晴れ、のちに砂嵐
キリス第二帝国の政治的中枢、叡智宮にとってクレタ失陥は「予想外の事態」と言うしかなかった。
エーゲ海周辺におけるキリス軍の軍事行動は全て、エーゲ海の制海権がキリス海軍が完全に掌握していることが前提だったのである。補給や増援、中央政府から最前線へ至る通信。これら殆どの機能をクレタに依存していた。
それがティレニアの持つ強力な海軍力によって粉砕され、クレタ島を失陥したことによって戦争政策の根本的見直しを余儀なくされる。
9月22日。
クレタ失陥以降何度も開かれた緊急御前会議がその日も開催された。議題は当然、悪化するグライコス地方の戦況と今後の戦争政策の作成である。
「講和です! 講和するしか他に手はありません! 今講和すればまだ被害は小さいはずです!」
会議劈頭、そう叫んだのはキリス第二帝国において外交を担当する書記官長だった。
彼は外交的にキリスが極めて不利で、オストマルク・ティレニア連合が有利に立っていることを主張したのである。こちらは孤独で敵は同盟を組む。国力差は歴然だった。
書記官長のその言葉に同調したのは、財務担当の財務官長。
「私めも書記官長殿の言葉に賛同いたします。クレタ失陥以降、グライコス地方向けの通商はほぼ停止しています。本土の交易商人からの不満は高く、税収は落ちる一方です」
財務官長は、キリス第二帝国内の財政・経済や治安を気にしていた。
戦争の長期化はより一層の税収低下と軍事費の増大を招く。国内の不満を押さえつけるのが大変であり、それがまた財政を火の車にしていたのである。
だがこの2人の言葉をすぐに否定するものが現れる。当事者である、軍人官長だった。
「軍事の素人であるお二方にはそう見えるかもしれませんが、私としては講和は時期尚早と考える」
「……軍人官長殿は大した自信があるようだが、いったいどういうことかね?」
「書記官長殿の仰る通り、我々は不利に立たされている。だがしかしそれが決定的というわけではないのだ。我々にはまだ逆転の機会はあるのだ」
彼の言葉には、自分の職責をバカにされたという感情的な理由によって反論したようにも思える。だが、彼にも言い分はあった。
その言い分は、この御前会議の場において一番の発言権を持つ男、即ち皇帝バシレイオスⅣ世である。
バシレイオスⅣ世は政敵であるティベリウスを敵視するあまり、最前線へ増援や補給を怠るよう自分に命令してきたのである。それに反発できるだけの権限が軍人官長にはなく、彼はそれに従うしかなかった。
なまじクレタ失陥以前までの東部戦域が、ティベリウスの軍事的才覚によって有利に進んでいただけに、この事態は皮肉と言うしかなかった。
「本土の部隊を最前線に、とりあえず優勢な東部戦域に向けて防御を固める。この際、アクロポリスの奪回は後回しだ」
「しかし軍人官長殿、それは彼らに実質的領有の機会を与えてしまうぞ」
「危険は承知の上だが、しかし戦線の集約は必要不可欠。であれば陸路での補給を見込める東部戦域に傾注した方がいい。中部戦域サロニカについては状況次第だ」
ティベリウスに対する嫌がらせを止める。それだけで状況は五分に戻せる。そう軍人官長は考えていた。
そして東部戦域を保持し続けることに、彼は唯一の勝機を見出していた。
「ミクラガルドの海峡を我々が保持している限り、黒海方面艦隊をエーゲ海に派遣できる余地が生まれる。そうすれば、再び艦隊決戦に挑める」
「だがそれでは黒海が疎かになるぞ。オストマルク黒海艦隊や、東大陸帝国セヴァストポリ要塞駐留艦隊の脅威はあるのだろう?」
「背に腹は代えられない。それに東大陸帝国は今回の戦争に対して良くも悪くも不介入の宣言を出している。セヴァストポリの脅威はこの際無視して良い」
「うむ……しかし……」
軍人官長の言葉に、財務官長は言い返すことはできない。彼らは軍事において素人であり、事軍事において彼を言い負かすだけの弁術を持ちあわせていない。
それに対し、真っ先に講和を主張した書記官長は負けじと反論する。
「軍人官長殿言葉には一理あるかもしれない。だがその事態をオストマルクが黙って見ているとは思えませんな。黒海方面艦隊が動けば、自然オストマルクも動くはずです」
「書記官長殿の意見も言う通りだ。黒海戦力も拮抗しているし必ず勝つという保証はない」
「では……!」
「では、どうするというのだ。このまま講和するとしたら我々には相当不利な条約が結ばされるに決まっている。それは書記官長殿が一番わかっているはずだ」
純軍事的に不利であるキリスに取れる選択肢は少ない。負けたから講和しましょうなどと言えば、確実に足下を見られる。クレタ島、アクロポリス、及び周辺諸都市諸島の割譲がなるかもしれない。それを行えば国内の不満が一気に爆発し、内戦にさえなりかねない。
彼はそれを懸念していた。
「いや、彼らオストマルクが大陸東部に構築しようとしている新秩序に我々が参加するという手もあるやもしれない。そうなれば彼らは譲歩してくるかもしれん」
それは、エーレスンド条約におけるシレジア王国の行動から分析した、彼らの結論である。オストマルク主導の新秩序体制の構築。第七次戦争はその新秩序体制構築の前哨戦であると。
軍人官長もその書記官長の推測に賛同はしていたが、しかしこの場において新秩序体制に参加するのは言語道断というのが彼の意見でもあった。
「……もし彼らが寛大な譲歩をしてきたとしても、問題となるのはその後だ。バシレイオス陛下の玉体を要求し、親オストマルク派閥の新政権を擁立させようななどと考えるかもしれん」
皇帝バシレイオスⅣ世のいる御前会議で、彼は極めて危険な発言をした。仮定の話だとしても、皇帝の目の前でその話をするというのは。当然、書記官長が叫んだ。
「軍人官長殿! それ以上の発言は……!」
「だが、考えられる未来だ。それを防ぐための会議ではなかったのか?」
「……」
書記官長は言葉に詰まる。
だが軍人官長も自信満々だったというわけではない。一度不利となった戦況は、覆すのは相当至難の業である。それこそ、春戦争における東大陸帝国のように。
「……これでは結論が出ませんな」
それまでずっと言葉を発さず、ただ成り行きを見守っていた司法を御する立場にある法官官長が口を開いた。専門家の意見を聞いてから中立的な意見を述べるつもりであった、と彼は後に述懐していたがそれが本当かどうかは定かではない。
むしろどちらかと言えば、中立と言うより日和見であった。法官官長は上座を仰ぎ見る。
「大宰相殿は如何お考えですか?」
この国のナンバー2。法官官長と同じくそれまで口を閉ざしていた大宰相オルハン・クルバンガリーが口を開いた。
「…………軍人官長の意見に賛同する。我々の目的はオストマルク新秩序に対する抵抗であるはずだ。それに屈することはできない」
クルバンガリーのこの言葉で、御前会議の結論は定まった。もはや政敵がどうのと言っている状況ではないことを、彼も理解していた。
法官官長のおかげで大宰相の言質を得た軍人官長は、続いて皇帝バシレイオスⅣ世の許可を求める。
「陛下。ティベリウス殿下に対する増援の許可を」
「……帥に任せよう。侵略者共に正義の鉄槌を」
「御意。必ずや、陛下のご期待に応えましょう」
こうして、軍人官長の命によって増援の派遣が決定。さらにティベリウスを大将へ昇進させることも追加で決められた。二階級特進は死者に送られるものだが、例外中の例外ということだった。
だが、この決定はあまりにも遅かった。
9月22日の御前会議のその裏で、ティベリウスは部下の熱狂に呑まれ、第二帝国に対する反逆の意思を表明したのであるから。
追記)私の活動報告/Twitterにて『大陸英雄戦記3』のラフ画公開中です。




