留守番組
8月12日。
ユゼフらがオストマルクへ行く日。
「マヤさん、後は頼みますね。本当に頼みますね!」
「……いや頼まれるまでもないが、なぜそんなに必死なんだ。少し目が怖いぞ」
なぜか彼は懇願するようにマヤに言ったのである。
マヤから見れば、ユゼフの目は怖いどころの話ではなかった。どちらかと言えば「やばい」である。
マヤはユリアと共に、戦地へ赴くユゼフとサラを送り出す。
今更彼らが戦死するのではないかと不安がることはない。なんだかんだで優秀な軍人であることをマヤは知っている。
ここで言う優秀な軍人とは、戦功を立てる人間ではなく、生きて帰る人間の事である。
「大丈夫だ。それに何かあっても君が色々考えてくれたおかげで、こちらも余裕はある。エミリア殿下もユリア殿のことも心配しなくていいさ」
そう言うマヤの手には、ユゼフが作成した「危機管理マニュアル」なるものがある。不測の事態に備えて予め作ったものだ。
「だと良いんですけどね……。じゃあ、マヤさん。後は任せます。サラも行くよ。あまりフィーネさんに待たせるのも悪いし」
「うー……わかった。じゃあユリア、またね」
ユゼフもサラも、後ろ髪を引かれる思いでマヤとユリアに別れを告げた。
ユリアは健気にも手を振って毅然と立ち振る舞っているように見えるが、その実は寂しかった。なにせ恩人にして保護者なのだから。
「……やれやれ。どうしてこうも罪作りな人間が多いのか」
寂しそうに立ちすくむユリアを見て、そうとしか言えないマヤである。
しかしこの、サラを敬愛するユリアの世話をするのも彼女の仕事のうちとなるのだから、ここでぼやいても仕方がない。
「さて、と。とりあえずユリア殿。昼は何が食べたいかね?」
「…………かれー」
「聞いたことない料理だが……」
誰かのせいで、妙な知識と味を覚えたユリアの世話というのは大変である。
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マヤが子育て(?)に苦労する中、同じく子育て中の身にして王国随一の幸せ者がクラクフ駐屯地にいる。
「……ふふっ」
言うまでもなく、クラクフ駐屯地補給参謀ラドスワフ・ノヴァク大尉のことである。
彼は現在23歳。資本家の娘リゼル・エリザベート・フォン・グリルパルツァーの婿にして二児の父である。
結婚に際し、ラデックはグリルパルツァー家の婿に入ったことで彼はグリルパルツァー男爵夫君となり、姓もそれに準じて変更されたわけだが、軍籍上の名前は事務手続きが煩雑になるという理由から変更はされていない。
『本名は変わっているからいいのです! 愛の結晶×2と同じ姓を名乗れて、私は幸せ者ですから!』
というのは、リゼルの言葉であった。
誰もが認める幸せ者である。
「ティアナもナタリアも母親に似て可愛いし……ぐふっ」
問題は、愛する妻と愛する娘に囲まれて幸せの絶頂期にいる彼の仕事が全然片付かないことだが。いや、その前にだいぶ「気持ち悪い」のだが。
「最近、大尉殿が怖くてな……誰もいない部屋で笑ったり」
「双子の娘だからな。俺も娘が生まれた時はあんな感じだったから、そっとしてあげるんだ」
苦労するのはいつも下っ端である。
だがそれでも、正気に戻った後のラデックの仕事は素早く、日が没するころにはノルマが達成されているのでこの問題は問題とはならないのだ。
「っと、仕事しないと帰れないな」
残業したせいで妻や娘と会えないと言うのは本末転倒だから、という理由もあるが。
「物資貯蔵倉庫は不備なし、自然損耗も許容範囲内で横流しもなし。備品も十分揃って……あー、クソッ。死蔵がちょっと多いな。近隣の駐屯地に振り分けるか、いっそ民間に払い下げるか……」
クラクフ駐屯地のみならず、総督府と連携して公爵領全体の物資量を把握・統括して無駄を徹底的に削減する手腕は流石は商人の息子と言えるだろう。
順調に仕事を消化しつつ娘の事を思い出してにやけるラデックの執務室の扉がノックされたのは、14時30分のことである。
「ノヴァク大尉。クラクフスカ大尉がお見えになっております。例の件で、と」
「あぁ、そうだったそうだった。通してくれ」
部下が下がり入れ替わる形で入室したのは、ユリアが望んだ「かれー」の作り方がわからず彼女を不機嫌にしてしまい初日から子育てに失敗したマヤだった。
そのせいか、マヤの表情は少し暗かった。
「……どうしたんです?」
「いや。リゼル殿も苦労するだろうなと思ってな」
そう言って、軽く溜め息を吐いた。
なにかまた面倒なことが起きたのか、とラデックが思う時、その原因はだいたい士官学校時代の同期同室生だった人物にあるということも彼は経験から知っている。
ので、いつも通り無視することにした。
「まぁ、うちの妻は優秀ですが」
「羨ましい事だな。娘さんは元気かい?」
「さすが双子というところですかね。泣くタイミングも笑うタイミングもピッタリですよ」
「ハハ。生後間もなくだというのに、もう姉妹仲がいいのか」
会話するうち、マヤの表情はいつもの武人然としたものとなる。それが公私の切り替えの境目。マヤは携えていた資料をラデックに渡す。
「ノヴァク大尉。王宮よりクラクフスキ公爵領総督府軍事査閲官エミリア・シレジア准将に王都召還命令が出された。出立予定は8月16日。それに伴い、近衛師団第3騎兵連隊と親衛隊を護衛として移動させる。その際の物資供出と事務面での協力を要請する」
私語を挟まずに形式的な要請をするマヤに対し、ラデックも形式に沿った答えを出す。
「要請、受領します」
彼は資料と軍令を受け取る。行軍日程や行路、人員や馬匹等の情報をザッと見て必要物資の概算を弾き出した。
「丁度いいタイミングで死蔵物資があったから、それを消化させるいい機会だな。ただ携行食糧が足りないかもしれんから、行路途中の町か駐屯地から徴発する必要がある。金と、あと要望書も作成した方がいい」
「そのあたりはラデック殿に任せよう。優秀な補給士官には毎度のことながら頭が下がる」
「俺とクラクフスカ嬢の仲ですから、気にしないでください」
そう言って彼は、手早く必要な事務手続きを済ませる。正確に言えばまだ基地司令官や各部署への通達などが済んでいないが、そこまで難題というわけでもない。
余程の無能か新人でなければ、誰でも問題なく処理できる仕事だ。
とここまで考えていたところで、彼は嫌なことも思い出した。
「はぁ……」
「どうした? リゼル殿が浮気でもしたかい?」
「いや、そこは問題ない。次は男の子が欲しいと言っているくらいだ」
「確かに、彼女の様子を見るに愛の結晶はいくつあっても足りないだろうな……。では、どうしたのだ?」
問うマヤに対して、ラデックはなかなか答えない。
それは「どう言えばいいのか」と判断に迷っている顔であり、言いたくはないというわけではない。
「もうすぐ、人事異動の季節だなと思いましてね」
シレジア王国軍の人事異動は、毎年8月から9月に行われるのが通例である。ただし戦争や国内情勢によっては時期がずれることもあり、実際つい2ヶ月前にも大規模な人事異動があった。
「あぁ、そうだな。ただエーレスンド条約締結による準戦時体制終了に伴う人事異動が少し前に行われたばかりだ。今回は士官学校卒業生の配属が主で、あまり大規模になるとは思えんが」
「だといいんですがね。どうも不安で」
「何がだ?」
再び問うマヤに対するラデックの答えは、大きな溜め息だった。そしてその数秒後、目頭を押さえつつ彼は補給士官ならではの愚痴をこぼす。
「優秀な補給士官って、貴重なんですよ。なにせ不人気輜重兵科を選ぶ人自体が稀ですから」
「あー……」
いつの時代も、補給と言う仕事はその重要さの割に軽視されがちだ。それは目に見えた武勲があらず、派手さに欠ける地味な仕事だからという至極真っ当な感情論から来ている。
そのため優秀な人間はまず武勲を立てやすい兵科に行くか、軍などに入らず市井で活躍するのである。
「輜重兵科って、成績が悪い奴が仕方なく行く、っていうのも多いんですよ。だから余計貴重な人材が……」
「……心中、お察しする」
優秀な補給士官を友人に持つことができたことを、マヤは大いに喜んだという。




