クレタへ
教皇海軍ベルミリオ大将は困惑していた。
無理もない。仮想敵国オストマルクを支援するためにキリス海軍と戦えと上から言われ、嫌々オストマルク海軍基地に来てみれば、そこにいたのはオストマルク帝国軍の女性士官1人と、そのオストマルクと険悪な関係にあったはずのシレジア王国の士官が2人。
さらに驚くべきことにその3人の士官が、ベルミリオ大将より20以上年下だった点であったこと。そして、
「オロロロッロロロロッロロロロロッロロッロロオロ」
「ユゼフって相変わらず船ダメよね……」
その中にいた士官の1人がとてもじゃないが優秀な軍人には見えない、ということである。
ベルミリオは、オストマルク帝国軍の銀髪の女性士官フィーネ・フォン・リンツ中尉が士官学校を卒業したばかりの人間だということはすぐに気付いた。見かける度に何かしらの資料や筆記具を持っていることから、情報武官か補給担当官と予想がついた。
一方の、シレジア王国軍の女性士官サラ・マリノフスカ少佐はその人物とは対照的である。鮮血色の髪と目と、彼女の放つ雰囲気は前線指揮官そのもの。まだ若いにも拘わらず、彼女の目は幾多の修羅場を駆け抜けた猛禽類のようであった。
そして肝心の人物、ユゼフ・ワレサ少佐はどう表現していいか困る人間だった。
おおよそ軍人には見えない体格と顔。それだけならまだ良いが、しかし彼から放たれる雰囲気は軍人というよりは八百屋の主人の道楽息子といった感じであったため、それがベルミリオを混乱させた。
彼はケルキラを出港してからすぐに船酔いの症状を訴え、そして現在彼は誰よりも不快な思いをしつつ南海の魚に餌をやる作業に追われている。
……しばらく魚は控えよう。
そうベルミリオが思ってしまうくらいには彼はその作業に熱中していた。
ユゼフの船酔いに一段落がついたのは、教皇海軍第2艦隊がケルキラを出港した翌日の9月6日のことだった。
「御見苦しい場面を度々見せてしまい申し訳ありません、閣下……」
血をリットル単位で抜いたような青い顔をしながら、ユゼフはそう謝罪した。軍人の癖に軟な奴だと罵倒してやろうかと思っていたが、そんな謝罪を受けてしまっては然しものベルミリオは彼のその軟弱な身体を叱責することはできず、その代わりにベルミリオはユゼフを心配そうに見つめた。
「あー……、貴官は身体の調子は大丈夫なのか?」
「万全、というわけではありませんが作戦遂行に影響は出ない程度には平気です」
「そ、そうか……」
最早何も言うまい。
ベルミリオは彼の身体の回復を時間経過によって治ることを期待した。船酔いというものは数日もすれば治るものだと彼は経験的に知っている。故にそれを待つことにした。
だが、ユゼフはそれに構わずに事を進める。
ユゼフとベルミリオ、そして艦隊司令部要員とユゼフ以外の軍事顧問団は、第2艦隊旗艦「グイード」艦尾にある司令官室に集まっていた。
一等戦列艦と雖も空間的余裕がない船であるため、司令官室は会議室も兼ねていた。
そしてベルミリオ、いやその場に集まっている者の中の誰もが驚いたことに、この船酔いで今にも倒れそうな顔色をしているユゼフ・ワレサ少佐司会によって、会議が進められることになったのである。
「それでは、フィ……。コホン。失礼、我が軍事顧問団の一員である情報省第一部所属武官リンツ中尉から提供された情報を基に、栄光の教皇海軍が取るべき行動を決めたいと思います」
ユゼフは時折言葉を止め水分の補給をしつつ、今ある情報を確認する。
キリス第二帝国海軍南海方面艦隊は8月31日にエーゲ海にあるイズミル海軍基地を出港。2日後の9月2日にクレタ島ハニア軍港に到着した模様。
「そしてこのイズミル海軍基地のキリス海軍南海方面艦隊の規模ですが、平時戦力は一等戦列艦6隻、二等戦列艦10隻を主力とし、その他巡防艦などの中型・小型艦が35隻存在。合計は51隻です」
体調不良を感じさせないユゼフの言葉に、教皇海軍の士官らは目を丸くした。顔は完全に死人のそれであるのに、放たれる言葉は年齢以上の落ち着きを感じさせるものであった。
ユゼフという人間が軍事顧問団の中でリーダーシップを取っているのか、ベルミリオに理解させた瞬間であった。しかし、彼の能力はまだ未知数。落ち着いているだけの無能かもしれない。
「51隻でも、我が第2艦隊の数を上回っているな?」
「はい。ですがそれは平時戦力の総計であります。グライコス地方への輸送船団を護衛する船や、沿岸警備なども含まれており、当然それらの艦はハニア軍港にありません。子細な数はわかりませんが、この第2艦隊と同数か、それよりも少し上回るほどだと思います」
ユゼフの言葉に、ベルミリオも同意する。教皇海軍が出撃していることはキリスもわかっている以上、まさかそれを下回る艦数で出撃するはずはないのだから。
「とすると、ハニアにいるキリス海軍の戦力は40隻といったところか」
「おそらく」
そしてベルミリオは視線をユゼフからクレタ島周辺の海図に目を向けた。
「航海長によると、我が第2艦隊は現在クレタ島から西に約200乃至250キロの海域を航行している」
天測と、艦隊の速度と時間から、大まかな艦隊の位置は割り出せる。だが問題となるのは自艦隊の位置よりも敵艦隊の位置である。
「ワレサ少佐。キリス艦隊との予想接触海域はどこだ?」
それが簡単にわかれば苦労はしない、と教皇海軍の士官らは誰もが思った。陸のように細かに偵察部隊を派遣できないこの広い海では、敵を見つけることすら困難な作業である。それは無論、ベルミリオもわかっていた。
ベルミリオのこの質問はユゼフを試すものだった。この少年が階級に相応しい能力を持っているのかという重大な問いに対する答えとして。
この回答困難な問いに対してどう答えるのか、彼は興味があった。
しかしベルミリオの期待に反して、ユゼフは即答した。
「アンティキティラ海峡付近でしょう」
「……根拠は?」
「根拠は、クレタ島の地勢です」
クレタ島は東西に非常に細長く、そして急峻な山々を持っている。最も幅が狭い場所は南北に12キロしかない島に、2000メートル級の山々が連なるのである。そしてその山脈はクレタの中央から少し南側にあるのだ。
自然の流れとして、クレタは北側に都市を築き、港を作り、そしてそこに軍を置いた。
「北側に重要都市、軍施設が集中する関係上、キリス艦隊は北側を守ろうとするでしょう。そしてキリスが教皇海軍の疲弊を最大に溜まり、かつ地の利を得て確実に撃破できる海域となると、自然と接敵予想海域は限られてきます」
クレタの南側からクレタの北側に回り込もうとするならば東西どちらかの海峡を突破しなければならないのは明白である。しかしクレタ東側はキリス本国に近づき過ぎて危険である。となると、先程ユゼフが言った言葉が結論となる。
「よって私は、キリス第二帝国南海方面海軍はクレタ島の西、幅80キロ弱のアンティキティラ海峡の周辺に布陣していると考えます。そこがキリス艦隊が最大限の力を発揮できる場所だからです」
ユゼフは、そう明言した。ほぼ確実にそこに敵がいると言ってみせた。ベルミリオはそれに満足し、具体的な作戦案を決めようと口を――開くことができなかった。ユゼフが、言葉を続けたからである。
「だからこそ、勝機があると私は考えます」
その毅然とした言葉と共に、彼は持っていた紙をベルミリオに見せた。それを見たベルミリオは感心し、そしてこうも思った。
この男、船酔い状態でなければもっとすごいのだろうか、と。




