味方の居場所
明けて、9月6日。
「で、マヤは見つかったのか?」
「んにゃ、霧のように消えちまったよ」
クラクフスキ公爵家では、収容していたマヤ・クラクフスカが脱獄したこともあって朝から大騒ぎだった。
彼女を監視するために雇った傭兵2人をいともたやすく拘束し、さらには――
「で、調子はどうだなんだステファン。まだ痛むか?」
「痛みはしないが、まだ違和感があるね。ちょっと仕事は無理だわ」
ステファンから、資料の一部を奪って逃走した。
この時、公爵家当主アルフレト、総督ヴィトルトは奪われた資料の内容を知らない。そもそも回収係であるステファンが「まだ把握していない時に奪われた」と証言しているためでもあった。
「ステファン、窓から投げ捨てた方の資料、その内容はなんだったんだ? 大公殿下への忠誠の証として、そろそろ成果を献上するべきだと思うのだが」
それは、マヤによって選ばれなかった方の資料。即ち東大陸帝国内部におけるシレジア工作員に関する情報である。
さすがに皇族が住む春宮殿の内部や、軍の監視が強い軍事省などの軍関係機関への工作員はほとんどいないが、それでも東大陸帝国にとっては喉から手が出るほどに欲しかった情報である。
無論、その情報の重要性はステファンもわかっている。
わかっているからこそ、
「大した資料じゃなかったな。内容は東大陸帝国の大改革に関する中間報告書。恐らく外務省あたりが持っている情報と大差ないだろう」
大嘘を吐いた。心の中で舌を出し、内心で兄を罵倒する弟である。
「……そうか。奪われた方の資料とやらが大差ない情報であることを祈ろう」
「そうだな。いくつかの情報については精査終了。重要そうな情報をそっちに回すよ。他の資料についても精査中だが……量が多い。少し時間をくれないか」
「なんなら人手を貸すが?」
「遠慮しておくよ。重要な情報を外部に漏らされたら嫌だろう」
「……それもそうだな」
ステファンはそう言って、クラクフ総督府内部における好意的中立者としてマヤを援護しつつ、しかし依然として優位に立つ大公派にも媚びを売ることに専念した。
「それよりも、マヤの居場所だな」
ヴィトルトはそう言った。
それはステファンに対して助言を求めたわけでなく、自分で考えるために発した言葉である。だがそれとしらないステファンは、脇から要らぬ助言を出す。
「例の、マヤの友達の家はどうなんだ? ワレサ少佐とかマリノフスカ少佐は今オストマルクにいって空き家だから、潜伏するのには便利だろう?」
「それはもう昨夜やったさ。でも、駐屯地の奴らに調べさせたがいなかった」
「じゃあ、ノヴァク大尉の家は?」
「……それも今行っているよ。もっとも、そっちは別の問題があるんだがな」
別の問題。そう聞いて、ステファンは首を傾げて見せる。
ノヴァク大尉、つまりラデックの家。
正確に言えば、妻リゼルとの家。もっと正確に言えば、グリルパルツァー商会社長令嬢の家である。
クラクフに莫大な資本を投下し、1年でここまで存在感を顕わにしたその商会の名は、クラクフ総督でさえ無視できない存在となっていたのである。
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ところ変わって、ラデックとリゼルと、その子供たちとその他の家。
即ち愛の巣。
その愛の巣の玄関で、2人の男が、1人の女性に質問していた。
男の一方は官僚然とした姿、もう一方は軍服姿で、そして質問を受ける立場にいる女性はメイド姿だった。
「それでロミーさん、マヤ・クラクフスカ氏はこちらには来ていませんか?」
「来ていません」
「……そう言えば、この家広いですから掃除とか大変ではありませんか?」
「来ていません」
質問になっているような、なっていないような会話が繰り広げられていた。
リゼルの専属メイドであるロミーは、まるであらゆる質問に対して「来ていません」と答える機械と化していた。
そんなことをすれば怪しまれるのはロミーにとっても百も承知。しかし、資本力のある資産家の屋敷ほど隠れるのに好都合な場所はないことくらい、この家の主人もこの領地の官憲も知っている。
どう言い繕うとも、あらゆる合理的な事情が状況を限りなく「黒」に染めているのである。
だがそうだとわかっていても踏み込めないのは、この家の持つ特殊性にあった。
「あのねメイドさん。あんたに言うのもなんだけれど、こういうことを続けちゃ今後のビジネスに影響が……」
「来ていません」
「…………もういい」
変わらぬ言葉に辟易したのか、それともロミーの放つ眼光に負けたのかはわからないが、男2人は「気が変わったら連絡してほしい」と言って屋敷から去ったのである。
無論、屋敷を出た後に男2人は妙に深い溜め息を吐いたのは言うまでもない。
「リゼル様、官憲は追い返しました」
「ありがとう、ロミー」
ロミーは必要な報告を済ませると、リゼルの手元にある空のカップに紅茶を注ぎ、もののついでと言わんばかりの態度で、隣に座っていたリゼルの夫ラデックにも紅茶を用意した。
「ありがとう、ロミーさん」
「…………チッ」
「おい」
そしてなぜかこのメイドは、ラデックに対して妙に態度が悪かった。
「ロミーは相変わらずラデックさんが苦手ですね」
「申し訳ありません、リゼル様」
「大丈夫よ。ロミーがそういう性格なの、私知ってますから」
問題を問題と認識していない2人に、ただただ溜め息を吐くしかないラデックである。
そしてそれを見て、リゼルとラデックの対面に座っている女性が呟いた。
「相変わらず、見ていて楽しい家だよここは。子供が大きくなったら、もっと面白くなるだろうね」
「そいつはどうも、クラクフスカ嬢」
安宿を朝早くに出て、ここに移り住んだマヤであった。
マヤは現在、グリルパルツァー家のメイドが淹れた紅茶の香りを楽しみつつ、ラデックらと今後の話をしていたところだった。
「先程の話に戻ろうか、ラデックくん……いや、ラスドワフ・フォン・グリルパルツァー殿」
「その名前で呼ばれるのまだ慣れてないから『ラデック』でいいよ、クラクフスカ嬢」
「では私の事も『マヤ』と呼んでくれないか。私はもう『クラクフスカ』を名乗れる人間ではない」
そう言って、マヤは紅茶に映る自分の顔を見つつ状況の複雑さを恨んだ。
ラデックやリゼルの一個人としての感情としては、マヤを支援、ひいては王女派を支援したい。特にラデックは、マヤやエミリアと親友なのだから。
しかしそこには『グリルパルツァー商会』としての判断も必要となる。
果たしてグリルパルツァー商会は、カロル大公やオストマルクの皇族であるヴァルター皇子に弓を引き、エミリア王女と心中する覚悟は出来ているのか。
答えは「否」である。
「……商会としては、立場が微妙でね。『グリルパルツァー商会』は勅許会社、つまりオストマルクの皇帝陛下から特別の許諾を得てやっている商会なんだ。
「経済上の利害についても、大公派が内戦を早期に決着させれば問題ないとお父様――いえ、社長が言っております。本国はこの事態に関しては、キリスとの戦争もあって不介入とならざるを得ませんし……」
「……そうか」
「申し訳ありません、マヤさん」
「いや、大丈夫だ。我々と心中しろ、などと強制することは私にはできないのだから。こちらこそ無理を言って済まなかった」
マヤにとって、二番目に頼りになる組織からの支援は得られなかった。
ユゼフ作成の危機管理マニュアルには、味方となる組織の1つとしてグリルパルツァー商会の名が挙がっていた。しかしそれは「ヴァルター皇子」の存在が考慮に入っていなかったためであり、実際にあたってはこのような結果になった。
だがしかし、同じくエミリア王女を友とし、主人として行動してきたラデックにも本音はある。
「マヤ殿」
「――初めて私の名を呼んだな、ラデックくん」
「そう言えって言われたからな。……俺としては、友は見捨てられない。商会としては協力できないが、俺個人としては最大限協力しよう。なんだったら、駐屯地の物資を横流ししよう」
「……そんなことがばれたら、ラデックくんもただじゃ済まないぞ?」
「いざとなったらオストマルクに亡命するさ」
そう2人は笑いながら、互いの手を固く握った。
だがその様子を、ジト目で見つめている一対の目があった。
「……ぶー」
「どうしたリゼル」
「いえ別に。ただ妻の前で、別の女性のことを名前で呼ぶなんてって思っただけですー」
頬を膨らませ、息で唇を震えさせて不機嫌を顕わにするリゼルである。しかしそんな不機嫌な彼女も、
「何言ってるんだ。俺が愛しているのはリゼルだけだよ」
「……きゃっ」
ラデックがこう言えば、一瞬で元に戻る……どころか熱い抱擁とキスを交わす仲である。相変わらず、とも言っても良い。
「そう言うわけでクラクフスカ嬢、やっぱり名前は呼ばない方向で」
「……そうだな。私も、目の前でそう何度も繰り広げられる夫婦の情愛は見たくないからな」
再び笑いながら、マヤは香り立つ高級紅茶の味を楽しんだ。




