運命の前日
大陸暦638年8月29日。
賢人宮で暇を持て余していたエミリアの下に、緊急の連絡が入ったのはこの日の事である。
「何事ですか?」
エミリアは、彼女の従卒であるサヴィツキ上等兵から事の次第を聞いた。サヴィツキは随分と慌てた様子で、着用している軍服も随分乱れていた。それだけに、事の重大さがエミリアにも理解できたのである。
「はい。クラクフスキ公爵領総督府の、マヤ・クラクフスカ大尉より早馬の伝令がありました。こちらになります」
サヴィツキが渡した物。
それは、マヤ直筆の手紙であった。何度も見た、彼女の字。少なくともこれが偽造されたものではないことは確かである。
そのため手紙に書いてある情報は「信じたくはないが信用に足る」というものになってしまった。
「第3騎兵連隊で組織的な公金横領……!?」
近衛師団第3騎兵連隊は、エミリアが最も信頼する部隊のひとつである。
それはエミリアを政治的に裏切らないという面だけではなく、軍事的期待も裏切らず、そして高潔さも裏切らないということである。
「信じられません……そんな、あの部隊が」
だが、事実であるのだろう。
エミリアはそう感じ取った。なにせマヤからの早馬の伝令という時点で、その情報は金よりも価値あるものとなっているからだ。
「サヴィツキさん。この手紙を至急内務省治安警察局へ。それと警務局のローゼンシュトックと魔研のイリアさんに連絡を取ってください」
「畏まりました。すぐに」
敬礼もほどほどに彼は駆け足で部屋から出る。そしてその背中を見つつ、エミリアは呟いた。
「――まさか、本当に?」
その情報を信じることができない自分に、妙な違和感を覚えていたのである。
翌8月30日。
内務省治安警察局はエミリア王女の身の安全を鑑み、軍務省に圧力をかけて第3騎兵連隊の部隊権限を一時剥奪した。理由は当然、公金横領の罪である。
これは必要な措置であったことは誰しも認める所である。
個人が行った汚職であるならばまだしも、組織で行われた汚職であれば、部隊権限を剥奪し隊員を拘禁しなければ証拠隠滅を図る可能性があるからである。
しかしそれと同時に、エミリア王女の護衛戦力が一時的に薄くなるという意味もあった。
「殿下。調査が終わり、第3騎兵連隊の部隊権限が復帰されるまで王都から出ないようお願いします。親衛隊の戦力だけでは、何分不足ですので」
国家警務局所属のヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック少佐は、エミリアにそう助言した。王都にいれば、国家警務局や王都防衛師団の守護はあるし、さらに賢人宮ともなれば何重にも守られた、この国で最も治安の良い場所である。
言うまでもなくエミリアはそれを承知していたが、それでも一抹の不安を掲げていた。
「わかっています。ですが、未だに信じられないのです。……ミーゼル大佐も、部下の皆さんも、みんな良い人ばかりだったのに……」
「お気持ちはわかりますが、人である以上犯罪に手を染める可能性はいつでもあります。ここは辛抱なさってください」
「……」
ヘンリクの言葉を聞きつつ、彼女は頭の中で考えていた。
もしこれが何者かの策謀によるものだとしたら、というものである。
証拠もなにもない、ただただ単純な憶測――いやそれどころか妄想の産物であった。ラデックが突き止め、マヤが確信したこの情報に何も間違いはないとエミリアは理性でわかっている。情報を手に入れるに至った経緯も、偶然的要素も強い。
しかしこれが「最初からバレる前提で仕組んだ公金横領」だとしたら、どうであろうか。
その仮定に基づいて敵の行動を探るとしたら、答えは明瞭で、即ち「エミリアの排除」となる。
「まさか、そんなことがあるのでしょうか?」
これが偶然なのか、必然なのか。
証拠も何もない、エミリアの妄想の産物でしかないが、しかしそれを分析する時間はない。時計の針は否応なしに進み続ける。
そして、運命の8月31日を迎える。




