リンツ家の決断
それは、1ヶ月程暦を遡った11月の半ば。
キリス第二帝国との仮の休戦協定も結ばれていないような中、また現地での戦勝記念を祝う宴会にも出席できないような忙しさの中、ユゼフ、サラ、そしてフィーネの3人は、現地司令官との挨拶もそこそこに、帝都エスターブルクへと馬車を走らせた。
その途中、帝国第二都市イシュトバーンで、フィーネはユゼフとサラと別れた。ここで別れた方が双方共に最速で目的地に着くからである。
「フィーネさん、お願いします!」
「少佐こそ。――御武運を!」
彼らの別れは短かった。それだけに、事態は急を告げていた。
フィーネが帝都に到着したのは11月25日。
彼女が見たのは、隣国シレジア王国の内戦によって混乱する市民によって溢れかえった帝都の姿――では、当然なかった。そこにあったのはいつもと変わらない、彼女が忠誠を誓う皇帝陛下の街だった。
謀略駆け巡るスパイ小説のように、暗殺者や工作員による妨害も特になかった。
それだけに、フィーネは少し混乱していた。
「……情報省における分断工作は大規模でもないのでしょうか。それとも、裏で大きく動いている? 内戦における影響が少ない……国境地帯ではどうなっているのでしょうか」
しかし、そう考えたところで彼女がこの時点で持っている情報は、シレジア王国王女派がやや偏屈な方法で送ってきた手紙だけである。
情報を集めるために、彼女は彼女の家族に可及的速やかに会う必要があった。
しかし情報省に裏切り者がいるとなると、情報省庁舎は今や敵の総本山である。そこで会うのは難しい。だがフィーネにとって幸運だったのはフィーネが帝国において良家の娘であり、そしてフィーネの家族は論ずるまでもなく皆その道のプロだ、ということである。
「御者さん、リンツ伯爵邸まで」
短くそう告げると、公用馬車の御者は彼女の言葉に裏切ることもなく、彼女を伯爵邸まで運んだ。そして伯爵邸にて、彼女は待った。
家族の帰りを。
多忙を極めるリンツ伯爵家の人間が揃って伯爵邸に揃ったのは、翌11月26日のことである。
フィーネの父にして情報大臣、ローマン・フォン・リンツ伯爵。
姉にして、外務大臣秘書官を務めるクラウディア・フォン・リンツ。
会話の内容は当然――、
「で、どこまで行ったんだフィーネ。順調なのか?」
「ちょっと女らしい顔つきになったし、もう処女は捧げたの?」
「ふたりとも何を言っているんですか!!」
親バカと姉バカだった。
ある意味当然の話だが、帝国の名誉ある貴族の当主と次期当主としては亡国寸前の隣国の将来よりも娘(妹)の将来の方が心配なのである。
「お父様、お姉様、状況はわかっているんですか!」
「なに。聞いてみただけだ。別に詳しい報告は求めていないよフィーネ」
「じゃあ最初から言わないでください!」
「うーん、別に否定もせずただ頬を赤らめたこととフィーネの視線を観察するに導かれる結論は――フィーネは戦場でワレサちゃんを……」
「お姉様、さすがのお姉様でもそれ以上言うと殴りますよ」
「フィーネに殴られるならそれはそれでありかなー」
暴走するふたりの思考を前に、フィーネは溜め息を吐くほかない。まったく、自分は何の為に危機感を感じて帝都に戻ってきたのだろうと。
フィーネは脱力し、うなだれるように顔を手で覆った。
だが、そんなフィーネを見て父ローマンと姉クラウディアは満足したように微笑んだ。
「ふっ。やっと肩の力が抜けたようだな」
「……えっ?」
その言葉に、フィーネはハッとして父の顔を見る。
リンツ伯爵家の当主たるローマンは、その肩書に相応しく、優雅に紅茶の香りを嗜んでいた。そしてその脇で、クラウディアはメイドの持ってきた洋菓子をフィーネの前に差し出す。
「フィーネに言って効果があるかはわからないけれど、こういう時こそ冗談を言って緊張を解すことが大事よ。変に気張りしすぎたら、何をしても上手くいかないからね」
「……お姉様」
ローマンとクラウディアが伯爵邸に戻って見たのは、シレジア内戦という危機感を前にしていつになく焦り、震えるフィーネの姿だった。
故に彼らは、その緊張を解すために、あえて柄にもない事を言ったのである。
……のだが、
「――でもお姉様の場合、絶対本気でしたよね?」
「なんの話かなー……」
フィーネの詰問する目に、クラウディアはさっと目を逸らした。
珍しく、姉妹の攻守が逆転した瞬間である。
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「これが、現在わかっているところの『裏切り者』の名簿だ」
そう言ってローマンがテーブルに置いたのは「情報省監察部作成」と表紙に記載された資料である。情報省監察部は、情報大臣リンツ伯爵から特大の信頼を寄せている人間だけが所属している「リンツ伯爵家の密偵組織」であり、省内防諜も担当する。
ただし設立されたばかりで、今回の内戦には間に合わなかった。
「しかしよくこんなに調べ上げましたね、お父様」
「いや、どちらかと言えばヴェルスバッハの手柄だな」
「……それなら納得です」
クルト・ヴェルスバッハ。
帝国情報省第四部(国内外工作活動担当部)部長。正体は、元カールスバート共和国首都防衛司令官であり、カールスバート内戦勃発当初に悪辣なる謀略で国粋派の基盤を盤石なものとした「嫌われ者のリーバル」こと、ヘルベルト・リーバルである。
そんな人間が、情報の専門家であるリンツ伯爵家の下で防諜に努めた……とあれば、むしろ得られた情報が少なすぎるのではないかと考えてしまう程だ。
「共通点は?」
「そうだな。一部を除けば、分割派の貴族だ。そして例外ながらも分割派に協力した元中立貴族の多くは――と言っても絶対数は少ないが――キリス第二帝国国境地域を治めている」
「キリス……? なぜですか?」
シレジア王国と国境を接している地域ならまだわかる。
カロル大公派の拠り所となっている東大陸帝国との国境地域でも理解はできる。
だが、キリス側というのはフィーネにとって意外だった。しかし続く父の言葉を聞いて、すぐに理解できた。
「元中立貴族の分割派への転向は、殆どが後追いの形だ。時系列としては、内戦発生からだいぶ後のことになっていて……我が帝国が、彼の国に対し優勢となったことが原因だろう」
「……クレタ陥落、グライコス地方の叛乱。権益を東に広げられる絶好の機会ということですか」
「そういうことだ。どうやら、ヴァルター殿下がそれをチラつかせているらしい」
自分の力で得た土地でもないくせに、とローマンは続けた。
確かにそうだ。あの土地を、グライコス地方やクレタ島を奪取できたのはシレジア王国の青年士官の働きが大きいのだから。
「元からの分割派は、資源省不正事件でかなり権威を失ったはずですが……また勢いを盛り返したのはヴァルター皇子という政治的な強みを得たからですか?」
「それもあるが、それだけじゃないところが面倒なところだ」
そう言って、ローマンは目頭を抑えた。父をそこまで悩ませる問題はそう多くなく、そしてあるとすれば、それはオストマルク帝国の根幹を揺るがす事態である。
そしてそのフィーネの不吉な予感は的中していた。
「奴ら、気が狂ったのか民族主義を持ち出してきたのだ。伝統続く、リヴォニア貴族の民族主義をな!」
珍しく、父は声を荒げた。
「まさか『分割派』が、シレジアだけじゃなくオストマルクでさえも文字通り『分割』する気満々だったなんてね」
クラウディアも、呆れたように首を横に振る。
父や姉がそのような態度を取る理由は、フィーネは嫌という程知っている。
それはユゼフと出会って間もない頃、皇帝直轄領クロスノの貧民街で、彼女はそれを感じたのである。貧困に陥る多くの少数民族出身の民に、血筋だけで特権を貪る奴がいるという無言の圧力を、フィーネはクロスノで感じていた。
その時のフィーネは、その圧力に耐え切れずに涙を流したりもした。
だが今回の事態は、帝国という国家が泣く羽目になることは自明の理である。
多民族・多文化国家であるオストマルクの各民族間感情は複雑で、だからこそうまく制御しなければ、帝国は空中分解する。極論としては、帝国情報省はまさしくそのためにある組織である。
オストマルク帝国は、苦心の上に成り立つ国家である。
それを、目の前に転がる利益しか見ず特権を貪るしか能のない分割派が壊そうとしている。
「しかしおかげで、ユゼフ少佐の下に情報が届くのが遅れた理由がわかりました。キリス国境地帯の貴族が分割派と協力し、かつリヴォニア民族主義で賛同者を多く得たとなれば、より一層情報が遮断されていたに違いありません」
「そうだな。だからこそ、フィーネがこんなに早く帝都に戻ったことは彼らにとっては期待外れもいいところだっただろう」
それだけに、相手にこれ以上の準備時間を与えてはいけないことは言わずともわかる話である。
しかし問題は、時期、季節である。
今は11月で、この時点で既にエスターブルクは冷え込みが厳しくなっている。シレジアは尚更だ。
「本格的な冬が始まる前までに、彼らはあと1回軍事行動がとれるかどうかだ。そしてそこからは、熾烈な外交合戦になるだろう」
ローマンは、長く外務省調査局にいた経験からそう断言した。
外務大臣秘書官であるクラウディアも、それに同意する。
「今の所、シレジア国王派を支持している国はカールスバートだけよ。我が帝国は、知っての通りそれどころじゃないから」
「……カールスバートが、ですか」
「王国復活の恩義は、エミリア王女にあるからね。彼らはそれを思って国王派を支持してるみたい。おかげで少なからず、大公派に影響を与えてるみたいよ」
「ヴェルスバッハ氏はなんと?」
「彼も復古王国を支持しているわよ。リヴォニア民族主義の台頭なんて、ラキア民族主義を掲げる彼にとっては水と油みたいなもんだから」
その言葉に、フィーネは安堵する。
正直に言えば、謀略であの男に勝てる人間など大陸にそう多くはいないからだ。
「しかしカールスバートだけでは力不足もいいところだ。他の国にも圧力をかけて、せいぜい中立を維持してもらわないとならん。クラウディア、カールスバート以外の周辺各国の状況はどうだ?」
「神聖ティレニア教皇国は相変わらず事態を静観して漁夫の利狙い、東大陸帝国は改革の真っ最中だしシレジア以上に厳しい冬が待ってるから恐らく不介入。リヴォニア貴族連合は……私たち次第かしらね。オストマルクに同情的なヘルメスベルガー公爵家が拒否権発動してる」
「ということは、我々が国内工作でなんとかすれば形勢はいつでも逆転できそうだな」
父の言葉に、二人の娘は強く頷いた。
だがこの時誰が想像しただろうか。もう一ヶ国、今回のシレジア内戦に重要な決断をもたらす国家があるということを。
そんなことを知る由もなく、ローマンは指示を出す。
「クラウディア、お前は外務省に戻って引き続き対外折衝だ。大使館のパーティーでも誕生日会でもなんでもいいから、とにかく会って圧力をかけとけ」
「えー……。圧力かけるの得意だけどパーティーはなー……。オジサマの視線なんていつも胸かお尻に集中してるんだから嫌になっちゃう。年下の大使がいる国ってないの、お父様」
「お前はいい加減その性癖なんとかしろ」
「無理無理。あ、そうだ良いこと思いついた。フィーネ、ワレサちゃん頂戴! この際私と半分こでいいからさ!」
「絶対に嫌です」
「けちー」
「いいからクラウディアは言われたことをやれ。あとお前には縁談が」
「縁談以外のことに全力を尽くすわね、愛しのお父様♪」
ひらひらと手を振り、これ以上なにも言われないようにさっさと屋敷を出るクラウディア。その背中を見て、残されたふたりは同時に溜め息を吐いた。
しかしそこはクラウディアの扱いに慣れたプロの父親、もとい情報大臣である。切り替えは早かった。
「フィーネ、お前はシレジアに行って状況を国王派に伝えろ。帝国は国王派を支持するが、介入はだいぶ遅れる可能性があると」
「わかりました、お父様」
「……それとフィーネ」
立ち去りかけたフィーネを、父親は小声で呼びとめた。その口調から、なんとなく大した用事ではないことが彼女にもわかる。
「フィーネ、お前に縁談が来ているぞ。今度は皇族からだが」
フィーネの母、カザリン・フォン・クーデンホーフ侯爵令嬢は反対を押し切って皇族との縁談を断り、愛する男性であるローマン・フォン・リンツ子爵を選んだという。
そして月日は経ち、娘のフィーネの下にも皇族からの縁談がもたらされた。普通の貴族令嬢ならば、即受けれ入れる話である。
無論、フィーネは即答した。
「絶対に嫌です、お父様」
先ほど姉に対して言った言葉以上に、明瞭に答えた。
「だろうな」
対する父も、当然だと言わんばかりに肩を竦めた。
リンツ伯爵家、クーデンホーフ侯爵家の血は確かに、フィーネ・フォン・リンツという女性に受け継がれていた。




