ヘレス海峡海戦 ‐投錨‐
グライコス艦隊が、ヘレス海峡出口に到達したのは10月30日のこと。
そして連絡船によって、黒海艦隊が海峡に突入したという情報がもたらされてのも、その日の事だった。
「ここで黒海艦隊を出待ちしたいけど……ちょっと無理そうだな」
このヘレス海峡、潮の流れが強いのだ。
地図を見ればその理由は明瞭。陸に挟まれているということは風が複雑ということで、海が狭いと言うことはそれだけ流れが速くなると言うこと。
加えて、黒海・アルマラ海は陸地に囲まれた「地中海」でもある。
そういう海は、潮汐による海面変動がない代わりに、雨とか河川からの流入とか、そういう条件で常に海面が不規則に変動している。
専門的な事はさておいて、簡単に言えば、黒海からエーゲ海へ流入する水の量が多くてヘレス海峡の潮流が速いということだ。
潮流が速ければ、それだけ操船は難しくなる。新兵だらけの状況ではきつい。
「どうするんだい、軍事顧問殿」
そういう状況がわかっている海の男、ライザー准将はからかってるようなそうでないような口調で語りかけてきた。
「海峡出口は見ての通り、潮の流れが激しくかつ複雑だ。これなら、たぶん海峡に突っ込んだほうが流れが一定だからまだマシだぞ?」
「……なら、そうしましょうか」
「は?」
准将閣下がそう不思議がるのはおかしいのではないでしょうか。
「フィーネさん曰く、ベルハルミまでは大丈夫らしいですからそこまで突っ込んじゃいましょう」
「冗談で言ったつもりだったんだが」
「仕方ないじゃないですか。ここで出待ちするのは、准将閣下の言う通り問題が多いのも確かなんですから」
潮流が複雑な海峡出口よりは、速くても一定方向の海峡の中の方がいい。
「それに黒海艦隊はかならず海峡を通過しますから」
「だが、海峡の中では艦隊運動がとりにくいぞ?」
「どうせ新兵連中に有機的な艦隊運動なんて無理でしょう?」
「それもそうだが……」
准将はボリボリと頭を掻いて、数秒逡巡してから艦隊を海峡方面に動かすように命令を下してくれた。なんだかんだと協力的な将官はいい。
その辺はどっかの変態となると、いやこの話はよそう。
「ところで」
「なんです?」
「御嬢さんらはどうした?」
御嬢さんら、というのはサラとフィーネさんのことだろう。
まさか俺が御嬢さん扱いされているはずもなし。
「島に置いてきましたよ」
「理由は?」
「……サラが体調不良なので、そのせいです」
勝利の女神ことサラさん、決戦前に風邪。
嫌な予感しかしない。
こんな時期に何やってるんだと言いたくなるが、彼女は彼女で理由はある。フィーネさんによると、
『ユゼフ少佐の、マリノフスカ少佐が訓練指揮を執ればなんとかなるのではないか、という言葉を信じた彼女が裏でコッソリ新兵訓練をしていたようです。数日で効果があったかは疑わしいですが、その無茶が祟ったのでしょう』
ということである。
そのためサラはイムロズ島で療養。フィーネさんにサラを頼んでおいた。サラもフィーネさんも嫌な顔をしていたが、それ以外に方法がなかったもので。
なんというか、2人共ごめんなさい。
お土産は「勝利」でいいかな?
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海峡に入り、潮の流れが変わる。北東から南西方向に、物凄い速さの潮流である。
さらに、風はかなり複雑だ。
「速度は3ノットが精々だ。それ以上は期待しないでくれ」
3ノット。換算すると時速5キロ。徒歩とほぼ同じ速さだ。潮流がグライコス艦隊進行方向の逆で、風向きも気紛れとあっては、それ以上の速度を出すのは難しい。
それでもなんとかして、4時間かけてベルハルミ沖に到着。
まぁ“沖”と言っても幅が3キロ程しかないのだが。
「で、ここまで来たのはいいが、どうするんだい? 時間的に考えて、敵はもうすぐそこだと思うが?」
どうするのか、というのはこの風と潮のことを言っているのだろう。
陸地に挟まれ風が複雑で、潮の流れが速くて操船は困難なところで艦隊戦をしようなどと言い出す訳ないよね? という意味。
無論、その無謀さは俺にだってわかる。しかも今回は数的・質的不利でもある。
真っ当に戦って勝てるはずもなし。
あまり使いたくはないが、ハイリスクな「邪道」に賭けるしか方法がない。
「海峡から見て垂直方向に艦を並べて『投錨』します」
「……投錨、だと? 敵が近づいているのにか?」
投錨。普通は、港に入って船を止めるために出す命令だ。
それを戦場でやれ、というのは確かに不思議だろう。
「敵に比して我が軍は数的・質的に不利で真っ当な戦術で挑めば負けるのは必至です。ですから、ここで錨を下ろして止めてしまった方がいいでしょう。新兵たちもその方がいいはずです」
つまり、海上固定砲台にするのだ。
艦を固定しておけば、練度が低い新兵でも魔術攻撃しやすくなる。
それに今回は敵が近づいてくるのはわかっている。しかもここは狭隘な海峡と来た。であれば、わざわざこちらから出向いてやる理由はない。
「接近戦となれば照準もしやすいし、数的不利もなんとかなるということか」
「そういうことです」
丁字有利に固定砲台と化した艦隊。数的・質的な不利は、これである程度解消できるはずだ。
……問題がないわけでもない。固定砲台は、敵にとっても当てやすいということなのだから。
色々追記。ちょっと長いです。
【地図(割と適当)】
広域地図
ヘレス海峡周辺図
【背景】
キリス第二帝国イズミル海軍基地には、有力な艦隊が存在する。
教皇海軍はエーゲ海制海権を掌握すべく、イズミルを封鎖。
数的不利に立つキリス海軍イズミル駐留艦隊は、損害を恐れて出港できず。
【経過】
①キリス南大陸艦隊、陽動の為出撃
②教皇海軍イズミル封鎖艦隊、キリス南大陸艦隊牽制のため戦力を抽出
③キリス黒海艦隊、ヘレス海峡突破を目論み出撃
④イズミル封鎖艦隊支援の為、帝国グライコス艦隊出撃
⑤キリス黒海艦隊出現の報告を受けたグライコス艦隊が、ヘレス海峡内にて迎撃態勢を取る(今ここ)
【キリスの作戦目標】
黒海艦隊をエーゲ海に投入させ、イズミル駐留艦隊と合流し数的不利を挽回します。
場合によっては、イズミル封鎖艦隊に多大な損害を与えられ、数的有利も視野に入ります。
黒海艦隊が海峡を突破する前に、陽動に引っ掛かった敵艦隊がエーゲ海に戻ってくると作戦は失敗です。
勿論、黒海艦隊が壊滅しても失敗です。その場合黒海の制海権も失うため、キリスは海軍による反撃は不可能になるでしょう。
【オストマルクの目標】
黒海艦隊の突破を防ぐことです。もし突破された場合、イズミル封鎖艦隊が挟撃され、場合によっては壊滅する可能性があります。
壊滅しなくても、悪化する戦況を見た神聖ティレニア教皇国が「旨味なし」と判断して撤退するかもしれません。
オストマルク帝国海軍は単独でキリス海軍に立ち向かえるほど強力ではないため、制海権を一気に失う恐れがあります。
しかし黒海艦隊の突破を許さず、逆に壊滅させることが出来れば、講和会議開催の目途も立つでしょう。




