日常だった話
ちょっと前の話(マヤさん視点)
あれはいつの日のことだっただろうか。
いつものようにエミリア殿下の侍従武官として殿下の執務を手伝っていたとき、私と共に殿下を補佐している軍事参事官であるユゼフくんが、仕事に少し一息ついてコーヒーブレイクとしゃれ込んだときである。
仕事の話をしつつ、この場にいない者の話をしつつ、雑談していた。そんな時、エミリア殿下が唐突に仰られたのだ。
「そろそろマヤには無理矢理でも結婚させた方がいいんじゃないかって思うんです」
と。
だいぶ前に話をしたことを、今更思い出したらしい。
「マヤさんだったら、婚約者候補なんていくらでもいるでしょ?」
と、ユゼフくん。
「……そ、そうだな。父にも兄にも結婚は勧められてはいるし、それ以外にも非公式の打診はかなり前からあったが……」
「マヤは黙っていれば美人ですからね」
「同感です。しかもスタイル抜群で姉御肌ですし」
しかしどうしてこの男、サラッと人を褒めることができるのだろうか。ユゼフくんだから良いものの、他の男であれば殴っていたところである。もう少し考えてほしいものだ。
まぁ、悪くないと言っておこうか。
「そんな臣下を持つ主君と致しましては、なんとしてもマヤに結婚してほしいのです。サラさんやフィーネさんと言った方々は恋愛を楽しんでいると言うのに」
「あの殿下、それは私にとって今胃が痛いところでして……」
「おや、モテる男はつらいですかユゼフさん?」
「勘弁してください」
そう言いつつ、彼の顔はどこか本気で困っているようには見えない。まぁ、名だたる家の顔立ち整った者に好意を抱かれて本気で困る男というのは稀だろう。むしろこの場合、当事者全員が困っていないから困っていると言った方がいいのだろうか。
「コホン。話を戻しますと、私としてはマヤに恋愛なり結婚なりはしてほしいですね」
「殿下、私も話を戻しますと殿下の結婚の方が先です」
「年齢的に言えばマヤの結婚が先です! 24で未婚というのは流石にダメですよ!」
それは本当にそうなのだが。
私とて女だ。そういうのに興味がないわけではないし、良い男と契りを結び良き子を産みたい、という感情も持っている。だがそれはエミリア殿下という存在には負ける感情であるのだ。
だが私個人の意思としては、30超えてからでも別にいい。
「マヤが恋愛を知らずに歳を重ねるのは、どうかと思うんですよ」
「え? マヤさんって恋愛経験ないんですか?」
殿下の言葉に対し、意外そうな顔をするユゼフくん。
「私が恋愛経験豊富そうに見えるのか?」
「マヤさん大人の女性ですし頼りがいはありますし、そうなのかなと」
「残念ながら」
しかし、そういう風に見られているのか。私がどのように見られているのかというのはわからないからな。まぁ母親に似ているなとはよく言われるが。主に父に。
だがユゼフくんの評価、と言う風に考えると説得力はないな。
「……ということはマヤさんって、その、あれですか? 純潔なんですか?」
「純潔……? あぁ、処女かどうかと言う話か?」
「婉曲表現をしたのに直球で言わないでくださいよ。あなた本当に貴族令嬢ですか?」
よく言われる。
しかしユゼフくんはそういう下の話が苦手なのだろうか。若干頬を赤く染めながら『処女』という表現に反応している。
思考は私以上に大人なのだが、彼は時々こういう風に思春期男子のような反応を見せる。ちょっと可愛く面白い。
いじめ甲斐があると言っても良い。
「そうだな。他の貴族の子女は近侍なり執事なりに性教育を実践されて初体験を迎えるそうだが、私は生憎士官学校という恋人が離してくれなくてな」
まぁ士官学校の生徒でもやることをやっている者も多いし、やはり軍人の卵だからだろうか積極性に長ける者も多い。
むしろ殿下やサラ殿のように奥手なのが珍しいというか……。性格的にフィーネ殿もその手の部類だろうが、まぁ今はいいだろう。
「まぁ質問の答えとしては、『純潔』ではあるよ。『処女』かどうかは疑わしいがね」
「え、いや意味がよく――」
「いや、馬上戦闘訓練中に破瓜してしまったのでね。処女ではないのさ」
「…………」
しかしユゼフくんは私の期待を裏切らないな。面白いくらいに動揺している。口をパクパクとさせてな。もう少しからかってみよう。
私はユゼフくんの傍まで移動した。なんだなんだと困惑する彼に、
「ふふふ、こんな話についていけないようじゃ、美人計にかかっても知らんぞ?」
「え、ちょ、何して――」
思いきり抱き着いてみた。ぎゅーっとね。
ユゼフくんは座っていて、私は立っている。そういう状況で抱き着くと、私の胸に彼の顔が埋まるのだ。あぁ、男としてはご褒美にしかならないかな? 奥手の彼にとってはどうか知らないがね。
「な、何をしてるんですかマヤさん!」
「何、私としては男を知るいい機会だと思ってな。私と最も仲が良い未婚の男というのは君ぐらいなものなのだ。初体験の相手としてはなかなか――」
「意味が分かりませんよ!?」
ふむ。やはり彼は面白いな。好意を抱くよ。
まぁこの場合、異性と言うよりは後輩や弟に向ける好意なのだが。
ここからどうやって彼をいじろうか、などと私らしくもなく考えていたとき、空気の読めない扉が開かれた。
「エミリア、ちょっと第3騎兵連隊の演習について話が――って、ユゼフ!? 何やってんの!?」
「俺にもよくわからないからマヤさんに聞いて! なんですかこれ!?」
やれやれ。正妻の登場らしい。まぁ彼の正妻は2人いるのだが。
「おおサラ殿、ちょっとユゼフくんを借りているよ。何、すぐに終わるさ」
「終わるってなによ! さっさと離れなさいって!」
「ハッハッハ、良いではないか。ユゼフくんの恋人が3人や4人になったところで大した問題ではなかろう?」
「「「そんなわけないでしょ!」」」
サラ殿とエミリア殿下、そしてユゼフくんの声が重なった。
全くもって、飽きない日常である。
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「……あぁ、懐かしいな」
地下牢の蝋燭が放つ淡い光が、私の記憶を天井に投影していたようだ。
……。
そうだな。私はあの日常が好きだった。
みんながいる日常が好きだった。
それを守るためであれば、私は私の義務を尽くす。他の何が犠牲になっても。
手段を選んでいる暇もなければ、時間もない。
私にはエミリア殿下のようなカリスマ性はない。
私にはユゼフくんのような軍事的才幹はない。
私にはサラ殿のような野性的勘はない。
私にはラデック殿のような事務処理能力はない。
私にはフィーネ殿のような情報処理能力はない。
だが、私は私の大事なものの為に、マヤという私は戦う必要がある。




