セレスの戦い ‐夜の帳‐
遡って、9月30日。
シレジア王国軍事顧問団ユゼフ・ワレサ、サラ・マリノフスカと、オストマルク帝国情報省所属武官フィーネ・フォン・リンツ乗せた艦隊がサロニカ沖を航行していた。
「陸の様子は……わかるはずもないか。海の上だし」
寸前にまで迫った陸、キリス第二帝国領グライコス地方の海岸を見ながらユゼフは溜め息を吐いた。そんな彼に応答するのは、情報の専門家たるフィーネである。
「わかりませんね。馬は海の上を走りませんので」
「…………あぁ、無線の偉大さがよくわかるよ……」
「は? 今なんと?」
「こっちの話」
「はぁ……」
ユゼフは飄々と、ここではない世界の話をしているが彼の頭の中ではちゃんとこの世界の事を考えていた。
彼の思考はひとつ。先日、小型連絡船によって伝えられたある命令。名目上オストマルク帝国軍クライン大将の部下の、そのさらに下についていることになっているユゼフとしては、これを拒否する権限も勇気もなかった。
「報連相すべてが欠如した状態で陸と連携しろ、という無茶ぶり。あの変態め……」
今日何度目かの溜め息。
ユゼフの傍に立つサラは、そんな彼を軽く小突いた。
「そうは言っても、それ以外しようもないじゃない。まさかユゼフ、このままエーゲ海クルーズするわけ?」
「それはそれでいいかも」
「あのねぇ……」
「冗談」
「ったく、もう……」
そう悪態をつきつつも、「でもユゼフと一緒ならそれはそれでいいかも」と妄想するサラである。その状況を打ち破るのは、いつだって空気の読めないユゼフ自身であった。
「ま、サラの言う通りいつまでも船の上にいたくはないし、変態に恩を売るというのもなかなか面白そうだから戦闘準備といきましょうかね」
「…………」
「えっと、サラのその目は何」
「別に」
こうして船団は、オストマルク帝国軍陸戦隊3000を乗せて北上を続ける。
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10月1日、20時20分。
太陽は完全に没し、帝国軍と中央軍の戦いは一段落ついて終了する。闇が支配する夜は、視界を奪われ真面に戦闘は出来ない。
特に、万単位の人間が会する戦場においては顕著な弊害が発生する。
脱走、友軍相撃、眠気による士気低下など。
そのため夜は戦火を交えず、ただ今日も生き残ったことを戦の女神に感謝し、ご飯にありつけることを補給部隊に感謝し、そして明日また同じことを思えるよう神に祈りつつ仲間と談話し、そして眠るのである。
「来た! フラッシュだ! っつーわけで、干し肉は俺のものだ!」
「残念だったなテオ。これは俺の勝ちだ。クイーン3枚にジョーカー1枚。フォーカードだ」
「なっ……、お前イカサマしたな!?」
「してねーしできねーよ。だから肉寄越せ、肉」
「2人ともつえーなー、オレなんて5回連続ブタだぜ? ワンペアすら出んぞ」
「イリアスは運の神を呪った方がいいぞ」
無論、このように戦の女神に感謝せず運の神を呪うという例外もあるのだが。
キリス第二帝国軍サロニカ守備隊に所属する彼らは、補給部隊に感謝することをしていない。籠城戦にあって物資が困窮していた彼らにとって、味気ない干し肉であっても大変な馳走である。むしろ食事にありつけるということ自体が奇蹟だ。
彼らが感謝すべきは補給部隊ではなく、物資を供出してくれたサロニカ市民であることは間違いはない。
「オレは勝利の女神を呪うよ。あんなに祈ったのにまだ勝てやしない。数で勝ってるから勝てる、とか中隊長言ってなかったか?」
「確かにな」
戦術的に有利に立っているはずの彼らが、敵を目の前にして夜を迎えることになるとは予想外であっただろう。貧窮するサロニカ守備隊の補給事情を考慮すれば、それはゆゆしき事態であったはずだ。
「しかし、勝利の女神なんて呪ったら大変だぞ。いつバチが当たるやら……」
「いいんだよ。その代わり運の神とやらがオレに媚び売ってくるはずだからな」
「どういう理屈だよ、それ」
彼らは談笑し、第6幕だと言わんばかりにカードを切る。
歩哨の交代時間が過ぎていることにさえ気づかないほどに、彼らはゲームに夢中になっていた。
「畜生、またブタだ!」
イリアスは叫び、カードを地面に叩きつけた。そのすぐ後に仲間たちの笑い声が聞こえる――はずだった。
彼に聞こえたのは笑い声ではなく、風を切る音、そして仲間の声にならない断末魔だった。
イリアスが見れば、仲間の首には矢が突き刺さり、心臓の鼓動と連動して血が勢いよく噴き出していた。その光景を見たイリアスは尻餅をつき、叫ぶこともできずただ失禁した。
「い、いいいったい、何が……!」
その言葉を最後に、イリアスも絶命した。
彼が仲間より数秒長く生きながらえたのは運の神の媚びの結果なのか、それとも彼が仲間の死を目にしながら絶命したのは勝利の女神のバチなのか。
それを知るものは、この世界にいるはずもなかった。
代わりにこの事象に答えたのは、背後の闇から現れた男。彼は幾人もの部下を引き連れ、そして傍らに立つ者に囁くように喋った。
「司令部に連絡。キリス軍歩哨と思わしき者らを排除した、と」
それは、オストマルク帝国軍陸戦隊に所属する下士官であった。
「奴ら、いくら後方とは言え呑気にポーカーをしていたようだ。もしかすると、本隊が近く油断していたのかもしれないな」
「では、このまま襲撃しますか?」
「あぁ、そうだな。司令部もそう判断するかもしれない。その間に、俺らは敵の歩哨をできるだけ潰す。他の部隊との連携も忘れないようにな」
「ハッ!」
下士官の命令によって、部下は音を立てず、無駄口を叩かず、静かに行動を開始した。
この時、オストマルク帝国軍はサロニカやセレスといった地点から離れた海岸に上陸を果たし、敵に見つからないよう細心の注意を払いつつ北上することに成功していたのである。
ティベリウス軍ほどではないにしても、かなりの強行軍であったことは否めない。しかし、その効果は絶大であった。
中央軍サロニカ守備隊指揮官が、歩哨排除されたことに気付いたのに時間はそうかからなかった。それは定時連絡が途絶えはじめたという、典型的な事例があったからである。
指揮官たるグレコ少将は「夜襲、あるいは払暁奇襲の恐れあり」と見做して警戒態勢を取らせたことは、ごく自然の成り行きである。どんな無能でさえ、これには気づくだろう。
「どうやって後ろに回り込んできたか知らんが、奇襲してきた部隊を返り討ちにしてやるぞ! 総員起こーし! 戦闘配置につけ!」
21時丁度。
グレコ少将は麾下の将兵を叩き起こし、戦闘準備をさせる。どこから部隊が来ようとも、奇襲というものの関係上絶対的な兵力差で言えば中央軍有利であり、態勢を整えてしまえばこちらのものだ、と彼は考えた。
無論その理屈は正しいのだが、問題は「そんなことは帝国軍も知っている」というものである。
結局、この日の夜には奇襲はなかった。朝になっても来なかった。
交代で休ませたとはいえ、グレコ少将麾下の将兵約8000名は睡眠不足のまま10月2日を迎えてしまったのである。
それはさらなる士気の低下と攻勢意欲の減退を引き起こしたのは間違いない。しかしそれ以上に重大な事態が、彼らの前に、いや彼らの後ろで起きていた。
「た、大変だ! 後方に敵大部隊、サロニカに向かっているぞ!!」




