エミリアとマヤ
大陸暦638年7月28日。
「おそらく近日中には、キリス第二帝国とオストマルク帝国は交戦状態に入ります。全面戦争となると東大陸帝国の介入を招く恐れがあるので、地域紛争になるでしょうが」
ユゼフの策略と、遠くオストマルク帝国情報省のある人物の策謀によって戦争が始まろうとしているときの、クラクフ総督府。
この日、ユゼフの口から第七次戦争勃発の予兆が伝えられた。そしてそれと時を同じくして、エミリアからある言葉が発せられた。
「私の父、つまり国王フランツ・シレジアに呼び出されたのです」
「召還命令、ですか」
「そのような大仰なものではない……のですが、暫く私とマヤはクラクフを離れることになるのです。もしオストマルクとキリスが戦争になって、我が国が軍を派遣するようなことになればと思いまして……」
地域紛争で終わるはずだったこの戦争に、シレジアが武力介入することはなかった。もとよりかなりの距離があるため、介入するための資金と物資に困窮する有様なのだから無理はない。
エミリアとマヤとユゼフの話し合いによって、ユゼフとサラとフィーネが観戦武官として現地に赴き、エミリアは護衛を伴って王都へ、マヤがクラクフに残留することとなった。当然、クラクフ駐屯地勤務のラデックとその伴侶リゼルもクラクフに残る。
「ユゼフ」
「はい」
「お腹減ったわ」
「わかりました」
そうして、ユゼフはサラに連行される形で総督府を出たのである。
総督府の敷地内に残されたのは、エミリアとマヤ。
「……殿下、よろしかったのですか?」
「なにがですか、マヤ?」
マヤが眉を顰めながら問い、エミリアは気にせず書類を片付ける。王都へ赴くまで時間がないため、少しでも仕事を減らしておかなければならないためであるが、それは表向きの理由。
「エミリア殿下の婚約のお話ですよ。言わなくてよかったのですか?」
マヤがそう言うと、エミリアは手を止めた。
だがそれは一瞬のことで、傍から見れば書類に何を書きこむかで迷ったかのようにしか見えない。本当に迷ったのは、そんなことではないのだが。
「……言いませんよ。言ったところでユゼフさんも困るだけですし」
静かに、そして穏やかにそう答える彼女の言葉は王女相応のものだったのは確かである。
エミリアはこの年17歳。
王族としては、そろそろ婚約によって政治的地位や権威を確立しておきたい時期。出産適齢期に突入するころでもあり、そして国内外の情勢が比較的穏やかでもあるこの大陸暦638年が最も結婚に適した時期でもある。
「相手は確か、オストマルクの皇族でしたね」
「えぇ。政治的にも妥当なところです。今後両国が友好な関係を結ぼうとするのなら、尚更この儀式は必要です」
「〝儀式〟ですか」
まるで他人事のような物言いに、マヤはしばし困惑せざるを得なかった。
確かに王族の女性として生まれた以上、恋愛結婚なぞ無理もいいところである。まず第一に政治結婚があって、その下に経済結婚、その更に下に恋愛結婚がある。
「しかし殿下。私個人としては、殿下には殿下自身の幸せを掴んでほしいのです」
「だとするなら心配は無用です。私の幸せは国民が幸せに暮らすこと。であれば、その材料となる婚姻には喜んでこの身を捧げましょう」
強く、そう言った……わけではない。
相変わらず、静かに穏やかに、である。マヤとは目を合そうとせず、ただ書類だけを見つめている。そして仕事を片付ける速度に1秒の遅れはない。
「殿下、あえて申し上げます。いえ、ハッキリ申し上げます。結婚とは申しません。彼とそういう関係になることを望んでもなんら問題ないはずです」
確かに、マヤの言う通りである。
結婚を仕事、恋愛を趣味と区別・分離して、恋愛を楽しむ王族もまた多く存在する。元より王族が誰と結婚するのかという話はその本人の自由意思によるものであるという意識がこの大陸に根付いている。
であるから、問題ない。結婚とは言わなくても、恋愛なら問題ないはずだとマヤは言う。
しかしエミリアとて、そこは妥協できる一線ではなかった。
「マヤ」
この話題になったことからはじめて、エミリアはマヤの目を見た。
「〝彼〟というのが誰の事か、皆目見当がつきません」
「…………」
「縦しんば、マヤの言う〝彼〟が私の知る人物であったとしても……その可能性はありません」
エミリアは断言する。
「その人と、私とではあまりにも住む世界が違います。結婚をすれば〝貴賤結婚〟だなんだと騒がれ、たとえそうでなくとも悪い風評が大波のように襲い掛かります」
だからその可能性はない。
再びエミリアは、そう断言した。
「この話は、ここでやめておきましょう。やるべきことはまだ多くありますから」
書類の束を纏めて、次の書類の束に手を伸ばすエミリア。
「…………御意」
そしてマヤは、僅かながら震えるエミリアの手を見ながら、その後雑談に興じることなく黙々と執務を続行するのである。
 




