独りぼっちの王女
エミリアが王都に到着したのは、8月22日13時30分のことである。
王女が久々に王都に戻ってくるという報せを聞いた多くの市民が、兵が、一目エミリア王女の尊顔を拝見しようと彼女の乗る馬車に近寄ってくるという出来事を除けば、順調な旅路であったと言える。
「……市民に愛されている。そう考えれば無碍にもできませんが、少し疲れますね」
彼女は馬車の中でそう呟く。
いつもであれば、その呟きに対して共感したり諌言したりする人物が同乗しているのであるが、今回の場合彼女の乗る馬車にはエミリアを除いて誰もいない。
「…………マヤがいないのも、存外疲れるものです」
今になって、マヤという存在のありがたさに気付く彼女であった。
王都にて市民に囲まれながら馬車は貴族居住区画に向かう。
さすがにそこまでくれば集まった市民も馬車に同道しなくなるのだが、今や政敵ばかりとなった貴族たちの住む区画を通ると言う精神的拷問に耐えなければならないのである。マヤやサラ、あるいはユゼフと言った友人たちの支えなしでここを通ることが、エミリアにとってどれほど辛いのかは言うまでもない。
しかしそんなところで事を起こそうとする貴族がいるはずもなく、全てはエミリアの杞憂に終わる。
14時になって、彼女は「賢人宮」に到着する。
久しぶりに会う王宮の近侍や執事に挨拶しつつ、エミリアは一直線に彼女の父親、つまり現国王フランツ・シレジアの下へ向かう。
その途上、彼女は宮廷内で思わぬ人物と遭遇した。
「おお、これはエミリア殿下。ご機嫌麗しゅうございます……!」
「そちらも元気そうで何よりです、クラクフスキ公爵閣下」
それはエミリアの友人であるマヤ・クラクフスカの父、クラクフスキ公爵家現当主の姿であった。
「此度の王都来訪、国王陛下より事情は聞いております。つい最近まで幼かった王女殿下が、ついに結婚とは……この私、少々感動いたしました」
「あら、私はまだ『結婚を決めた』とは思っていませんよ。相手がどうしようもない人間であれば、私としては別の殿方と結ばれたいと思っておりますから」
エミリアは冗談っぽく、口元を抑えて笑ってみせた。これがひどく形式的な笑みであることは、エミリアも重々承知していたところではあるのだが。
「これはこれは……。いやしかし、相手のヴァルター・アウグスティーン・ダミアン・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー殿下は勇壮にして人徳あるお方だと聞き及んでおりますぞ?」
この時公爵は、エミリアと婚約する予定となるその男の長たらしい名前を噛まずに流暢に言うことができたことに少しホッとしたようである。
一方のエミリアは、その名前を聞いて「覚えられるか、そして覚えられても噛まずに言えるか」という微かで重大な悩みに支配されることになるのだが、それはまた別の話である。
「ヴァルター殿下は、確か現皇帝フェルディナントの甥……でしたよね?」
「はい。フェルディナント陛下の弟の子ですな。帝位継承権は七位です。確か今年で21歳になられたとか」
なるほど、とエミリアは内心納得のいくところである。
現皇帝の甥にして継承権七位は、本当に予備の予備という位置にある。帝位継承の望みが少なく、故に政略結婚には申し分ない。そして公爵の言葉が本当であれば、ヴァルター皇子の人格はマシな分良い縁談であることは確かである。
尤も、エミリアの好みにあうかどうかはまた別問題ではあるのだが。
「なるほど。よくわかりました。相手が私のことを好いてくれるかどうか、些か自信はありませんが良い縁談にしたいものですね」
エミリアはそう言って「自分は縁談には前向きであり、オストマルク帝国との関係も重視するつもりだ」と間接的に公爵に伝えた。
公爵はその答えに満足したかのように笑みを浮かべて首を何度も縦に振るが、しかしふと思い出したかのように顔を渋める。
「いやしかし殿下。後に陛下よりお言葉があるかもしれませんが……ヴァルター殿下の到着は少し遅れると、オストマルク大使館から連絡がありました」
「あら、そうなのですか?」
「はい。どうやら、此度の戦による影響だということです」
此度の戦、つまるところ第七次戦争のことである。
継承権第七位と言っても、戦時にあっての縁談には多少躊躇するところがあるらしい。それでもこの婚約には政治的重要性が極めて高いため、多少遅れることはあっても最終的には決するのだろうが。
「どれほど遅れる、とのことでしょうか?」
「本来の予定であれば3日後でしたが、10日程遅れるようですな」
「概ね2週間後、ということですか」
2週間。
それだけあれば、クラクフでの仕事がどれだけ片付けられたか。そう思わずにはいられないエミリアである。だが今更クラクフに戻るのも手間であるため、本心では気の乗らない婚約のために王都に2週間留め置かれることになる。
「……殿下、この場で申し上げるのは少々無礼でありますが、この時間を利用して我が公爵家が開く饗宴会に出席なさいませんか?」
「饗宴会、ですか?」
「はい。元々は数家の貴族で開く小さな饗宴会の予定でしたが、ヴァルター殿下が到着されるまでは御手隙でございましょう?」
「えぇ、まぁ」
エミリアも軍人であり王女である以上、暇ではないのは確かである。しかし2週間も仕事で一杯になるほど忙しいかと言えばそうではない。クラクフであれば仕事で埋まった予定も、王都においてはやるこは少ないのだから。
「では8月31日、我が公爵家の別邸において開かれる饗宴会にお招きしてもよろしいでしょうか?」
「喜んで。父……いえ、陛下と相談して、出席したいと思います」
クラクフスキ公爵家は王女派筆頭の家。その公爵家が開く饗宴会に参加するのは、国内政治の配慮からはむしろ当然とも言える選択である。
しかしそれが終わりの始まりであったことは、まだエミリアはまだ知らなかった。




