友人の戯言
大陸暦638年7月末、東大陸帝国皇帝イヴァンⅦ世崩御。
歴史書では、単にそう記されるだけの事実。
だが当事者にとってみれば、それは単なる事実ではない。特に帝位継承権を持つ人間にとっては。
「そうか、やっと死んだか。意外としぶとかったな」
「殿下、口が悪いですよ」
帝位継承者セルゲイ・ロマノフは、この報に際した時は大変喜んだ。というわけではない。悲しい気持ちより喜びの気持ちの方が遥かに上だったことは間違いないが、だからと言って手放しで喜べると言う状況でもない。
「とりあえず大陸中にこの事実を伝える。その間……そうだな、15日は喪に服すように。全国民とは言わないが、公僕くらいにはそう伝えてくれ」
「畏まりました。……戴冠式は、その後に?」
「そうだな。宮内大臣と相談して、日程を調整しよう。あぁそれと、全閣僚を召集してくれ。至急の閣議を開く」
国家の最高権力者が死んだとき、やらねばならないことは多い。
葬儀の準備や国内外への通達、次期皇帝戴冠式や貴族の人心掌握。セルゲイの地盤がほぼ強固なものとなったとはいえ、やるべきことは非常に多く、そして煩雑だ。
その上、帝国宰相としての通常の政務を怠ると言うわけにもいかないのである。
「重要案件以外は後回しだ。キリスとオストマルクの飽くなき隣人トラブルに付き合ってる暇はない。当事国には『介入しない』と伝えろ」
「よろしいのですか?」
「いいんだよ。黒海を北進するとか言い出さなければな」
そのような事情あって、第七次オストマルク=キリス戦争(ただしこの時点ではまだ勃発していない)に東大陸帝国は不介入を決めた。それは軍の最高司令官たる皇帝が不在であるという、至極真っ当な理由からであり、何か策謀を巡らせた結果ではなかった。
だが南の火種を無視する一方で、セルゲイは西に目を向けた。
西にあるのは、言うまでもなくシレジア王国。
「オストマルクとキリスは戦争で忙しいにしても、問題はシレジアだな。皇帝崩御で国内が混乱している時期を狙ってくるという可能性が、ないわけではない」
「……そのような決断、あの国王フランツがなさるとは思えません。良くも悪くも、彼は凡君です」
「フランツの意思というより、そいつの血縁者が問題だな」
「血縁者……? カロル大公とエミリア王女ですか?」
クロイツァーの問いに、セルゲイは首を縦に振る。しかし同時に、クロイツァーの言葉に否定的な表情をするのである。
彼は、セルゲイが「我が国に攻め込んでくるのではないか」という意味でその血縁者の話題を出したのかと考えたのだが、セルゲイは別のものを意識していたのである。
「最近力を付けてきた王女に、最近目立たない大公。我々が皇帝崩御だなんだと騒いでいるうちは介入がないことを踏んで、一気に国内事情を片付けてしまおうと考えるのではないかな?」
「……つまり、内戦ですか?」
「そこまで行かなくとも、なにかしらの行動はするだろう。まぁ、我々としては大公派が勝ってさえくれればあとはどうでもいい」
本当にどうでもいい、とばかりに彼は書類の処理にかかる。通常業務だけでもかなりの量がある帝国宰相職は、雑談をする暇もあたえない。
だがクロイツァーは、ある事実を思い出して雑談を続けるのである。無論、それは業務をある程度妨害することになるのだが、それをしてでも確認すべきことがあった。
「大公派が勝ち、王女派が倒れた場合……殿下が気に入った女性が天に召される可能性もありますが?」
「…………」
セルゲイの筆が止まった。
彼も健全な男である。
彼が健全な男である以上、素敵な女性を好きになりもするし、理想の女性は自分だけのものにしたいとも思うものだ。
そんな彼が生涯初めて求婚した相手が、その隣国の王女だったのである。
「それは困るな」
10秒ほど間を置いて、セルゲイが呟いた。本当に困った顔でもあった。
「軍政共に才覚溢れ、容姿性格共に跳び抜けた女性を殺める奴がいるとすれば、とんだ無能者だと罵りたくなるな」
「しかし、敵対勢力の主でもあります。生かせば害があるだけに、いっそ殺してしまえと叫ぶものもいるでしょう。たとえ王族であっても」
クロイツァーの優しげな物言いに、セルゲイは暫し無言であった。
ただの雑談戯言であるとセルゲイも理解しているのだが、だからと言ってその可能性を無視できるほどセルゲイは諦めがいいというわけでもない。
「じゃあこうしようか。我が親愛なる友人カロルに『もし何か大事を成すつもりなら、王女を傷つけるな』という手紙でも送ろうか?」
冗談じみて、セルゲイが言った。
それに対して、友人クロイツァーも笑いながら答える。
「ではついでに、愛しの王女に愛の言葉を書き綴った手紙を書いてはどうでしょう。女性というものは、いつの時代もこのようなものを好むと言いますし」
「それは妙案だな」
無論、冗談であるからして本当に手紙を書くことはない。少なくとも愛の手紙は書かないとセルゲイは誓っていた。
しかし前者の手紙なら、一考の余地はあるのではと考えてはいた。
それは自分の物にしたいという欲求ではなく、自分の部下にしたいという気持ちがあったのかもしれない。軍政共に才覚溢れる貴族というのは、いつの時代も貴重な存在だ。
そしてこうも思った。
恐らく、愛の手紙とやらではあの女性は見向きもしないだろう、と。
「あの王女は、芸達者な人間よりも自分と同じように優秀な人間か、あるいは凄まじく愚かな者を伴侶とするだろう」
「……そうなのですか?」
「あぁ。勘だけどな」
実際は、セルゲイ自身も恋愛どうこうを語れるほど経験を積んではいない。一応、帝位継承者として婚約者候補はいくつも上がっているが、それを恋愛経験と呼ぶには辞書の改訂が必要になるだろう。
故に彼の見解は明らかな偏見というものだった。
だが、セルゲイの考察は続く。しかも、あらぬ方向に。
「それにあの王女の心は、もう誰かに奪い去られていると思うがね」
「は?」
困惑するクロイツァーを見て、少しセルゲイは優越感に浸る。
なんだ、気付いていないのかと。
「恋愛上手なクロイツァーが気付かないとは、そろそろ俺にも春が来たかな?」
友人と、そしてあのエミリア王女と初めて「個人的な話」をした時にしか見せないような笑顔で彼はそう言った。
問い詰める友人に対して先程彼自身が思いついた「親愛なる友人への手紙」を無理矢理渡し、忙しいからという理由で話題を打ち切った。
実際問題彼は忙しかったのだが、クロイツァーを下がらせ1人で政務に没頭する中、ふと彼は独り呟いた。
「求婚した相手との会談に、女の護衛官ではなく男の士官を連れてくるということは、そういうことなんだろうな。それに気づかないなんて男失格だ」
それは友人に向けたものだったはずだが、この場合は無意識に別の人間にも放ったことになるのだが、そんなことはセルゲイの知る由もなかった。
 




