置き土産
私が脱獄して暫く。
地下牢に戻ってきた近侍が騒ぎ立てたらしく、公爵家や総督府はてんやわんやだった。人目のつかないところで息を顰めていた。暫くすると、市街へ脱走したと考えた警邏の者たちが家から飛び出す。
警備が薄くなった頃合いを見て、私は数日前まで執務をこなしていた場所、総督府の5階、民政局統計部特別参与執務室へやってきた。
私が探している物、ユゼフくんから貰った「危機管理マニュアル」なる物。
彼が不在の間、もし何かあればそのマニュアルを参考に対処してほしいと言われたものだ。今の所は、それだけが頼り。
……でも。
「やはり、あるわけないか」
執務室は、荒らされていた。
書棚にあった資料、執務机にあった書きかけの書類、私物、何から何までがなくなるか、移動されていた。取るに足らないと判断した紙だけが、あたりに散らかっている。恐らく軍事査閲官執務室に行っても、状況は同じだろう。
…………クソッ。
思わず、壁を殴る。
「私が不甲斐ないばかりに……!」
そう嘆くしかない。
頼りになるはずだったものがない。それだけではない、ユゼフくんや、エミリア殿下らが苦労して作り上げた組織の頭を潰されたのだ。悔しい、申し訳ない。そんな気持ちでいっぱいだ。
目頭が熱くなった。
また、一からやり直しだ。それどころか、マイナスからやり直しだ。
その時、
「そこで挫けるとは、マヤらしくないぞ?」
背後から突然、聞きなれた声が聞こえたのだ。
「……兄上」
公爵家次男、ステファン・クラクフスキがそこにいた。
思わず腰に手をやるが、自分が丸腰だったことに気付いた。だから拳を握って兄上に……いや、彼に殴りかかろうとした。
だけど、彼はなにもしなかった。
大声を上げることもなく、かと言って腰にある剣を使うわけでもなく。
「マヤが脱獄したと聞いて、ここに来るだろうと思ってね。兄貴は屋敷の中探してもいないから市街に逃げたはずだ……とか何とか言ってたけど、今回の場合は俺が正しかったようだ」
「……」
彼は喋りながら私の脇を通り過ぎ、部屋の奥にある窓の縁に寄りかかる。窓は開け放たれているため、私が彼をトンと押せば真っ逆さまだ。でも、それをすることはしない。するにしても、情報を集める。
「……何をしているんですか」
「何をしているのか、とは随分な物言いだな。兄が妹と会話してはいけないのか?」
「その妹は、今は叛逆者という扱いのはずですが」
公爵家から見れば、私は叛逆者。異端児。身内でなければとうに殺されている身だ。
「それは価値観の違いによるものと言っておこう。大公派に鞍替えした親父や兄貴は愛する妹、娘を叛逆者と見ている……でも、俺はそうには見えない。いつもと違ってちょっと弱気になった妹には見えるがね」
…………弱気、なのだろうか。今の私は。
いやそうだろう。実際、泣きそうになった……いや、泣いていたのだ。全く、本気で泣いたのは何年振りだろうか。
「妹を愛する健全な兄としては、妹を助けたい。だが俺にも立場があるんでね」
「では、ステファン〝さん〟も大公派というわけですか?」
「いいや違うね。中立派、悪く言えば日和見主義さ」
日和見主義、か。勝ち馬に乗りたいのだろう。どちらにもいい顔をして、どちらかに極端な協力をすることはしない。
ったく、この情勢下によくそんなことが言えたものだ。
……でも、今はありがたいかもしれない。
味方が極端に少ない今、敵でないのならそれで問題ない。
それに3人兄妹、1人が大公派、1人が王女派、そして1人が日和見主義と言うのはバランスが取れていていいだろう。ステファン兄上は、どちらが勝っても生き残れる算段を始めたのだ。
「……しかし、〝兄上〟は私にどのような有益なことをしてくれるのですか? その代償に何をヴィトルト〝さん〟にもたらすのです?」
「難しい話ではないよ。マヤ、お前が探しているのは『これ』だろう?」
そう言って、兄上が執務机の引き出しの中から出してきたのは、私が探し求めていた「危機管理マニュアル」……そしてもう1つ。
「これは統計部が掌握している『シレジアに好意的な東大陸帝国貴族』のリストの一部だよ」
「……探していましたよ、それを」
「あぁ、俺もだ。まさかこんなにも頑張っていたとは、俺も知らなかったよ。兄貴も親父も知らないそうだ。当然、大公殿下とやらもな」
「…………どうするつもりです?」
そう、聞かざるを得なかった。
聞くまでもない事なのに。
「簡単だよ。どちらか1つをお前にやる。そして選ばなかった方はこの窓から落とす。お前の位置からは見えないだろうが……窓の近くには衛兵がいる。選択肢は2つに1つだよ」
厳戒態勢の総督府の中、天から資料が落ちて来たら衛兵とやらはそれを拾うだろう。そしてその資料の重大性に気付き、報告するに違いない。
「……兄上をここで拘束し、2つの情報を奪い取る、という選択肢もあります」
「あぁ、それは思いつかなかったな。でもやめておいた方がいい。そんなことをしたら私は一生強硬的な反王女派になってしまうよ。でも拘束せずに生かしておけば、私は公爵家中立派の人間として『多少は』お前に協力しようじゃないか」
「…………」
非協力的な協力者、というやつだろうか。矛盾しているようだが、でも……今の状況では、それを受けた方がいいのではないか。非協力的だろうがなんだろうが、ステファン兄上が大公派となってヴィトルトに全面協力してしまう方が厄介だ。
殺害する、という選択肢も思いついた。
でもやはり、内部協力者は欲しい。
しかしその場合、資料のうちどちらか1つは大公派の手に渡る。
…………けど、エミリア殿下の命がかかっている。こうしているうちにも、殿下は絶望の谷を落ち続けているのだ。
「……兄上」
「なんだい?」
「…………危機管理マニュアルの方をくれないか」
情報源を失うのは痛い。痛すぎる。ユゼフくんにも顔向けできない醜態。
だが、マニュアルがあればエミリア殿下を救うことができるのであれば、それを優先するしかない。少なくともステファン兄上にとっては、マニュアルは帝国の情報源と同価値であるということだろう。
「了解」
兄上はそう言うと、片方の紙の束を私に投げ、もう片方を窓から投げ捨てた。10秒ほどして、窓の外から微かに声が聞こえた。衛兵だろう。
兄上は、衛兵に気付かれる前に窓を閉めた。
「作ったのは相当暇人だよ。マニュアルにしても、今捨てたやつにしてもな」
「……それについては同意しますよ」
マニュアルの中を開けば、そこには膨大な文字と情報があった。
これだけのことをやってみせる友人がいないだけで、こうも苦労するとは思っていなかったよ。
マニュアルを眺める私に対して、兄上は特に何も言わずに窓から離れて、部屋から出ようとした。だがその寸前、立ち止まり口を開いた。
「これは独り言なんだけどな」
と。
「まず1つ。大公殿下とやらがオストマルクと結託した、なんてことは俺にだって寝耳に水だったよ。なにせ大公は『別の国』と親しかったはずなのに。そこの矛盾を突けば、案外事実は簡単に見えてくるかもしれんな?」
「…………」
「あともう1つ。マヤの親愛なる友人とその奥さん、そしてその子供3人は自宅療養中らしい。家族愛ってのは良いもんだよな?」
そう言って、ステファン兄上は笑ってみせた。釣られて、私も笑ってしまった。
「全くですよ」
私はそう言ってから、ステファン兄上の鳩尾を思い切りぶん殴った。
「ぐふぁああああああ!?」
兄上は悲鳴と共にぶっ飛ばされ、廊下の壁に盛大に背中をうつ。肺から息が漏れ出る音が聞こえた。
「『殴られて資料の一部を奪われた』と総督殿に言ってください。鳩尾の痣と、本気でつらそうな表情があれば、流石に咎は受けないと思いますよ」
「ゲホッ、だ、だからってお前、こ、こんなに全力で、ゴフッ」
「失礼。でも、生半可な痣では通用しないかと思いまして。……さて、兄上の悲鳴のせいで衛兵が集まってくるみたいですし、私は屋敷を出るとしますよ」
別れの敬礼をしてから、最早立てなくなるほどに鳩尾の鈍痛に悶絶する兄上に背を向けて屋敷の中を走った。背後からは「おいマヤ! こんだけ協力してやったのにお礼がこれかよ畜生! あぁ、くそ! もうちょっと手加減しろよ!」という悲痛な声が聞こえた。
「ハッハッハッハ! 公爵家の人間として約束は守ってくださいよ、兄上!」
キザな真似をする兄上に少しイラッと来たから殴ったのもある――というのはヒミツだ。
作者の中で書籍化によってイラストがついて最も好感度があがったキャラがマヤさんなのは内緒




