注目すべき記述だった。
つまり、エミリア王女の影響力というのが無視できない程に強かったことを示している。それはトルン市民のことではなく「外国からの使節、さらには叛乱軍の捕虜でさえ」エミリア王女の演説を聞いていたという事実。
牧師は捕虜が王女の演説を聞いていることに驚いていたが、アザーロフ教授はその前、外国からの使節という部分に驚いた。
当時シレジア内戦において、他国は当初静観していた。
だが内戦真っ只中で、交通の便が決していいとは言えない状況の中、外国からの使節が派遣されていたことは驚くべき事実なのだ。
なぜか? この演説が、予定されていなかった突発的な事態だったからだ。
教会日誌に記載されていたある事件がそれを裏付けている。その事件とは原本と写本両方にあり、昨年公開された映画『王女の演説』(監督:レフ・パパエフ)でも描写された有名な事件である。
『12月25日。
二人の男女が教会にやってきた。何処かで見たことがあるような人物だったが、私は思い出せなかった。なにか喧嘩をしていたようなので声を掛けようとしたが、しかし女性が話す言葉が、普通ではなかった』
この記載の後に、当時のエミリア王女が未来について悩み、怒りを爆発させたことなど書かれていた。それに対して、もう一人の人物が、その悩みを解決した。そんな内容である。
二人の男女のうち「女性」と言われたのがエミリア・シレジアであることは、12月31日の日誌で牧師が明らかにしている。
そしてもう一人の人物が誰であるかは諸説ある(有力なのは、エミリア王女に忠誠を誓っていたマヤ・クラクフスカという女性である。彼女は男勝りな性格であったと伝わっており、牧師が男と見間違えたのではと言われている)が、重要なのはそこではない。
12月25日にもなって牧師は王女の素顔を知らなかった。件の女性が王女だと牧師が知ったのは12月31日であり、その時になって初めて「急な話だがこの教会で演説をしたい」という要請が軍から上がっているのである。
そして当たり前だが、当時の交通と通信の技術力では12月31日に開催が決定された1月3日の演説会を遠く離れた他国に招待することなど不可能である。
つまり「外国からの使節」は、内戦当初から、あるいはごく初期の内にエミリア王女に接触していたからである。
そして「外国からの使節」は、エミリア王女の言葉を母国に持ち帰った。エミリア・シレジアここにあり、という言葉と共に。
牧師の言葉通りであれば、演説時における王女派の組織力はかなり侮れないものとなっていると受け取ったはずだろう。
このときの使節は、エミリア・シレジアが懇意にしていた、当時列強の一角であったオストマルク帝国であることは容易に想像がつくが、この国も当初は内戦に介入する様子はなかった。それは帝国内でも意見が分かれていたためであることは周知の通りである。
春以降エミリア王女派がカロル大公派に対して攻勢を仕掛け、それを見たオストマルク帝国が決断したというのが今までの通説だった。
しかし、順序が逆だったらどうだろうか。
答えは、単純明快なものとなるだろう。
エミリア・シレジア王女は、17歳という若さで、言葉によって歴史の流れを変えたのである。
――『英雄の生きた時代』 ハーヴェイ・タルノフスキ著、地球出版、1157年 より抜粋




